幕間小話 下賤の子
こうしてメイドの目を盗んだセレットの探検生活は2ヶ月に及んだ。メイドは感づいていたかもしれないが、知っていて見逃したのか最低限の関わりだった故に目が届かず気付かなかったのか、セレットにはわからない。
"はなれ"の家の探索はすべて終えてしまった。2階建ての屋敷のすべての部屋を見回ったが、母の姿はどこにもなかった。2階の隅、そこの前だけ黒い木枠に赤い硝子を埋め込んで床の模様を作っている部屋だけは鍵がかかっていて覗けていない。だが扉を叩いて声をかけても返事がなかったので無人の部屋なのだろう。自分の部屋と同じ床の模様の部屋の探索を諦め、セレットは別の部屋へと探検の足を進めた。
それから数日かけ、セレットは屋敷中の探検を終えた。だが"はなれ"に母はいなかった。それならば残るは"ほんけ"しかない。渡ってはいけないと言われているあの黒の廊下の向こうに母はいるのだ。確信したセレットは黒の廊下に向かった。
黒く冷たい石畳の廊下を渡る。渡り廊下には最低限の明かりしかなかった。だが窓から差し込む光で十分歩けた。いけないことをしている自覚はあったので、足音を潜めて、そっと。
もし誰かに見つかってしまったらと思うと、心に冷たいものがよぎる。だが母に会いたいという思いの方が勝っていた。そろりそろりと廊下を進んでいく。
その時だった。曲がり角の向こうから甲高いヒールの音が聞こえてきた。まずい、とセレットは思った。広い廊下は隠れる場所がない。見咎められてしまえば叱られるのは必至で、叱られた時にはどんな罰が与えられるかセレットには想像もつかなかった。
高い靴音は徐々に近づいてくる。隠れることも逃げることもどうしようもできなくてセレットは廊下の真ん中で立ち尽くした。そしてついに、靴音は角を曲がってその正体を現した。
深い薔薇色のドレスをまとった女性だった。女性は全く歩みを緩めず、真っ直ぐに彼らに向かって来た。踵の高い靴が石の床を鳴らして近づいてくる。あとほんの一歩で踏みつけられるというところで、その靴音は止まった。
セレットは唖然とその女性を見上げた。母よりは年上に見える女性は口元に僅かに皺が刻まれていたがメイドよりは若い。長く、濃い色の金髪を高く結い上げて髪飾りを付け、耳や首回りにも宝石が光っている。派手になりがちな薔薇色のドレスすらも彼女を彩る小道具に過ぎず、全てを制してその人は凄まじいほどに美しかった。童話の挿絵にあったお妃様がそのまま抜け出してきたかのようだった。
「おどき、下賤の子」
呆然とするセレットに彼女はそう言った。
見下ろすために顔を傾けることもなく、ほぼ正面を向いた状態で視線だけをこちらに寄越していた。冷淡なその目はセレットを睨み下ろしていた。
「ご、ごめんなさい」
震える声でそれだけを言う。どかなければ、と思うのだが足が動かない。
「おだまり! 卑しい音を聞かせるでない」
ぴしり、と冷たい声が空気を切り裂く。ひっ、と小さく悲鳴をあげたセレットは震えながら這うようにして廊下の隅に移動した。壁に身体を押し付けるようにしているセレットを見ることもなく、彼女は廊下の中央を歩いて去っていく。高く靴音を響かせて歩き去っていくその背中をセレットは震えながら見送った。
ぶるぶると震える子供の姿は数分後、メイドによって発見された。たかが数分だったがセレットにとっては永遠の時間にも思えた。
震えて足が使い物にならなかったので仕方なく小脇に抱えるようにして部屋に連れ去ったメイドはセレットを慰めることもなく、そのまま部屋を出た。叱ることさえしなかった。
あれは魔女なのだ。セレットはそう思った。童話には魔女が登場する。それは非常に美しい姿をしているが、非常に残酷で恐ろしいものだ。だからきっとあの美しい女性は魔女なのだ。
魔女によって母は何処かに閉じ込められたのだとセレットは思った。だがそれはセレットひとりでは解決できる問題ではなかった。あの恐ろしい魔女にひとりで相対するのは不可能だった。だから"王様"を頼らねばならない。
だが"王様"はセレットと母を迎えに来た日以降、外出しているのだとメイドが言っていた。仕事だと理由を聞かされているが、仕事とは何なのだろうとセレットには理解できなかった。
それからセレットは人の足音だけは鋭敏に聞き分けられるようになった。あの恐ろしい魔女に再び会わないように。あの魔女が言っていた"げせんのこ"の意味はわからないままだったが、冷たい意味を持ち人を傷つける言葉だというのは子供心にぼんやりと理解した。あの魔女に再び冷たい言葉をかけられて正気でいられる自信がなかった。だから絶対に避けねばならないと理解した。
「奥様があの下賤の子を見てしまったとか」
「なんてこと。廊下を渡らないようにハンナはちゃんと監視していたのかしら。監督不行き届きですわよ」
「探検ごっこと称して屋敷中を歩き回っているとか……きっと金目の物を探しているのでしょう」
「あらまぁ。やはり下賤の血ですわね。泥棒根性は母親とそっくりとみえる」
ある日の探検。ふと行きがかった廊下でメイドたちがそう話しているのを聞いた。メイドたちはあの魔女を"おくさま"と呼び、そしてセレットのことを"げせんのこ"と呼んでいた。
げせんのこ。意味はわからないが、魔女である"おくさま"も自分のことをそう呼んでいた。げせんのこ。口ぶりからしてよくない言葉であるのは感じ取れた。
げせんのこ。よくわからないが自分はそれゆえに母親と会えないのだと思った。




