第九話
着いたのは私の泊まっている宿屋ではなく、なぜかリラたちの家だった。
一階は酒場らしく、彼女たちの両親が接客をしていた。ユークは私を抱えたまま、リラの母親らしき人に「二階を借りる」と伝えると、彼女は事前に聞かされていたのか、何も言わず笑顔で頷いた。
二階に上がると、リラとジェイが部屋へと案内してくれた。中に入り、ユークが私を下ろして椅子に座らせる。椅子が汚れてしまうと伝えると、リラが「後で拭くから大丈夫」と言ってくれたので、今は彼女の言葉に甘えることにした。
「着替えたら教えてくれ」
ユークの言葉にリラが「はい」と返事をすると、ユークとジェイ、それからついてきていた土人形が部屋から出ていく。
扉が閉まったことを確認すると、リラは「さて」と私の方を見た。
「とりあえず着替えようか、マドカさん。一人で着替えられる?」
差し出された服は簡素なワンピース。上からかぶればいいだけなので、着替えは一人で大丈夫だと判断し、とりあえず頷く。
「そっか。じゃあ着替えて。私はその間ベッドを整えておくから」
リラが私に背を向け作業を始めたので、私もすぐさま着替える。
サイズは少し大きいが、着られないこともない。リラにお礼を言うと、「少し大きめだけど着られるみたいだね」と安心したように笑った。
どうしてこんなことになっているのだろうかと、今更ながらに考える。少なからず、リラたちが私のために親切にしてくれているのはわかる。でも、本来なら宿屋に戻らないといけないはずなのだ。お金を払っているのは、美奈子の仲間なのだから。
本当にどうして私はここにいるのだろう。私がリラたちにここまで親切にされる理由はないのに。先ほどの私のせいでユークたちが侮辱されたことを思い出し、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
なぜ先ほどの私はユークにされるがままで全く抵抗しようとしなかったのだろう。ユークたちに合わせる顔などないのに。今更ながらに自己嫌悪に陥った。
「マドカ、いいか?」
部屋の外から聞こえてきた声に、はっと意識が戻る。
部屋の中を見てみると、いつの間にかリラがいなくなっていた。私の汚れた服もなくなっていたから、もしかしたら洗おうと外に出たときにでもユークに声をかけたのかもしれない。「着替えたら教えてくれ」と言っていたから。
「マドカ?」
もう一度ユークに名前を呼ばれる。先ほどはまだ平気だったが、今のこんな気持ちでは彼と顔を合わせる勇気はなかった。
「入ってこないで」と口を開こうとするより先に、部屋の扉が開く。まだ顔を合わせたくなくて、咄嗟に扉側に背を向けた。扉が閉まった音の後、こつこつと靴音が響き、やがて私の背後で止まった。
「なぜ背を向ける?」
ユークの質問に私はただ俯くばかりだった。さすがユークも怒るかと思い、ぎゅっと目を瞑ると、頭に降ってきたのは優しい掌だった。
「え……」
予想外の対応に驚いた私は、思わず後ろを振り向いてしまった。そして視界に入ってきたのは、「してやったり」と言いたげなユークの笑顔だった。
「思ったよりも早くこっちを見てくれたな」
頭を撫で続けるユークに、私はどうしたらいいかわからず戸惑う。私を振り向かせるのが目的なら、もう達成しているはず。それなのになぜ撫で続けるのか。
疑問に思ったが、先ほどの王子の言葉を思い出し、口に出せずに再び俯く。ユークはそれに対し何も言わず、私の頭を優しく撫で続けながら「話を聞いてくれないか」と切り出した。
「私があの森に行ったのは、土人形が教えてくれたからなんだ。『森でのマドカの様子がおかしい』とその子から伝達がきた」
土人形は護衛のため、常に私の近くにいさせるとユークが言っていた。もしかしたらユークは、私の戦闘状況も土人形を介して知っているのかもしれない。……私が上手く立ち回れず、ユークたちを馬鹿にされた件についても。
「だから、マドカに何があったのかも聞いている。マドカがいつものように力を発揮できずにせいぜい浄化することで精一杯だったこと。私たちが馬鹿にされたのは自分のせいだと、マドカが自身を責めていることも」
「知らないでいてほしい」というわずかな期待が、「やっぱりそうか」というあきらめに近い感情に変わる。
ユークは私に対して怒るだろうか。それとも失望されるだろうか。優しいユークだから許してくれる可能性は高い。でも、今の私はいっそのこと責められた方がマシだった。
けれど、ユークが次に発した言葉は意外なものだった。
「これだけでは、私がマドカの知られたくないことについて一方的に知っていることになり、対等じゃない。だから、私の隠していることも言おうと思う」
