03
携帯電話が通話の呼び出し音を鳴らしていた。冬ソナのテーマ曲の着メロや。
蔦子さんやわあ。
なんでやねん蔦子さん。空気読んでくれよ。俺いま結構泣きそうやで。ちょっと泣きそう。虎やなかったらもう泣いてるかもしれへんぐらいやで。
そこは六甲ライナーのホームやった。俺は帰りのモノレールを待っていて、それがせっかく来たとこやったのに、大音量の冬ソナで足止めされたんやった。
乗るに乗れへん。
人間どもの視線が痛すぎ。
しょうがなく、俺は電話に出た。どんな気分やろうと、式が主人の呼び出しに答えない訳はない。
「もしもし、信太どすか? あんた今どこに居るんや。テレビ見ましたか?」
せっつく口調で蔦子さんが喋った。返事する間もない。
「怜司のとこ行ってやっとくれやす。訳あって今は一人にしといたらあかん」
怜司が今すぐ死ぬみたいに、蔦子さんは深刻に話してくる。
蔦子さんがやっと沈黙したんで、俺もやっと、ため息をつけた。
「元気やで、怜司。ちょっと変やけど、いつもと変わらんわ」
俺が蔦子さんにそう答えたのは、本心やなく、ちょっとヤケクソやったんかもしれへん。怜司はほんまに危ない状態やったのかもしれへん。胸が、張り裂けそうになってたのかも。
でも俺も、自分ではない別の誰かのために、胸が張り裂けかけてる怜司のことで、胸がもう半分ぐらい張り裂けてた。それでも六甲ライナー乗って帰ろうとしてたんやないか、蔦子さん。今ここで、もいっぺん怜司に会うたら死ぬ。胸がバーンてなる。
言いたかないけど俺はあいつが好きやったんや。たぶん度を超えて好きやった。そこまでとは、自分でも知らんかったけど。ほんま死ぬかと思った。
「会うたんどすか? あんた今どこに居るんや」
オカンみたいな口調になって、蔦子さんがさっきと同じことを聞いてきた。
「六甲ライナーの駅のホームや。怜司ん家に泊まったんやけど、もう帰るところです」
「怜司はどないしてましたか」
「知らん。テレビ見て、泣いとうわ。あいつ頭変なんとちゃうか」
若干、泣き言めいた俺の返事を聞くと、蔦子さんは三秒くらい絶句した。
「あれ誰なんですか、蔦子さん」
「本家の坊々《ぼんぼん》や」
「暁彦様か」
「それとは別の坊々《ぼんぼん》どす!」
キレた口調で蔦子さんは答え、俺は耳が痛すぎて電話を線路に落っことしそうになった。
おっとっとって電話でお手玉する俺を、ホームに来た人間がドン引きして見とったわ。
やめて、蔦子さん。あんたみたいな霊力のある巫女が式神相手に怒鳴ったらあかんで、虐待やで。
喋り続ける電話をなんとかキャッチして、俺はそれを自分の耳に押し当てた。電話、バリ熱うなっとうわ。
「信太、ええか、ようお聞き。怜司が京都に行こうとせんように見張りなさい。京には、あの子には越えられへん結界があるんや。年月を経たとはいえ、まだ本家から上洛を許されてはいない。結界を破ればどうなるか分かりまへん。今度はお前が怜司を守ってやる番や」
説得する口調で言うてくる蔦子さんの声は、電話越しにでも、強烈やった。俺には逆らわれへん。
「ひどい話やと思わへんのん、蔦子さん。俺、さっき……見てもうたわ。怜司の顔。あいつあんな顔できんねんな。びっくりしたわ」
思い出すと、俺の胸の残りの半分が今すぐ弾け飛びそうやったんで、俺は慌てて記憶を振り払った。
「無理や。もう怜司に会いたない」
「そう言わんといとくれやす。うちの式の中で、本気になった怜司を止める力があるのんは、あんたをおいて他におへん」
そんなことないやろ。怜司どんだけやねん。みんなもうちょっと本気出せ。
「啓ちゃんに頼んでくれ」
「啓太が死んでもええんどすか?」
本気で言うてるらしい蔦子さんに、俺はホームでとほほ顔になってた。思わずしゃがんだ。立ってるのは無理やった。
「あいつ、そこまでするん? 啓ちゃんぶっ殺してでも、京都まで飛んでいくんか。自分も死ぬのに? あの坊々《ぼんぼん》のせいで?」
それが俺でも、ぶっ殺して行くんか。
キツいなそれ。ほんまアカンわ。
知ったことかよ。どうせ死ぬなら、怜司一人でくたばりゃええやん。なんで俺が体張って止めなあかんの。
俺のことなんか、なんとも思ってへんあいつのために。なんで俺が、必死にならなあかんのや。
愛してるから?
