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人魚のまなざし

作者: ゆいなぴー

 潮の香り、穏やかな初夏。私は堤防の上を一人で歩いていた。昼間の人通り少ないさびれた港町は、私にいっとう親切なのだ。でたらめなメロディーを口ずさむ。音は気持ちよく青空に吸い込まれていく。

 洋子チャンは、どうしてしゃべらないの。

 私は人魚姫だったの。でも、海の中の生活は耐え難くて、なんだか居ても立っても居られなくなって。魔女に言葉を売って脚を手に入れたの。後悔はしていないわ。だってこんなに走れる。

 私は一人で堤防の上を駆ける。潮の空気が私のために裂けめを作って、いいぞ、いいぞとはやし立てる。日に焼けた丈夫な四肢、少し汗ばむ身体、自由なワタシ。どこまでもどこまでも、走っていけそうな気がする。

 海の中も、悪くはなかったのよ。ゆらり、ゆらりと過ぎる毎日、波に身体をまかせて。

 洋子チャンは、どうしてしゃべらないの。

 ねえ、言葉って何かしら。大切なものは失ってはじめて気づくというじゃない。けれど私は言葉を失ってからも、それが何だったか分からないの。ええ、自分の中に響く言葉はこうして存在するわ。不思議ね。

 足を止めて、遠くの山を見上げる。学校のチャイムの音が聞こえてきた。ランチタイムだ。

 山の彼方の空遠く 幸い住むと 人の言う

 あの山の向こうにも、サイワイが住んでいるのかしら。私は大きなポケットの中からひしゃげたおにぎりを取り出して食べた。サイワイって、何かしら。もう少し大きくなったら、誰かがそっと教えてくれるかしら。

 おにぎりは一口につき五〇回噛んで飲み込む。イチ、ニイ、サン、シイ……。小さな言葉で。

 海の中も、悪くはなかったのよ。ただ、なんだかとっても、居ても立っても居られなくなって。あなたにもわかるかしら、身体の奥がむずむずして、膨れ上がった大きな袋の中で水が出口を探して無我夢中に走り回るの。暗い暗い袋の中で、ごうごう、と音を立てて。何かをしたい、っていう積極的な気持ちじゃないわ。自分の身体の中心がどうしようもなく痒いようにのたうち回って、少しでも気を許したら何かがあふれてきて、どうしても元に戻らなくて、取り返しのつかないことになってしまいそうで。本当にそれだけなの。それだけになってしまうの。

 おにぎりをすっかり食べきると、お腹のあたりがじんわりとして心地よかった。これは何かに似ているわ、と思って自分の頭のてっぺんを手のひら全体で撫でる。それはお日さまにすっかり温められた、やわらかくしなやかな髪の感触。

 だから本当に、しゃべれないのって、大したことないのよ。




 きみの秘密を教えておくれ きみの秘密を教えておくれ

 ほら 砂時計の砂があとわずかしかない

 もったいぶっていぶっているのは 怖いのかい 恥ずかしいのかい

 心配することはない すべてはやがて闇にのまれて 

 大きな白い牛の骨が ことこと笑って冥い井戸にすべり落ちるだけさ!




 水平線を指でなぞる。一体どんな画材を使えばこの線は描けるのだろう。

 少女は堤防に腰かけて気ままに足をぶらつかせていた。ふと自分の脚を見、隣にいる洋子のごぼう足と見比べてつぶやいた。

「あんたってスタイルいいよねえ。どんな服でも思いのままに着こなせそう」

 水平線に手を伸ばす。指先ではさらさらとした空気が流れている。これがきっと水平線のさわり心地なのだ。

「うち太ってるから……。なかなか身体にぴったりと合う服がないの。でも、だから、自分に合った服に出会えたら、嬉しくてたまらないんだ。身体にも心にもぴったり合った服。きっとシアワセって、そういう形してる。うち、デザイナーになるのが夢なんだ」

 洋子はお椀を持つようにそっと手のひらをすぼめて、少女のふくよかな頬に触れた。夕陽と恥じらいに色づけられた、やわらかくなめらかな頬。少女はその身を任せたまま潮の香りの中で厚い瞼を閉じた。

「もちろん、どんな服もカッコよく着こなせるシアワセもある。それを目指してダイエットを頑張っている人たちもいて、その努力の中で味わえるちょっとした達成感とか、それもきっとシアワセ。でもうちは食べるのが好きだから我慢してまで痩せようとは思わない。だって食べるシアワセが痩せるシアワセに勝っているんだもん、我慢したくない。だからうちが太ってるからって可哀そうって思ってほしくないんだ。結局みんな、そこを分かってくれない」

 水平線はとろけるほどに燃えさかる夕陽に照らされて、心許なさそうにゆらめいている。潮の香りが一層濃くなって辺りを包み込んだ。きっと水平線は自分が幻影だと気づいているのかもしれない。




