幕間小話 飾り窓
それから年が過ぎ、セレットは子供から少年へと成長した。それと同じ頃、母が死んだのだと聞かされた。葬式すら出されず、そしてセレットは母の墓の位置さえ教えてもらえなかった。メイドから聞かされたそれはあまりに他人事で、だからこそ現実離れしていた。
子供のあの日、何度も行った探検で唯一鍵のせいで入れなかった黒の木枠と赤い硝子で装飾がされた扉はその日を境に鍵が取り払われた。入ってみたが、そこには何もなかった。粗末なベッドと埃をかぶった机だけがあった。
机の引き出しには母の名前が表紙に記された日記帳が入っていたが、その存在をメイドに問うた翌日に引き出しから消えていた。その中身について、セレットは知る機会を与えられなかった。
それから更に数年を経て、あの"おくさま"と呼ばれる魔女は病で死んだ。葬儀は盛大に執り行われたが、その場にセレットは呼ばれることはなかった。"おくさま"が遺した遺言は不可思議なもので、事情を知らない人間には奇妙に聞こえた。
「部屋主がいなくなるまで離れの床の張り替えをしないように、だってさ」
どういうことだろうか。屋敷に入ったことのない庭師の老夫は"おくさま"の遺言の意味をわかりかねて首を傾げた。セレットは、そうなんだ、と言った。自分の部屋とあの部屋の前にだけある黒の木枠と赤い硝子の床は綺麗な模様だと思っていたから、別段セレットは不思議に思わなかった。
事情を知るメイドたちはその遺言を忠実に守った。老朽化が進み屋敷を改築することになってもセレットの部屋の前とあの部屋の前の床だけは黒の木枠と赤い硝子のままだった。
さらにそこから年月が流れた。セレットの理解力は年齢相応に成長し、そしてあらゆることを理解できるようになっていた。
自分はシヴァルス国の領主の妾の子であり、そしてこの家に引き取られて来たということ。魔女と信じていたあの女性は正妻であったこと。自分の部屋と同じ装飾のあの部屋はかつて母の部屋であり、そして自分に会うことを禁じられていたということ。子に会えばそのことが心を慰め生きる活力を与えるからだという正妻の命令によるものだった。
メイドや正妻が口々に言っていた"げせんのこ"とはすなわち下賤の子という意味で、農村の娘である母を下賤と罵る言葉であったこと。
しかしそうであっても自分がこの家から追い出されないのは、セレットが男子であるからだ。いくら下賤の血であっても当主の子。しかも男子だ。さらには、正妻の子よりも先に生まれていたことと、そして正妻の子は女子だということだ。母が平民でなければ、王位継承権を争える立場にいたのだ。
それらを正確に理解できるようになった頃、セレットは"おうさま"こと父親に呼ばれた。引き取られたあの日以来の対面であった。
そこでセレットに語られた言葉はこのベルミア大陸に残る風習の話だった。"種蒔き"と呼ばれるそれだ。自分の血統を残すため、様々な勢力に子供を配置することだ。その種蒔きとして、セレットの身柄は首都の自警団に送られることになるということ。
「振り回してすまない」
正妻の妾いびりについても知っていたのだろう。窮屈な思いをさせてすまないと謝られたが、セレットは別段どうとも思わなかった。最初からそれが当たり前だと思っていたからだ。
こうしてセレットは10年近く暮らした屋敷の離れから、シヴァルス国の首都に本部を置く自警団の宿舎に送られた。あの下賤の子がいなくなって清々するというメイドの陰口が見送りの言葉だった。
そこからの日々は目まぐるしかった。生まれてこのかた孤立し、人間関係など築いてこれなかったセレットを自警団のリーダーであるジョラスは暖かく迎え入れ、人間関係というものについて辛抱強く教え込んだ。
同年代の青年たちとも友人といえる関係を築き、今までの子供時代を取り返すように悪戯をして遊び回った。あの日遠巻きに見ていた光景に混ざり、くだらないことで笑いあった。やんちゃをしてジョラスに絞られたこともあった。
思春期を迎え、セレットは友人たちに誘われるままに娼館に行った。安い女なら買えるだけのルーギ硬貨を握り締め、胸の高鳴りを抱えて友人たちと裏道へと足を踏み入れた。
それなりの時間が過ぎ、少年達はそれぞれに首尾を語りながら店の外に出た。その時、セレットは心臓が止まるほどの衝撃を受けた。行きには気がつかなかったものがそこに明々と灯っていた。
そこにあったのは娼館の印だった。黒い木枠に薄赤の硝子をはめ込んだ娼館の印。裏道にならんだいかがわしい店の多くに、その印が灯っている。
それは間違いなく、あの屋敷に過ごしていた日、自分の部屋と母がいた部屋の前になされていた床の模様と同じであった。
下賤の子。あの日かけられた正妻の声が不意に蘇った。セレットの母は娼婦ではなかった。ただの農村の素朴な村娘だった。しかしそれは正妻にとって娼婦以外の何物でもなかったのだろう。だから、そのような者の子として部屋の前にあの装飾を施したのだ。
おそらくあの屋敷は部屋主が両方いなくなったことで床の張り替えをしたのだろうか。それとも万が一正妻の子が死に、セレットにその権利が回ってきた時のためにそのままにしてあるのだろうか。真実など知らない。知りたくもなかった。




