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第十一話

 目が覚めると、ベッドの横には誰もいなかった。


「ユーク、帰っちゃったのか」


 一晩中ずっとここにいるわけがないか。よく考えなくてもわかること。

 そう頭で理解はしていても、少しだけ寂しい気持ちになった。


「のど乾いたな」


 もしかしたら誰か起きているかもしれないと思い、一階に下りる。もしいなかったら、仕方ないが飲み物は諦めよう。そんなことを考えていると、店の入り口付近にジェイの姿があることに気づいた。


「ジェイ? 朝早いんだね。でも、よかった。良ければ水もらいたいんだけど……」


 そこまで言いかけてジェイの後ろに誰かがいることに気づく。ジェイはこちらに気づくと、「マドカさん」と嬉しそうに駆け寄ってきた。


「あのね、この人がマドカさんに用があるんだって」

「こんな朝早くから?」


 用があるという人物を見ると、そこには意外な人物が立っていた。


「アンリ様……」


 昨日の出来事を思い出し、表情が暗くなったのが自分でもわかった。現に隣で私を見上げていたジェイが、私の顔を見て心配そうに「大丈夫?」と尋ねてきた。私はジェイに向かって「大丈夫」と答えると、アンリ様の方へと向いた。


「なるほど。お前の本当の名前は『マドカ』というんだな」


 名前を呼ばれ、そこでようやく気付いた。


 美奈子の仲間には、私の本当の名前を伝えていない。そもそも「まどか」が「美奈子」の体に入っていることを教えていない。だが、彼はそんなことを気にしたようなそぶりを一切見せず、本題を切り出した。


「マドカ、お前に用がある。俺についてこい」


 正直ついていきたくはない。けれど、耳元で「この子供がどうなってもいいのか?」とささやかれ、私の顔は一気に青ざめた。


 まさか子供を盾にするなんて。なぜそこまでする必要があるのか。そう思ったが、アンリ様なら何かやりかねない。私は「わかりました」と頷いた。


「マドカさん、本当に大丈夫?」

「大丈夫。だからジェイは大人しく待っていて」


 本当は大丈夫かわからない。けれど、行かなければジェイに危険が及ぶ。そして、ジェイがもしこのことを誰かに報告すれば、ジェイが危ない目に遭うかもしれない。


 ジェイが「わかった」と頷いたのを確認すると、私はアンリ様と共に酒場を出た。




 着いた場所は、昨日来た町近くの森だった。

 朝早くということもあり、ここまでの道のりでは誰も見かけなかった。森自体も当然静かだ。


 アンリ様は「ここでいいか」と呟いて立ち止まると、私の方を向いた。途端、私の体が強張る。


「そんな警戒するな。別にたいしたことはしない」


 そう言われても警戒心は拭えない。そんな私にしびれを切らしたのか、アンリ様は呆れた様子でため息をついた。


「『マドカ、落ち着け』」


 名を呼ばれた瞬間、なぜか私の警戒心がふっと消え、強張っていた体から力が抜ける。


 なぜ、と疑問をぶつけるより先に、アンリ様が説明してくれた。


「魔力を込めてその人物の名前を呼ぶと、その名の持ち主を服従させることができる。これは魔術師の間では共通の知識だ。お前は俺に偶然とはいえ名前を知られてしまった。つまり、俺が魔力を込めてお前の名前を呼ぶと、お前は俺に従ってしまう。逆らうことができないのだ」


 あのとき、ジェイが名前を呼んだ時点で、何としてでも私は彼についていくべきではなかったのだ。いくらジェイを人質に取られていたとはいえ、ついていかずにジェイを守る方法を考えるべきだった。今更後悔しても遅いけれど。


 なんとか隙をついて逃げようと考えるも、「『マドカ、動くな』」と言われ、私の体は動かなくなった。


 やがて、アンリ様が私の目の前まで近づいてきて、足を止める。


 そして、私のおでこに手をかざすと、手先に魔力を集中させた。


「何を、するつもり……?」


 なんとか口を動かして問うと、返ってきた答えは最悪のものだった。


「なに、ただ、お前の記憶が全部なくなるだけだ」

「記憶……」


 それは私が私ではなくなるということ。一番私自身が恐れていたことだ。


 普通ならそんなこと、魔術でどうこうできるものなのかと疑問に思うのかもしれない。けれど、アンリ様は国一番の魔術師。記憶がなくなる魔術を知っていてもおかしくはない。


 それに、彼ならやりかねない。どうでもいいと思っている私相手になら。


「い、やだ……」


 精一杯声を振り絞り、彼の手から逃れようと顔を動かそうとするも、全く動かない。その間にもアンリ様は魔力を私に集中させ、とうとう呪文を唱え始める。


 嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。自分をなくしたくなんてない。私が消えるのなんて嫌だ、怖い。

 助けて。誰か。失いたくないよ。

 お願い……誰か。

 ユーク……!