そんなわけあるか!
畜生。
怜司。
鬼畜生め。
蔦子さんもや。俺の弱みにつけこみやがって。鬼ばっかりやな、この国の連中は!
「信太、急いだ方がええわ」
「わかりました!」
そう言う他あらへん。
俺は回れ右して、また六甲アイランドの地を踏んだ。きっちり直線的に敷かれているはずの人工島の道路が、やけにグニャグニャして見えた。
怜司のせいやろ。霊力だだ漏れ。
うええ、と吐きそうな気分で、俺は怜司の住んでるマンションに戻る道を走った。
あいつ、いよいよおかしくなってもうたわ。
エントランスはまだあった。
怜司の部屋の番号を押した後、インターフォンの呼び出しボタンを押しまくる。全然答える気配もないが、俺が高速で百回くらい連打すると、急にブツッて何かキレたようなノイズが、スピーカーから漏れた。
繋がった、と思って、俺は思わず飛びつくようにマイクに向かって大声出してた。
「怜司。俺や。忘れもんしたし開けてくれ」
もちろん何も忘れてへんけど、インターフォンの前で黙ってるわけにもいかへん。何か言わなあかんと思ったんや。
通じてるような音はしていた。答える気配は全然なくても、怜司は聞いてる。そういう気がして、とにかく呼んだ。
「怜司、怜司、怜司! 怜司、聞いとうのか、れい……」
「やっかましいわ! この虎め! ピンポンピンポン鳴らしやがって、いつの間に居らんようなったんやお前は!!」
スピーカーがぶっ壊れそうな怒鳴り声で、怜司が急に答えてきて、ほんまにスピーカーがぶっ壊れた。バチーンブスブスー、いうて、エントランスのスピーカーが火花を吹いとう。
こわ! 俺は唖然とそれを見たが、その後少し遅れてスバーン! と高速で開いた自動ドアに、ビビって飛び退く羽目になった。
なんで俺が帰ったの知らんのや、怜司。どんだけ自分の世界に入ってたんや。俺は一応、挨拶はしたで。
さらにエレベーターに振り回されるぐらいの覚悟はしたが、それは普通に最上階まで昇っていった。
ドアが開くと、驚いたことに怜司がそこに立っていた。怜司が俺を玄関まで出迎えたことなんか、いまだかつて一回もないことや。
だだっ広い玄関に、怜司は真っ青な顔色で突っ立っていた。見るからに化けモンで、大丈夫やなかったけど、少なくとも、もう正気や。さっきは完全にいってもうてる目付きやったのに、何がどうなってお前は戻って来られたんや。
「どこ行ってたんや信太。気づいたら居らへんし、びっくりするやないか。うっかりどっかの異次元に放り込んだかと思たわ」
そんなことするんかお前。俺が思ってた以上に危険な妖怪やないか。
「俺を置いて、勝手にどっか行かんといてくれ」
怜司が真顔でそう言うんで、俺はまだエレベーターに乗ったまま、はあ? って顔で固まってた。お前、それ俺に言うとうのか? なんか今、俺のこと見てるっぽいけど、まさか俺を見とうのか?