 大きな白い牛の骨、その頭蓋にぽっかり空いた二つの穴に、あるはずのない目玉がぎょろりと光る。目玉は穴の中でせわしなく動きまわり続け、瞼が無いので休ませてやることもできない。何を探し求めているのか、はたまた何から目を逸らせようとしているのか。突然、熱く熱く燃えさかる二本の矢がひょうと唸って目玉を射抜いた。熱い、熱くてたまらない。それでも目玉は狂ったように動きまわる。少女は耐えきれず叫び声を上げて地団太を踏んだ。少女の影が滑稽に踊る。

 何をしたって影を引き離すことなんてできないんだわ。まるでアトラスがこの地球を背負い続けるように。私たちって、運命からは逃れられないのかしら。それとも逃れられない運命の下にあるのかしら。

 少女は井戸に向かい、身をよじって叫ぶ。許しを乞うように、狂ったように、細く長く叫ぶ。

 牛の頭蓋はことこと笑ってそれを拒絶し、真っ逆さまに井戸の中に落ちた。ひゅるひゅるひゅるひゅる……。


 底無しの井戸。


 ねえ、想像するところから責任は始まるの。言葉はきっと、想像の燃えかすにすぎないんだわ。




 喫茶店に入り、すぐさまグラスの水を飲みほした。六月は俳句で夏の季語を使う。結構なことだ。

「遅いじゃない」

 モナカがけだるそうに視線を投げてよこした。彼女のテーブルにはすでにピスタチオの殻が小山を成している。

 実際、僕が時間に遅れるということはない。そのように生まれついているのだ。だいたい彼女と待ち合わせなんてしたことはないし、いつでも彼女は不機嫌にここで僕を待っているのだ。

「僕のせいじゃないさ」

 店主がコカ・コーラの瓶を無言で目の前に置いた。いつものことだ。確かにのどは渇いているが、正直いい気分はしない。僕はあまりコカ・コーラが好きではないのだ。かといって嫌いなわけでもないので、怒り狂って突き返すようなまねはしない。黙ってグラスに注ぐ。そのように生まれついているのだ。

「あなたのせいでもあるわ」

「きみが好きなんだろう」

「なによ」

「コカ・コーラだよ」

 モナカは身を乗り出し、鼻先をコカ・コーラの注がれたグラスに引っつけて気泡を熱心に目で追っている。

「このアワの感じが、なんとも、ねえ」

 モナカは実に器用にピスタチオを食べる。その手さばきにはつい目がいく。僕はピスタチオを食べる猫というのを彼女以外に見たことがない。港町に住んでいるというのに、彼女はピスタチオばかり食べている。

「魚を食べればいいじゃないか」

「猫だから?」

 この挑むような目付きにはけっこうげんなりさせられるものだ。かといって嫌いなわけでもないので、彼女のひげをぱちんと切ってやるようなまねはしない。

「港町だから。魚、もらえるだろ」

「きらいなの」

 彼女は本当に嫌そうに鼻にしわを寄せた。僕はなぜだかほんの少し、申し訳ない気持ちになった。

「キモチワルイ漁師のにやけ顔とか、港にたかる薄汚いノラ猫とか、貧乏くさい漁船とか。みんな滅べばいいのよ」

「それは困る」

「冗談よ」

 まんざら冗談でもなさそうなのが、彼女の魅力である。しかし僕の父親も漁師なので、その願望が実現してしまったら進学できなくなる。中卒だとさすがに色々とまずいだろう。

「そう、今日あなたを呼んだのは、渡したいものがあったからなの」

 もちろん待ち合わせをした覚えはない。彼女はごっこ遊びが好きなのだ。

「先日、仲田サンにこれをいただいたのよ」

 そうい言ってこティッシュペーパーの包みを取り出し、僕の目の前に置いた。僕はオセロをひっくり返すときのように、ティッシュペーパーの端を指先でつまんで丁寧に広げた。

 中には小さな桜の形の砂糖菓子が二つ入っていた。

「すてきだね」

「ありがとう」

 僕はなぜお礼を言われたのかよくわからなかったが、朝日のような彼女の笑顔の前では何もかもが邪推にちがいなかった。

「どうぞ召し上がってちょうだい」

 確かに猫に砂糖菓子を与えるというのは、仲田サンもなかなかアヴァンギャルドなものだ。ピスタチオをばりばり食べる猫のモナカに負けずとも劣らずといったところだろう。

 砂糖菓子を女の子のように少しずつかじる僕を、彼女は実に興味深そうに見た。

「あなたって本当にスキ・キライが無いわねえ」

「きみがありすぎるんじゃないかな」

「ワガママを言うのって、楽しいのよ」

 あくまですまし顔である。大したものだ。

「あなた、ゲージュツカになるんでしょう。スキ・キライが無いなんて、とんだ欠陥品だわ」

 人に対して欠陥品という言葉を気軽に使ってはいけない。かなり衝撃的に傷つくからだ。

「言いすぎたわ、ごめんなさい」

「いいんだ」

 僕の亡くなった祖父は有名な画家だった。彼はかつて僕を溺愛し、お前は将来必ず有名な芸術家になるんだといつも言っていた。そう僕に対して言い聞かせるだけでなく、この狭い町中に言いふらしていたのだから厄介である。