 ……。


 ……あれ?「ユーク」って……誰だっけ。






「どこだ、マドカ……っ」


 私は森の中を必死で走っていた。


 今朝、ちょうどアイドの家で目を覚ましたころ、酒場から帰る間際にマドカの元へ置いてきた土人形から伝達があった。


 「マドカがアンリと呼ばれる魔術師に連れていかれた」と。


 昨日の森の件は不愉快ではあったものの、マドカを直接害するような真似はされなかった。だから油断していた。昨日の今日では何も起こらないだろうと。だがまさかこんなときに限って行動するとは。


 こんなことなら昨晩は酒場に泊まらせてもらい、アイドの家になど帰らなければよかった。


 今更悔いても仕方がないが、内心舌打ちしたい気分である。


 今も転移術で二人が向かったとされる森まで飛んできたのにもかかわらず、マドカたちの姿は見当たらない。おそらく、その魔術師によって彼らの周囲には結界が張られているんだろう。


 アイドとルーシェは転移術が使えないため、森には走って向かっている。だから彼らを頼ることはできない。


 せめて魔術を使った痕跡さえ見つかれば……。


「……この辺り、だろうか」


 この周辺からわずかだが、魔術を使った後に残る魔力が感じられた。私はその中でも一番感じられるだろう、とある木の幹に手を当て、意識を集中させる。自分の魔力を、幹を介してこの周辺全体に流し込むように。


 やがて、パリーンッと何かが割れるような音が辺りに響いた。それは結界が割れた音だということにすぐ気がつく。なぜなら何もなかった場所に突然、黒いローブを身にまとった男と、虚ろな目をしたマドカが現れたからだ。


「マドカ!」


 名を叫んだと同時に、その声に驚いたのか、男はマドカを突き飛ばした。すぐさまマドカに駆け寄り、マドカを抱きとめる。


「マドカ! 大丈夫か!」


 声をかけるも返事がない。それに目も虚ろなままだ。


 どう見ても様子がおかしい。私は、明らかにこの男がマドカに何かしたと判断し、意識を男に集中させた。


「お前、一体何を……っ」

「なに、ただ記憶をすべて消しただけだ」


 「記憶を消す」。それがどういうことか、この男はわかっているのか?


 記憶をすべて失うことは、自分が自分でなくなるということと同様だ。つまり、マドカが一番不安に思っていたであろうことだ。


 それをこの男は、そんなマドカの気持ちを無視するような行いをした。


「なぜ、そんなことを……っ」

「その女の記憶があれば、ミナコは戻ってこられないからだ」

「魔道具を盗んだのはお前のはず……! ならば魔道具を使って入れ替えればよかっただろう!」

「その女はもうミナコになりかけていると判断した。そうなると魔道具を使っても入れ替わることができない可能性が高い。だからまだ残っているであろう記憶を消した」


 一瞬、何を言われたか理解できなかった。


 マドカがミナコになりかけている? どこをどう見たらそのような判断になるんだ。


 どう見てもマドカはマドカだ。むしろ、本来のマドカを取り戻してきていると言っても過言ではなかった。それなのにそんな理由でマドカの記憶を消すなど……!


「馬鹿か、お前は! むしろマドカはマドカ自身の記憶を取り戻していた。本来のマドカに戻ってきていた! そんなことをしなくても魔道具で入れ替わることは可能だったんだ!」

「だとしても俺にはどうでもいい。ミナコさえ戻ってくれば」


 自分勝手な思考に反吐が出る。だが魔術師はにやりと不気味な笑みを浮かべた。


「それに、本当にお前はそれでいいのか? 魔道具で入れ替わったところで、その女と会えなくなることには変わりないが」

「……どういうことだ?」


 聞き返すと、今度は男がくつくつと笑った。


「親しいように思えたが知らないのか。その女も異世界の人間だ。魔道具を使った時、美奈子が相手と共通していた部分として挙げていたのは、『同じ国に住む、聖女の素質がある人間』だからな。さすがにそこまで共通している人間はいないと思ったが、それで魔道具が発動したから間違いないだろう」


 男の言葉に、目の前が真っ暗になったと同時にすべて納得がいった。


 マドカと月を眺めた日、「マドカの世界にも月はあるのか?」と尋ねて、マドカは「ある」と普通に答えていた。マドカの性格を考えると、もしこの世界の人間だとしたらマドカは嘘をつくことにためらい、すぐには答えられなかっただろう。それにマドカが口にしていた「ゲーム」という言葉。てっきりマドカの出身国は遠く、その国にのみ存在するものだと思っていた。今思うと、マドカの世界のものなのだろう。「マドカ」という名の響きも不思議ではあったし、彼女が異世界人でも何らおかしくはない。


