準備期間
霊峰ヒリディヴィ。そこには不思議な伝承がある。その神秘的な伝説を持つ山を擁する平原がある。古語で鐘の意味を持つそこは悠久という言葉が似合うほど広く遠い地平線を持つ。前後左右見渡す限りの大草原。
「地元民からすりゃただのだだっ広い草原って印象だなぁ」
「そうだね」
ジョラスの要約をエメットが肯定する。誰も住んでいないし街道とも遠く離れた大平原ならば、一戦交えたところで周囲に被害は出ない。戦うにぴったりではないかというのがエメットが出した案だった。
「ふぅん。いいんじゃねぇの」
そこなら規格外どもも存分に戦えるだろう。猟矢はともかく、いや猟矢も十分に規格外なのだが、アッシュヴィトは相当だ。何の比喩でもなく本当に神を呼び出し使役する。今までの召喚は周囲に配慮して力を振るってくれていただけで、その気になれば世界を吹き飛ばすことができるのだ。アッシュヴィトが軽率に呼び出すために感覚が鈍りそうだが、神が召喚されるたびにアルフは冷や汗をかいているのだ。あれが力加減を間違えたらどうしようかと。
「というわけで、オトリ役、引き受けてもらえる?」
ガルシアとグインを返り見る。話を聞いていたふたりは躊躇することなく頷いた。そこが死に場所だと覚悟を決めた顔だった。
噂がある程度広まるまで時間がかかる。出所がわからぬよう工作しながらじわじわと噂を広げていかなければならない以上、どうしたって時間を要する。
「坊主、ベルズクリエなんて初めてだろ。観光していっていいぞ」
騒ぎを起こさなければ歩き回っていても問題ないだろう。身内だけで閉じこもる気風のあるベルミア大陸にあって、ベルズクリエ国は比較的よそ者に温厚だ。多少奇異の目で見られるかもしれないが、ヴィリア国のように石を投げられることはまずない。
「なんだっけ表向きの理由…あぁ、誤配達の荷物の受け取りか。そのついでに観光してますーって顔してりゃ問題ないだろ」
おそらくは。ジョラスがにっと人当たりのよい笑顔を浮かべた。
「まー、そのついでに噂を流してくれりゃいいぜ」
「うんわかった。ヴィトとアルフはどうする?」
こんな数人がひしめくには狭い部屋で数日待つなんて気が滅入る。外を歩いていいならとてもよい気分転換になるだろう。頷いた猟矢はアッシュヴィトとアルフを見た。
「うーん、ボクはいいかなぁ。目立つし」
ビルスキールニル皇女の顔などベルミア大陸に広く知れ渡ってはいないだろうが、外出すればどうしたって銀髪が衆目の目を引いてしまうだろう。白に近いプラチナブロンドはビルスキールニル人のみの特徴だ。
「じゃぁ俺が行く!」
閉鎖的なベルミア大陸を堂々歩けるチャンスだ。アルフが手を挙げた。
「あ、それならあたしも行くよ」
誤配達の荷物の受け取りに来たよそ者だけが歩いていては注目を浴びるだろう。現地人が付き添って案内してあげているという格好になればそれほど目立ちはしないはずだ。
こうして猟矢とアルフのふたりがエメットを伴って街へ繰り出した。寝泊まりする場所を用意するとネキアがぬいぐるみを持って立ち上がり、手伝いにとガルシアとグインを引っ張っていく。脱走者2人の監視をするためにジョラスがそれについていく。
その背中を見送り、イマサラダケド、とアッシュヴィトがセレットを見た。
「そのフードの中身、すっごく気になるんだケド」
くだらないことかもしれないし重要なことかもしれない。だがとりあえず気になる。素顔を晒せない事情があるのだろうか。それともネキアのように、素性を隠すことに愉悦を感じる類のものだろうか。素性を隠す愉悦はとてもよくわかる。アッシュヴィトとて皇女であることを猟矢たちにだいぶ長いこと伏せていた。
「あー…これ。これかぁ…」
見せても問題ないがどうしようか。フードをちょいとつついたセレットはしばらく悩んだ後、まぁいっか、とぼやいてフードを取り去った。
「あ…!」
アッシュヴィトが思わず絶句する。そこには、エメットとよく似た面差しがあった。もしエメットが男として生まれたのならこういう容姿をしていただろう。そんな想像を体現したかのような顔がそこにあった。
「……もしかして」
そういえば出立前にスティーブが言っていた。シヴァルス家の妾の子の話だ。シヴァルス家の領主が平民の女性を孕ませたとか、その子供が地元の自警団にどうとか。もしかしてセレットはその子供か。
「そーゆーこと」
この通り、シヴァルス家の正当な後継者であるエメットととてもよく似た容姿をしている。シヴァルス国の中では妾の子の存在など公然の秘密なのだが、その秘密の人物が誰であるかまでは広まっていない。だから特定され、これ以上公然の秘密を増やさないためにも顔を隠すことにしているのだという。
隣国であるベルズクリエ国までその公然の秘密が広まっているとは思わないので顔を晒していてもよさそうなものだが、顔を隠すのが習慣となってしまっているのでこのままでいるという。
それに何より、この顔を見るとエメットがどうとも言えない表情をするのだ。正妻の子供として生まれたエメットは自分の存在を知っている。実際の顔は知らなかったようだが、名前くらいは聞いていたようだ。その本人が目の前にいるというのはどうあっても身構えてしまう。
この逼迫した状況で会話のたびにいちいちぎくしゃくしてしまうと話が進まないので、エメットの精神的負担を軽減するためというのもある。
「俺はまぁ、それが当たり前だったから別に変とは思わなかったんだがなー」
正妻から妾への態度はそれはもう酷かったようだ。ようだ、というのはセレットにとってそれが当たり前だったから別段不思議ではなかったので、第三者から見た感想をそのまま言っている。
その迫害にも似た対応をエメットは知っている。そして正妻が妾をいびり殺したことにエメットは負い目を感じているようだった。だからその妾の子であるセレットを前にすると萎縮してしまうのだ。




