(1)
「行ってきます、お祖父様。」
村の共同墓地で膝を付き、名の刻まれて居ない墓に向かって、出発の挨拶をする。
男の様な口調だが、その顔は癒やしの女神のように美しく、声は清流のせせらぎのように透き通っている。
ゆっくりと立ち上がると、光を放つかのような金の髪がサラサラと流れ、古めかしくも真新しい鎧と剣がガチャリと音を立てる。
翡翠の様な瞳が村の入り口に向けられる、丁度馬車の準備も整ったようだ。
少女は身を翻し、キビキビとした動きで馬車に向かう。
足の弱い母を、弟が支えながら見送りに来てくれていた。
「いってらっしゃい、イセリナ、体に気をつけるのよ。」
「うむ、お祖父様の教えを守れば、体に傷などつかないよ、アストお母様。」
「姉上、いろいろとやりすぎないで下さいね?頼みますよ?僕はもう隣で頭を下げられないんですからね?」
「失礼な、私はやりすぎた事などないぞ、カーソン。」
少しのやり取りを終えて、イセリナは馬車に跳び乗る。
幌のない馬車に乗るのは、行商人の男を除いてイセリナ一人。
立ったまま振り返り、村の全景を見渡す。
これが、お祖父様の築き上げた村だ、私の誇りだ。
雑貨屋で剣をねだった、パン屋で甘いお菓子を買って貰った、二人で鍛冶屋にお世話になった、しょっちゅう怪我をして村医者の常連になった、あんな事があった、こんな事があった。
沢山の思い出は色褪せることなく、胸いっぱいに広がっている。
この村で産まれて、育って良かった。
イセリナは目一杯の笑顔を浮かべて、母と弟に別れを告げる。
「いってきます!」
▽▲▽▲▽
「イセリナちゃん、大丈夫かしら?」
穏やかな丘を越えて、王都へと向かう馬車が見えなくなった頃、アストは心配そうに首を傾げる。
我が娘ながら、世の男よりも男らしい彼女を心配してなどはいない。
むしろ、イセリナの美貌に目を眩ませた男や、盗賊、または、イセリナを利用しようと企てる者、そういった輩の心配をしている。
「いえ、多分だめでしょう。姉上ですから。」
そんなおっとりとした母の心配をバッサリと切りながら、カーソンは遠い目を彼方の空に向ける。
この小さな村でさえあれだけの事件や騒動を起こせた姉のことだ、都会に行けばどうなってしまうのか、想像すら出来ない、いや、したくない。
「やっぱり、そうよねえ。」
昔の事を、ふと思い出す。
イセリナは物心がついた頃から、彼の事をお祖父様と呼んでいた。
彼もお父様と呼ばせようとはしなかった。
彼に傾倒し、彼の教えを受けて育ち、彼が亡くなった時に、傭兵になると涙ながらに呟いたイセリナ。
彼が亡くなる直前に一度だけ、お父様、と呼んだイセリナ。
彼の鎧を身に纏い、村を出たイセリナ。
「もしかしたら、気付いてたのかしらね。」
「何をです?」
「あの人が、本当の父親じゃないって。」
「えっ!?ちょ、母上!?それ僕も知りませんよ!?」
「あら?言ってなかったかしら?」
「え、父上って、え?」
「あなたはあの人の子供だから、心配いらないわよ?」
「いえ、そうではなくて。
…いいです、後でちゃんと説明して下さい。」
カーソンは溜息をついて、諦めた。
父が亡くなって一年、家族の中で唯一の常識人だった父の存在は、やはり偉大だったと思う。
「とにかく、姉上の、いえ、姉上に関わった人の無事を祈りましょう。」
祈りは恐らく、無駄になるでしょうが。
▽▲▽▲▽
「全く、馬車に人の足で追いつける訳が無いだろう。盗賊とは馬鹿しか居ないのだな。」
いえ、あなた追い付きましたよね、と行商人の男は思う。口には出さないが。
「しかし、やはりお祖父様の教えは正しかったな、『敵が多い時は逃げるに限る』、『まずは弱い者を狙う』、『正面からでも不意打ちは出来る』、早速実践出来てよかったのだ。」
いえ、あなた正面からボコボコにしただけですよね、と行商人の男は思う。口には出さないが。
「ああ、王都に行けば強い者がゴロゴロといるんだろうなあ、楽しみだなあ。」
いえ、私はあなたより強い人を見たことがありません、と行商人の男は思う。口には出さないが。
馬車はゆっくりと王都に向けて進む。可憐で美しい暴風を乗せて。
王都逃げて、超逃げて。
と、行商人の男は思う。口にも態度にも、絶対に出さないが。