あんぐりしたまま動けへん俺と怜司の間で、ガコーンてエレベーターのドアが閉まった。あわわわわてなって、俺がドアを開くボタンを押そうと慌てるのを横目に、怜司は長い足でエレベーターのドアを戸袋に押し返していた。怜司の鋭い目が、じっと俺を見ている。
「えっと、それ、俺に言うとうのか?」
俺、バリ噛み噛みで聞いてもうた。怜司がものすごチッて顔した。
「他の誰に言うとうのや。お前に言うたらお前に言うとうと考えるんが普通やないんか」
それもそうやな。でも。
「お前ときどき、俺に向かって俺やない誰かと話しとう時あるで」
特にその、置いて行かないでって話、遠い目のお前にもう何百回も言われたで。もっとかな。気づけば俺らも、まあまあ長い付き合いや。お前結構、寝床で感きわまるたびに言うで、それ。苦手やねん、俺はそれが。
「暁彦様やろ」
すごいしかめっ面で、怜司は言うた。いきなり、触れたらあかん核心部分を怜司が突いてきた気がして、俺はぐっと身構えた。
「それは済まんけど、わざとやない」
気まずそうに、怜司は小声で詫びてきた。
わざとやないから怖いんやないか、怜司。
「さっき……」
怜司は色の薄い目をぐるりと惑わせて、言葉を選んでるふうに口ごもった。
「さっきテレビで見た男な、あれ、よう考えたら本家の坊やわ。本間暁彦って、登与様の子や。せやし、甥や、暁彦様の」
「そうやろな。ぼんくらの坊やて、いっつも蔦子さんが言うとう奴や。あいつがあかんもんやから、秋津家の跡目は竜太郎にとらせなあかんかもしれへんて」
「そうか……変やな。暁彦様の甥やのにな」
怜司はどことなく無念そうに、俯いて、そう言うた。
「会いに行ったらあかんで」
蔦子さんに電話で頼まれたことを、俺は怜司に伝えた。行ったらあかん理由は、こいつは知ってんのやろうと思った。たまたまか知らんけど、俺の知る限り、怜司が京都方面に行こうとしたことはない。嫌いなんやて言うてた。都には、いい思い出がひとつもないって。
たぶん、それは嘘やけど、俺はそれ以上、追求したことはない。詳しい話なんか、聞きたくないんや。聞いてへんのにこいつが話す、昔の男の思い出話で、俺は十分お腹いっぱいなんやから。勘弁してくれやで。
「会いにって、誰にや」
怜司は空惚けた口調を作ったけど、それでも声が震えてた。白々しいんやお前の嘘は。
「ぼんくらの坊々《ぼんぼん》やろ」
「なんで俺がそんなもんに会いにいかなあかんのや」
青ざめた顔のまま、怜司は小声で問い返してきた。
お前がそう言うなら、蔦子さんの取り越し苦労なんかもしれへん。
けど俺も、そう思うたわ。さっき、テレビ画面の中にいる男の顔を見てた時のお前は、ずっと探してた失せ物を見つけたという顔やった。今にもそれに向かって飛び立ちそうな、羽音の聞こえるぐらいの顔つきやった。
飛んで行って、食らいつきたい。そういう気分やったんやろ。強がってみせてもバレバレや。
「暁彦様はな、死んだんや。もうどこにも居らん。先の大戦でな、逝ってもうたわ。俺はただそれが、悔しいだけやねん」
「お前の主上やったんやもんな」
「そうや……」
それだけちゃうやろ。そう思うけど、俺が聞くような事やない。お前の口から直には聞きたくないんや。
「でももう、死んでもうたわ。人間やから」
自分に言い聞かせるように、怜司は俺に説明した。
そうやな。人間やから。死んでまうんや、あっという間に。
「お前は、死なへんよな、信太。人間やないもんな」
「死なへん」
俺が頷くと、怜司は深いため息をついた。ほっとしたような、と言うには、まだ紙みたいに白い顔のままやったけど。
「怜司、しっかりしろ。お前は誰かに寄りかからな立ってられへんような、弱い奴やないはずや」
俺は怜司を励ました。
怜司はそれに、微かに顔をしかめた。
まさかお前みたいな奴が、ほんまにそうやって言うんか。生きてられへんのか。暁彦様とかいう、クソ野郎がおらへんと、死にそうなんか怜司。
全然そんなんちゃうやん。全然お前は、そんな玉とちがう。俺が死んでも、どうせお前は、なんや死んだわ、しょうもない虎やなあって、すぐに忘れて他のとよろしくやるような、そういう薄情な奴や。
そやのになんで、何年も、何十年も経った今でも、別れた夜そのまんまみたいに、ずっと泣いてんのや。格好悪いと思わへんのか、怜司。それも分からんくらいなんか。
俺はほんまに、それが悔しい。お前を狂わせる、憎いあん畜生のことが。
「お前やったらよかったのにな、信太。お前が、そうやったらよかった」
ぽつりと怜司がそう言うた。