「でも、本当にわからないんだ」

「なによ」

「好きとか嫌いとか、よくわからないんだ。そういうふうに生まれついているのかもしれない」

 モナカは巨大な瞳をさらに大きく見開いた。ピスタチオの殻の山が小規模な雪崩を起こし、白い小皿からいくつかが転がり落ちた。

「一周回ってゲージュツカに向いているのかしら」

 転がり落ちたピスタチオの殻を一つずつつまんで小山を再形成する。わからないんだ、ともう一度つぶやいた自分の声がいやに頼りなく響いてしまって、さらにみじめな気分になった。

「きっと考えすぎるのね。もっと気楽に生きればいいのに」

「かたくなで無力な十四年間を過ごしてきたんだ」

 ややぬるくなったコカ・コーラをふた口飲んだ。やっぱり僕には甘すぎる。それでも嫌いというほどでもない。嫌いと言い切るには、なんというかインパクトが薄すぎるのだ。

「心が動くのって、わかるかしら」

「山路来て なにやらゆかし かすみ草」

「知識なんてごみよ」

 そこまできっぱり言い切られると二の句が継げなくなる。それは僕のせいじゃない。

「ねえ、大切なのは心なの。心の自然な動きなのよ。意志に左右されない、自分の中の……大きな流れといえるかしら。それは自分自身でもあるわ。意志とは別に、もっと生々しく存在する自分。それを大切にできない人間はうんざりするほどたくさんいるわ。もちろんあなたもその一人よ」

 珍しく彼女の口調に熱が帯びる。僕を機にかけてくれているのが素直に伝わってきた。

「なんとなくわかるよ。ありがとう」

 その言葉を彼女がどう取ったかは分からなかったが、モナカは神妙そうな顔で前足を舐めるだけだった。

 僕は軽く咳払いし、残りのコカ・コーラを半分ほど飲んでグラスについた露を払った。湿った手でモナカの頭を撫でると彼女は露骨に顔をしかめたが、何も言わなかった。

「小説を書こうと思ってる」

 いつの間にかぱたぱたと静かな雨音が聞こえていた。店に入った時には、気持ちのいい晴天だったはずなのに。早く帰って洗濯物を取り込まなくてはいけない。

「洋子について書くんだ」

 残ったコカ・コーラをすべて飲み干す。雨脚は徐々に強くなってくる。これでは梅雨よりも夕立に近い。異常気象だろうか、今年の夏は随分とせっかちなようだ。

「書けるだろうか」

「書けるわ」

「なぜ」

「正しさに意味はないから。すべては心の自然な動きだから。そこから想像が生まれ、創造につながるの」

 In dreams begin the responsibilities. きっと僕は書かねばならない。

 コカ・コーラの代金を支払い、モナカに別れを告げる。

 ちょうど雨宿りのために洋子が喫茶店に入ってきた。今、目が合っただろうか。僕はとっさに俯き彼女の横を急いですり抜け、大雨の中へ駆け出した。




「僕は人に親切にしたいし、親切にされたら嬉しいよ。でも、どうしようもなく、だめなんだ」

少年は細い肩を震わせて、涙を流した。

「人からの好意を感じると、どうしても逃げたくなるんだ。自分がわからないよ」

洋子は彼の濡れた瞳をのぞき込み、よく日に焼けた両手でやさしくその頬を包み込んだ。

「僕は偽善者なのかな。本当の優しさと偽善と、どっちがどっちで、なにがなんだか、もう……」

少年の渇いた唇にやさしいキスを与え、額と額をくっつける。まるでそうすることによって、彼女の思考が彼の頭に直接伝えられるかのように。少年はなおも声を押し殺して泣き続けた。その不規則に震える熱い吐息が、洋子の頬を微かに湿らせる。




 大きな袋の内側が激しい水にさらされ続け、小さな亀裂が生まれた。水は待ちわびたように押し合いながら出口を求め、殺到する。途方に暮れた少年は、ただあふれ流れていく透明な水を呆然と眺めることしかできなかった。流れていく水といっしょに、きらきらと光るものが床に散らばっていく。涙でにじむ少年の瞳には、それが何だかわからない。やがて水が引いた後、洋子がやってきて一つ一つ丁寧にそれを拾い上げる。少年が泣き止んだ頃、洋子はたくさんの小さく美しい貝殻を両手いっぱいにかき抱いていた。彼女は振り返り、朝靄にうかぶ湖のように澄んだまなざしで少年をとらえた。

 だから本当に、しゃべれないのって、大したことないのよ。

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