 「マドカは異世界人である」という考えが重くのしかかる。もう二度と会えなくなる可能性など考えていなかった。マドカが記憶を取り戻せば、彼女の幸せを私は見ることができるのだと、当たり前のように思っていた。けれど、それはおそらく不可能だ。


 私は召喚術など知らないし、マドカがこの世界に来たいと思わない限りしたくもない。同じ理由で魔道具を使って魂だけを呼ぶ真似もしたくもない。だから、マドカと会える可能性は、ないに等しいのである。


「その様子だともう邪魔する気は起きないようだな。ならば、俺はミナコをよぶ」


 魔術師の男が呪文を唱え始める。途端、マドカの体が光に包まれ始めた。


 今はそんなことを考えている場合ではない。とにかく、マドカの意識を何とかする方が先だ。そのために今はミナコを呼び戻すのを阻止しなければ。


 男の魔術を止めようと、手先に魔力を集中させ、男の手に向けて氷魔術を放つ。瞬間、男の手が凍り、マドカの体から光が消えた。


「なぜ邪魔をする? もうすでにその女に記憶がない以上、邪魔をしても意味はないはずだ」

「まだ完全にないとは言い切れない」

「だとしても、入れ替わりをしたところで何になる? お前は結局その女とは一緒にいられない」


 男の言葉にずきりと胸が痛む。


 確かに会えなくなることは確実だ。国が違うだけならまだ会いに行くことは可能かもしれない。だが世界が違うとなると、会うのもそう簡単にはできない。それは重々承知だ。


 けれど一緒にはいられないからと言って、こんなマドカをそのままにしていいわけがない!


「……あいにく、私はマドカがどこかで生きていればそれでいいと思う奴だ。だからマドカの記憶がなくなり、存在がなくなってしまうことの方が大問題なんだ。……おっと」


 男から飛んできた炎の球を、マドカを抱えた状態でなんとか避ける。どうやら瞬時に凍った手を魔術で溶かしたらしい。私はすかさず魔術で砂嵐を起こし、男の動きが止まった一瞬をついて男の腹を蹴った。


 「うぐっ」という短い悲鳴が聞こえたが、男はすぐに体勢を立て直した。王宮魔術師と言っても、体力面も強化しているらしい。これは長期戦になるなと覚悟した時、男が呪文を唱えだした。


 さすがにマドカを抱えたままでは分が悪い。そう判断し、ひとまず防御壁を展開しようとすると、なぜか再びマドカの体が光に包まれる。


「なっ!」


 相手の思惑に気づき男を見ると、呪文を言い終えた男はにやりと笑った。


「お前は後回しでも構わない」


 ――こいつ、ミナコを呼び戻す術を使ったのか。


 苛立ちで舌打ちしたくなるが、なぜか「ミナコの体」はピクリとも動かない。むしろ、光は徐々に弱まっていき、最後には消えてしまった。


 男の目が驚きで見開かれる。私自身も何が起きたのか、よくわからなかった。


「なぜ……なぜ、ミナコが来ない? なぜミナコの気配がない?」


 男の言葉から、ミナコを呼び戻すことに失敗したのをようやく理解した。


 男は狂ったように叫び始めたが、彼の横から飛んできた光の矢に肩を射抜かれ、そのまま倒れ込む。


 矢が飛んできた方向を見ると、アイドとルーシェがこちらに走ってきた。どうやら、光の矢を放ったのはアイドらしい。彼の手には魔道具らしい魔石が埋め込まれた弓が握られていた。


「大丈夫ですか、ユーク様!」


 アイドが私たちのもとに駆け寄る。ルーシェの方は、魔術師を拘束しようと彼の方へと近づいた。


「私は大丈夫だ。それより……」


 いまだ虚ろな目をしたマドカを見る。アイドはそれを見て何かを察したようだった。


「遅かったんですね……」

「記憶を全部消されたらしい。だが、私は諦めるわけにはいかない」


 何をすればいいかはわからない。けれど、ここでこんな状態のマドカを受け入れるわけにはいかない。


「なら一つ試してみるしかないな」

「試す?」


 いつのまにかそばに来ていたルーシェに驚いて男の方を見ると、すでに拘束された後だった。再びルーシェに視線を戻すと、ルーシェは一つの腕輪を見せた。


「それは……」

「例の魔道具。入れ替わることができる、な」


 そしてルーシェはマドカの腕にその腕輪をつけた。腕輪には黄色い魔石が埋め込まれている。


「今は記憶がないが、まだ術が完全ではない可能性もある。そして、元の体に戻れば記憶を完全に取り戻せるかもしれない。だからその方法を試してみるんだ。だが……」

「『名前を思い出す必要がある』という条件ですね」


 記憶がない今、当然名前を思い出すことは難しい。自分の名前ですらわからない可能性が高いのだから。

 でも、それでも私は、マドカが名前を思い出せると信じたい。


 彼女が記憶を失ってもなお、覚えていたものだから。



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