曖昧な言葉で誤魔化された何かが、優しくはない怜司の、分かりにくい優しさのような気がした。
お前ではないと、怜司は言うてる。どうやったら俺も、お前を狂わせるような男になれるんかな。
「俺は今日、帰らなあかんか。蔦子さんが、お前に張り付けって」
「見張れって? ご苦労さんやけど、余計なお世話や。そこまで焼き回ってへんて、姐さんに言うといて。ほなまたな!」
苦笑いして、怜司はそう言うて、エレベーターのドアを押しとどめていた足を、すいっと退けた。
ドアが閉まりかけて、俺はまた慌てて、その扉を手で止めた。怜司はこっちに背を向けて、アーチの向こう側のリビングに戻って行こうとしていた。
真っ青な窓に、陽光を受けて湾岸線が光ってる。まるで天国に続く橋みたいや。この、空中を走るまっすぐな道は、あいつが行きたくても行けない京都まで、繋がってるんやなあ。
そんなもん、毎日眺めて、あいつは何を考えてんのやろ。
帰れって、怜司は言うてた。帰れとは言うてへんけど、あれはそう言う意味やろ。
ついさっきは俺が居ないって怒ってたくせに、今はもう、帰れって言うとうわ。
なんて我儘なやつや。どんだけ言うても俺が怒らへんて、舐めてんのやろな。
それがまあ、その通りで、全然怒らへんのやけどな? 惚れた弱みってやつか……。
あくまでも俺を追い返そうとするエレベーターのドアを押し開けて、俺は怜司の部屋に戻った。行ったり来たり、ええように翻弄されて、昨日の夜にここにきた時と同じ。また振り出しや。
湾岸線を眺めて、ぼうっと窓辺に座ってる怜司の横に、俺はどさっと腰を下ろした。怜司が、なんで帰らへんのやお前はという、ちょっと迷惑そうな横目で見てきたが、かまうもんかやった。
「帰らへんの」
「帰るよ。俺も暇やないし。寛太にも餌やらなあかん」
湾岸線を眺めながら、俺は怜司に教えた。怜司は何も言わへんかったけど、ああそうやったなという顔をした。
寛太は一日一回は餌やらな死ぬような奴や。物の例えやなく、あいつはほんまに俺なしには一日だって生きてられへん。
いや、まあ、別に、俺やのうてもええんやけどな。誰か餌くれる奴が居れば、誰でもええんやろうけど。
「忘れ物」
そういえば、あったわと思い出して、俺は怜司の頬を引き寄せ、淡く開いてた唇にキスをした。いつもするのに今日はしてへんかった。そういえば。
怜司は拒まへん。誰でも拒まへんのや、こいつは。
俺が抱き寄せると、怜司はおとなしく首を傾けて、だんだん深くなるキスに応えた。怜司の舌は甘い。いつも、こうして唇を合わせると、気持ちよくて、何も考えられへんようになる。怜司の息が、かすかにはあはあ熱くなるまで、気づくと攻めてた。そういうつもりやなかったんやけど。
貪ってる自分が、急に恥ずかしい気がして、俺はキスを振り解いた。
「キスすんの忘れたなと思って戻ってきてん」
照れ隠しに思わずそう言うた。そう考えてた訳やないけど、そういえばそうやった。いつも別れ際にはキスするねん。ラブラブやろ。
いやまあ怜司がキスするの好きやからやねん。俺も好きやけど。
「……どういうこと?」
怜司はまだ乱れた息のまま、訳わからへんという不安げな目をした。
「インターフォンで言うたやん。忘れ物したって」
「言うてた? そんなの……?」
お前、聞こえてたんちゃうんか。聞いてたんやと思ったわ。
「お前が、インターフォン押しまくる音で気がついて、あれ、俺なにしてたんやろと思って、とりあえずドア開けたん」
怜司は俺の胸のあたりをチラつく視線で撫でながら、子供みたいにぽつぽつと話した。
やっぱり、あの時、怜司の心はどっか遠くの異次元に行ってもうてたらしい。時々行ってまうねん。困ったことにな。
「そうか。開けてくれたんやし、まあええわ。気にせんといてくれ」
怜司が不安そうに見えたんで、俺は思わず、目の前にいた怜司をぎゅうっと抱きしめた。大丈夫やで、お前はちゃんとここに居るんやでという気持ちやった。
「信太、痛い……」
強すぎた? それでも怜司が俺の肩に頭を預けてきたんで、そのまま抱いといた。
「飛んでいかんといて、京都の坊々《ぼんぼん》のところへは」
そしたらお前はもう戻ってけえへん。きっとそうなる。俺には蔦子さんや竜太郎みたいな予知の力はないんやけど、きっとそうなる。
「行かへんよ。会うたこともない餓鬼やで」
「似てんのやろ、暁彦様と」
抱きしめたまま、俺が問うと、怜司はしばらく黙っていた。答えを迷っているのか、それを口に出すのをためらうような沈黙やった。