「……『隠していること』?」
「隠していること」という言葉に私は戸惑う。まさかユークに隠していることがあるなんて思わなかったのだ。
どう答えるべきか迷っていると、ユークは撫でるのをやめて、覚悟を決めたかのように口を開いた。
「まず、私の本当の名前はユークレイズ・トア・ルナーツェ。ルナーツェ国の王。一般的には『魔王』と呼ばれる存在だな」
「たぶん、お前は気づいていると思うが」と続けたユークに対し、私は「実は知っている」という言葉を飲み込んだ。ユークは気づいていたのだ。私が「彼が魔王である」という事実を知っていることに。
「それと、まだ言っていないことがある。マドカに親切にしていた理由だ」
今度は頭に疑問符が浮かぶ。なぜなら、私は優しくされた記憶がないからだ。
ユークは基本、誰にでも優しくしていたと思っていたし、自分だけが優しくされたなんて思った記憶もない。そのことを言うと、ユークは苦笑した。
「私がたとえ優しい奴だとしても、会ったばかりの人間に最初から優しく接することはしない。確かにマドカはルゥを助けてくれたが、それだけではマドカを警戒しない理由にはならない。だからこれでも優しくしようと努めていたんだ」
初めて知った事実に正直困惑したが、今はそれよりもそこまでした理由を知りたかった。私が「なぜ優しくしたのか」と聞くと、ユークは語り始めた。
「私が魔王だというのは言っただろう。そして、この国では私に関するある噂が広まっている。それはマドカも聞いたことがあるだろう?」
魔王に関する噂と言えば、性格は冷酷で平気で部下を切り捨てるだとか、瘴気を作って魔物を生み出し従わせようとしているだとか、それは他国への復讐のためだとか、そういった噂の事だろう。実際、最初の頃の私は噂が真実かどうか確かめようとしていたし、そのせいでユークを完全には信じ切ってはいなかった。
その時の事を思い出し、思わず苦笑すると、ユークもそんな私に心当たりがあったのか、くすっと笑った。
「最初のマドカも少し警戒していたしな。ちょっとショックだった」
「ご、ごめん。でも今はそんなことしていないって信じているから」
「わかっている。マドカはわかりやすいからな」
そんなにわかりやすいだろうかとむっとしたが、ユークが「だが」と話を続けようとしたので、すぐに聞く態勢をとった。
「当然、私たちはそんなことをしようとしていない。だが、魔王がやったと信じる者が多く出た。だから私たちは瘴気の原因を調査し始めたのだ」
そしてその調査の結果というのが衝撃だった。
まず、瘴気を生み出していたのは、魔物を生み出すための研究を行っていた研究所だった。研究所はこの国の各地にあり、この町の森近くにも存在していた。普段は結界の様なものが研究所の周りに張り巡らされていて、普通の人は存在すら気づかず通り過ぎるようなのだが。
しかし、問題はそこではない。この研究所、実は国が関わっているらしいのだ。ユークの調査によると、国が研究所に研究をさせ、その実験の関係で瘴気が発生してしまい、魔物が生まれてしまっているとのことだった。
何のためかというと、それは他国と戦争するためである。
野心が強い王様は、戦争で勝ちたいがために、兵になるような魔物を生み出す研究をさせた。その結果、発生した瘴気が原因で、各地で動物が魔物化するようになったり、研究所から逃げ出した「失敗作」の魔物が各地に現れるようになったりしたのだ。
そしてもう一つ分かったことがある。それはこの国が、瘴気の原因をルナーツェのせいにし、魔王を倒そうとしたこと。
魔族は少ないとはいえ、個々の能力が高く、集まって敵になれば負ける可能性が高い。だから瘴気の原因は魔王だという噂を広め、それにかこつけて魔王を早々に倒そうとした。つまりは罪を擦り付けようとしたのだ。
「ひどい……」
ユークは「本当にな」と怒りを抑えたような声を出した。
「ルゥが魔物化した理由も、実際は森の瘴気によるものではない。実はルゥは私の部下なんだが、研究所に侵入した際、研究員に見つかり、瘴気と同じ役割を持つ薬を投与されたらしいんだ。なんとか研究所からは脱出したが、逃げている途中森で魔物化してしまった。そこにたまたまルゥがどこかに行ったと知ったリラたちが探しに来て、ルゥと出会ってしまったんだ。私もリラたちが森に行ったという情報と、ルゥからの救助を求める伝達を受け取ったことから、森に向かっていた。だが、私よりも先にマドカがリラたちを助けようと飛び出したので、そこはマドカを利用しようと思った。事前の聖女の情報とマドカの見た目が一致していたから、マドカが聖女である可能性に賭けたんだ」
