炎の海
すでに日は落ちて夜の帳が下りていた。月が夜の海を照らしている。波は凪いでいて静かだった。
ざざ、と静かな海に碇を下ろし、パンデモニウムから派遣された艦隊たちはキロ島を取り囲んだ状態で沖に停留していた。
「ん?」
波間に白い泡が浮いている。波の花か。何の気なしにそれを眺めていたパンデモニウムの船乗りは、直後に自分の思考の矛盾に気付いた。波の花は海水に含まれる塵芥が荒波に撹拌されて発生するもの。穏やかな波ではとうてい発生しないものだ。ということはそれは人為的なものであり、人為的なものであるとするならそれは。
答えに行き着くと同時に、船乗りの首と胴は分離した。
闇に乗じてキロ族が船に乗り込んできた、と警告がなされたのはそれからしばらく経ってのことだった。
音もなく姿もなく艦船に侵入してきたキロ族たちは的確に首を狩っていく。どこかひとつの船の話ではない。艦隊間で飛び交う報告を聞くに、すべての艦船で満遍なく起きている事態のようだった。
キロ族の刺客が船の上にいるのは間違いないのだ。すべての艦船で起きているということは複数人のはず。それなのに誰ひとりとしてその姿を捉えることはできなかった。
「"観測士"は! 旗船にいただろう、"観測"できていないのか!」
「真っ先に殺されたよ!」
振り返れば仲間が首と胴を切り離されて死んでいるという状況に船員たちは恐怖した。こうなっては仕方ない、夜明けを待ってキロ島に攻め入るつもりだったが予定変更だと艦隊を進めようとして、そして船下の異常に気付く。
「船が進まないだと…?」
海面に何かが敷き詰められている。それを押しのけ進むには進むのだ。だが、そうすると押しのけたものが隣の艦船の進路を阻む。互いに互いが邪魔しあって動くに動けないのだ。
直接キロ島に船を乗り付けて攻め入る作戦だったのに船が進めないのではどうしようもない。そうこうしている間にも首狩りのキロ族たちは淡々と役割をこなしていく。
「くそ、何が浮いてるんだ……う、うわああああ!!!」
暗い海面を照らそうと松明を持った船乗りが身を乗り出す。その背中を見えない影が突き飛ばした。悲鳴を上げながら船乗りは松明を持ったまま海へ落ちていく。松明が海面についたその瞬間。
「は…!?」
海に火がついた。信じられないが、海に火がついた。船乗りたちは己の目を疑った。海に火がついたのだ。水であるはずの海に。火が。ごうごうと燃え盛っている。あっという間に燃え広がった炎は視界に映る一帯の海面を舐め尽くしていた。
呆然としたのも一瞬。すぐに我に返る。この艦隊を構成する艦船は皆木造なのだ。水に浮かべるものに防火の加工などしているはずもなく。
「撤退しろ! 火のないところに逃げろ! 早く!! 急いで撤退し……」
作戦行動など中止だ。船が燃えてしまったらキロ島の占領どころか自分たちの生存さえ危うい。炎の海のないところまで下がり、艦隊を整えなくては。そう指示を飛ばす彼の首もまた、ひらめいた刃によって宙を飛んだ。
「ひ…!」
下っ端たちは半ば半狂乱になりながらも首が飛んだ上司の遺言となった指示を忠実に実行した。実行しようとした。船を動かせば海に浮かんでいる何かが隣の艦船の進路を妨害して足並みが乱れるということなど頭から抜けていた。とにかく自分が乗っている船がこの炎の海から抜け出すことが重要だった。
隣の艦船を押しのけて強引に火の海から逃げる。その船員たちも徐々に首を狩られていく。自分が乗っている船にあと何人乗っているのか、もう把握すらできなかった。舵を握っている自分だけかもしれない恐怖と戦いながら、必死に船を操作する。
「下がれ、下がれ!!」
あと少し。もう少しで炎の海から抜け出せる。ひとつの艦船が抜け出すことに成功する直前。
「ぁ……」
空が翳った。夜の海を照らす月を遮る巨大な影。海中から出てきたそれに押し潰され、炎の海から抜け出したばかりの船は海中に沈んだ。高い波が巻き起こる。高波に煽られて周囲にいた艦船もバランスを崩し、なぎ倒された。
「おい、5番艦! 返事を……くそ、沈んだか…」
何が起きたのか、まったくわからない。離れた場所で見ていた者でさえ、何が起きたのか理解できなかった。船上には見えない影が首を狩り、船下では海が燃えている。地獄のような光景から脱出しようと舵をきった5番艦が脱出に成功した直後、海中から出てきた巨大な影に押し潰された。それしかわからなかった。
そうこうしている間にも、どぱん、と11番艦が沈んだ。先程の5番艦と同じように。
「隊長、あれ!」
ひとりの船乗りは見た。炎の海で悠々と泳ぐ巨大な海の王の姿を。
8番艦を任された隊長は下っ端が指で指し示した先を見る。そこにいた"それ"は13番艦を沈めようと海中から身を突き出していた。
「鯨…!」
どろどろと全身から油脂を流し、頭部や背を骨で覆った巨大な鯨であった。