それでも、結局怜司は言うた。口に出してまうと、もう逃れようのない事実や。
「似てる。生き写しやわ。暁彦様が、生きて戻ったんかと、思た……」
怜司の声が、ぼんやりと沈黙に吸い込まれていくのを耳元で感じて、俺はさらにぎゅうっと怜司を抱きしめた。
自分がどこに居るのか忘れんといてくれ。どっかに飛んでいくのは、もうやめて。今はやめてくれ。俺と抱き合うてんのやで。他の誰かやなく。
「知らん坊々《ぼんぼん》や」
俺は怜司の耳に唇を押し当てて、言い聞かせた。
「そうやな……知らん男や」
「しかも、ぼんくらや」
「そうや。ぼんくらやて蔦子さん言うてた」
俺の言葉を、怜司は素直に、言葉を習う鳥みたいに繰り返していた。
それでもきっと、こんな封印の紙一枚貼った程度では、決して押し止められない奔流が、こいつの心の中にはある。俺も、誰にも、それを止められない日は来るのかもしれへん。
それでも、あの坊々に会う日が遠ければ、会わないままあいつが死ねば、怜司は無事かもしれへん。ずっとここで、俺とこうしていてくれるかもしれへん。
そういう気がして、俺は黙って、怜司の部屋の床を見ていた。
「信太、胸、苦しい」
「そうか、ごめんな」
手加減せなあかんかった。ほんまに力一杯抱きしめたら、怜司が潰れてまうかもしれへん。
俺は慌てて腕を緩めて、怜司の顔を見た。
ぼんやりしたような目で、怜司は窓の外を見ていて、その視線を追うと、また湾岸線が見えた。
やっぱり怜司は、この道を眺めて暮らしてんのや。
そう思うと、なんて哀れな奴やと思った。怜司のことを、好きな奴なんか、なんぼでも居とうわ。それやのに、なんでお前はとっくの昔に死んだ奴のことを、ここで毎日、想っとうのや。
そんなんしてて楽しいか。面白おかしく暮らしたいて、言うてたやんか。
「さっき……」
橋の方を見つめたまま、怜司がぽつりと言った。
「お前がインターフォン鳴らす音で我に返ったんや。そうでなかったら、今ごろどこに居ったかわからへんのかもな」
怜司は空中を走る道の先を見つめていた。
「ありがとうな、信太。でももう大丈夫や。ほんまに、大丈夫。心配せんと帰り。俺は今夜は仕事があるんや」
「仕事って、いつものラジオか」
「そうや。心配なんやったら、お前も聴いといて。野球中継ちゃうけど」
ははは、と乾いた笑い声をたてて、怜司はやっと俺を見た。
なんや疲れた顔しとう。
怜司が俺にありがとうて言うなんて、気色悪。そんなしおらしいこと言うような性格ちゃうやろ。
そう思ったけど、怜司はもう、一方通行のラジオみたいに、俺が踏み込めへんものに見えた。
「またな、信太」
帰れと、怜司が言うてた。
俺はうなだれて、それを聞いた。
俺と抱きおうてる間もずっと、お前は橋の向こうを見てたんか。
そらもうあかんわ。俺にはもう、勝ち目はない。そんなもん、始めからずっと、なかったんかもしれへんな。
でもな、好きやったんや。怜司のことが。好きやった。
「何見てるん?」
じっと怜司の顔を見て黙っている俺に、苦笑いして、怜司が尋ねた。
「お前の顔」
俺は真面目に答えたけど、怜司はアホかと言うように、面白そうに小さく笑った。
「なんで見てるん」
「さあ……好きやから。正気の時のお前の顔が」
でももう見てられへん。
「お前のことを愛してくれる奴はおるよ」
急に怜司がそう言うた。
「たとえば誰やねん」
「俺も愛してるよ」
「しょうもない嘘つくな」
ムッとするより悲しい気がして、俺は怒っていた。それでもやっぱり怜司のことは好きや。
「嘘やない……ただ、俺といてもお前は幸せにはなられへんと思う」
「そんなこと、知っとうわ。お前といて、幸せやと思ったことはない。そんな事はどうでもええんや。ただお前が、全然俺を見てへん。それがずっと悔しいだけや」
「そんなことないよ」
淡く悲しげなような目で、怜司は俺を見ていた。
なんでか俺はそれにムッとした。
怜司が俺を哀れんでるような気がした。
お前は可哀想な奴や、信太。怜司がそう言うてるような気がして、いたたまれなかった。
「お前はええ奴や、信太。俺とは遊びにしとき。誰にとっても俺は、本気で付き合うような相手やないねん」
「そんなことない。お前を捨てた奴が、クソやっただけや! 俺をそんな奴と一緒にするな!」
俺はずっと、怜司に言うてやりたかった事を、怒りに任せて言うた。
怜司は俺を見て、淡く開いた唇から、魂でも吐き出すみたいな長く細いため息をついた。
「帰れ信太」
いくらお前でも、言うていいことと悪いことがある。
怜司はそういう目で、俺を見ていた。