正直、ルゥがユークの部下である事実には驚いたが、話を聞いて納得した。
ユークはこの国が瘴気の原因だと知っていた。ということは、この国に召喚された聖女は、国のしていることを知ったうえで行動しているかもしれない。つまり、ユークたちにとって敵かもしれない。
聖女かと聞いてきたのは、私が聖女なら敵かもしれない可能性も考えていたからだ。そして、たぶん、戦闘演習を持ちかけてきたのは、そこで私が敵かどうか直接見極めようとしたのではないだろうか。
私が思ったことをユークに伝えると、彼は「だいたいあっている」と答えた。
「マドカは正直人がよさそうだったからな。敵だとしても本意じゃないと考えた。だから親切にすれば気持ちを吐露するかと思ったんだ。実際は敵でもなんでもなかったが。戦闘練習については、単純に私たちには瘴気を浄化するという目的もあったから、それを達成できればいいという願望もあった。マドカを上手く丸め込めれば、各地の浄化も上手くできるだろうと考えてな」
「怒っているか?」とユークに聞かれ私は首を横に振った。
「……ううん。ユークは正直に理由を教えてくれたし、ユークが優しいことに変わりはないから」
最初の頃は私を敵かもしれないと疑い、偽りで優しくしていたかもしれない。けれど、私がそんな優しい彼に救われたことに変わりはなかった。
ユークにとっては意図していないものだったかもしれない。けれど、私が言いたくないと思った時、それ以上追及せずにいてくれたことで、どれだけ私の気が楽になったか。私が彼にはっきりと「マドカ」と名前を呼ばれることに、どれだけ安心していたか。
「……本当はこの体、私のじゃないの」
気がつけば、話すつもりのなかった事実を述べていた。ユークが息を呑むのがわかる。
ユークは対等ではないからという理由で教えてくれたが、そんな彼に私の本当の事を話さないことの方が、対等ではない気がした。
「この体の持ち主の名前は、「美奈子」。正真正銘聖女として召喚された少女。私ね、気がついたらこの体に入っていたんだ。彼女はゲームの主人公だから、最初彼女になったときここは夢かと思ったんだけど、その後すぐに現実だって気づいた」
「ゲーム」という単語を聞き、首を傾げるユーク。少し違うが、「複数あるうちの一つの結末に辿り着くよう主人公を操作する、物語のようなもの」と説明した。いまいち、よくわかっていない様子だったが、「つまり、美奈子はその物語の主人公なんだな?」と聞かれたので、間違っているわけではないと判断した私は頷いた。
「その物語はどんな内容なんだ?」
「確か『主人公・美奈子が異世界に聖女として召喚され、仲間と共に国の穢れを浄化する』というような話だった気がする」
「今やっていることと変わりはないな」
実際の穢れの元である瘴気の原因は、この国だったわけだが。
けれど、それならばなぜ聖女を召喚したのだろう。私がしてきたことは瘴気を生み出し魔物を作ろうとしている国に反していることではないだろうか。
心の中でつぶやいたつもりでいた疑問は、口に出していたらしい。ユークが「それはわからない」と返した。
「その『ゲーム』とやらではどうなんだ? そもそも国が瘴気の原因だったか?」
ゲームの内容を思い出そうとすると、やはり思い出せたのはこちらの世界の噂でもある「瘴気の原因は魔王」という情報だけだった。
「……たぶん、『魔王が瘴気の原因』だとされていた気がする。だって最初のころに警戒していたのは、ゲームの知識でユークが魔王だということを思い出したからだし、ゲームでもユークが敵として登場していたんじゃないかな」
本当のことを言うと、はっきりとラスボスが魔王だなんて言える自信はない。あんなにやり込んだはずなのにと、心の中で自嘲した。
「……『気がする』だなんて、まるで記憶に自信がなさそうな発言だな。前から思っていたがマドカはもう少し自信を持つべきじゃないか?」
ユークの鋭い発言に、私はすぐに言葉を返すことができなかった。そんな私の様子に、さすがのユークも首を傾げる。普段は察しの良いユークも気づかなかったのだろう。けれども私は話す必要があると考え、覚悟を決めてきちんと話すことにした。
「私、『まどか』としての記憶がなくなってきているの。この体に入ってから。自分の事とか、家族の事とか。前、ユークに名前の由来を説明した時だって、直前まで思い出せなかった。実は、その名前を付けてくれた人だって誰か、私には思い出せないの。大切なことなのにね」
ユークが「だからあの時……」と呟いたが、私には何のことかわからなかった。
「本当はこの体の持ち主である『美奈子』と名前を名乗るつもりだったんだけど、自分の名前ですら忘れてしまうのが怖くて、ユークには本当の名前を名乗った」
もしかしたらユークは、私が名乗った「まどか」という名前と、周りが呼ぶ名前が違うことに疑問を感じていたかもしれない。もしかしたらそこから私が「美奈子」ではないことに気づいていたのかも。考えてみればすぐにわかる話だ。
ユークは何か考え始めた。私が大事なことすら忘れていることに対して軽蔑したのだろうか。最低だと思ったのだろうか。ユークはそんなことを思うはずがないと分かっていても、そう言われてしまうのが怖かった。
やがて一つの考えに辿り着いたらしいユークは、顎に当てていた手をこちら側に伸ばした。思わずぎゅっと目を瞑る。
しかし次の瞬間訪れたのは、温かさだった。
「え……」
一瞬どういう状況かわからなかったが、すぐにユークに抱きしめられた状態で、優しく頭を撫でられていることに気づく。
戸惑いつつも「ユーク」と名前を呼ぶが、ユークは抱きしめたまま撫でるのをやめなかった。
「……よく一人で頑張ったな」
耳元で優しく声をかけられ、顔が赤くなるのがわかる。けれど同時に、そんなことを言われると思っていなくて、泣きそうにもなった。
「記憶をなくしていくのは怖かっただろう。自分がなくなるような気がして不安に思っただろう。でも、私は絶対マドカを忘れたりはしない。私だけじゃない。アイドやルーシェ、リラやジェイも絶対マドカの事を覚えている。マドカがいなくならないよう守る。だから安心しろ」
その言葉にとうとう目から涙がこぼれた。なぜだろう。今まで泣けなかったのに、今はすごくユークの言葉に安心して、不安や恐怖を取り除こうとしてくれて、今まで頑張ったと認めてくれて、そんな嬉しいという気持ちや今までの不安が入り混じってぐちゃぐちゃだ。
次々にあふれ出てくる涙を止めることができず、私はずっと泣いていた。
けれどユークは一切文句も言わず、私を抱きしめたまま、安心させるように頭を撫で続けてくれた。
疲れてようやく泣き止んだころ、ユークが「そろそろ寝ろ」と、リラが整えてくれたベッドに運んでくれた。
「今日はここに泊まれ。リラたちは知っているから安心して寝ていろ。マドカが寝るまで私もここにいるから」
ユークがベッド近くまで椅子を持ってきて、そこに座る。その様子がなんだか懐かしく思えて、私はふふっと笑った。
「なんか、おばあちゃんみたい」
「『おばあちゃん』?」
少しむっとしたユークがおもしろくて、私は再び笑った。
「うん。うち、父親いなくて母親だけだったから、お母さんが仕事してお金稼いでいたんだ。だから小さいころおばあちゃんに預けられていて、夜眠れない私のために、よくおばあちゃんがそばにいてくれたんだ」
すらすらと口から出てきた言葉に、ユークだけではなく私自身も驚いていた。
「私、今、『おばあちゃん』と『お母さん』の事……」
「あぁ、話していた」
ユークが微笑む。途端、止まっていた涙が再びあふれ出した。
……思い出した、自分の家族の事。家族についての記憶を。私の母親は、仕事のストレスで早くに亡くなり、その後祖母に引き取られた。
けれど、その祖母も中学の時に亡くなった。病気だった。その後は母方の叔母夫婦に引き取られ、ありがたいことに高校に行かせてもらった。当初、私は叔母夫婦にお世話になり続けるのが申し訳ないと思い、大学に行く気はなかったが、叔母夫婦が「大学には行きなさい」と言ったので、仕方なく受験することになったのだ。本当はすぐにでも働きたかったのだが、せっかくの申し出を断るのも申し訳なく思ったのだ。
「私の名前、お母さんが考えたの。小さいころ、お母さんは私の事嫌いだと思っていた。だからおばあちゃんに預けるんだって。でも、おばあちゃんが教えてくれた。『まどかの名前を考えたのはお母さんなんだよ。名前はその人自身を表す大切なものだから』って。だから私安心して、お母さんは自分の事大切にしてくれているんだってわかった」
なんでこんな大事なことを忘れていたんだろう。お母さんが名前を考えてくれたこと。それをおばあちゃんが教えてくれたこと。どちらも私の大事な記憶なのに……。
泣きながら説明する私の背中を、ユークはあやすようにさすってくれた。
「マドカはきちんと大事な記憶を忘れても思い出すことができた。つまり、忘れていく記憶に対し、マドカの気持ちは負けずに頑張っていたわけだ。その気持ちが変わらなければきっと、他の記憶も思い出せる」
「……うん」
ユークの言葉は安心できる。なぜかわからないけれど、きっと思い出せる気がしてくる。
私は思い出せたことで気が抜けたのか、いつの間にかユークたちを侮辱されて沈んでいた気持ちも落ち着いていた。やがて泣いたせいで眠くなり、気づけば意識を手放していた。