遁走する畏怖
「……だそうだけど」
風の噂とはよく言ったものだ。風は声や音を運ぶ。不安を囁く末端たちの言葉は風に乗ってこちらからとてもよく聞こえていた。風上に彼らたちはいて、風に乗った声音が風下にいる自分たちに届いていた。
パンデモニウムの規則としては、不安を煽るものは処断されるべきである。恐れのあまり不安を口にする彼らの言葉は処断に値するものであった。処断とはすなわち殺すことだ。
さて、首と胴を切り離しまうかどうか。生殺与奪の権利を持つネツァーラグは楽しそうに口端を釣り上げた。
「言わせておけ」
事実だ。セシルは興味なさそうに顔を背けた。
この世界をパンデモニウムのものにするために生み出された存在なのは真実だ。その意義の達成のために不死の力を与えられた。心臓に埋められたその武具はキロ島が生み出してしまった罪咎だ。自身が死した時、周囲の生命を奪って復活するという、世の理を破るものだ。
「まぁ見逃せと言うならそうするさ」
とりあえず目の前のものに関しては、だ。だが目の前のものとは別に見逃せないものもある。目の前のあれらと同じように、"破壊神"の威力に恐れをなしてパンデモニウムを抜けた集団がいる。あれらは見逃せと言われても見逃すわけにはいかない。あれを見逃したら脱退者が相次ぐだろう。そうすればパンデモニウムは瓦解する。
劇団員がいなくなってしまっては劇も成り立たない。そうならないためにも離脱者はきっちり処断しておかなければ。
「やれやれ。しかもよりによって……」
離脱を表明し、逃げた先がよりによってあの反パンデモニウムの集団の巣だ。ベルミア大陸にひっそりと存在していた彼らは、確たる証拠はないがキロ島の反パンデモニウム組織とつながりがある。巧妙につながりを隠した支部か何かだろう。離脱者たちはあろうことかその集団に保護を求めたのだ。
そこまでは確認した。だが肝心の奴らの潜伏先がわからない。レッター級の者たちに捜索させているが喜ばしい報告は未だにない。
「仕方ないな。僕が出るしかないみたいだ」
簡単に逃げ出されあげくに敵対勢力に転がり込まれ、しかもその上に潜伏先がわからないとは恥の三十塗りだ。探すのに手間取っているなどという印象を与えてしまえば、意外と脱走は簡単なんじゃないかと思われかねない。組織の引き締めをするためにも即行発見即座処断だ。
脱走などとする気が起きないほど凄惨に見せしめにしなければ。そしてその役は自分が引き受けよう。ネツァーラグ・グラダフィルトは残虐な笑みを口に乗せた。
パンデモニウムのレッター級の何人かが保護を求めている。その報告にさすがに度肝を抜かれた。
あらまぁ、とだけ呟いたカガリはそれきりどう反応していいかわからず硬直している。まさかこんな展開があるとは。冷静に物事を"観測"し分析する切れ者のユミオウギでさえ困惑の表情を浮かべている。師匠がこれほど動揺するとは、とアルフは初めて見る光景に驚いていた。
「パンデモニウムについていけない、逃げ出してきた…とは…あらまぁ……」
驚きが一通り駆け抜け、ようやく事態を飲み込んだカガリは、はぁ、と息を吐いた。あれだけのことをなした"破壊神"を抱えるパンデモニウムに恐れをなし、逃げ出してきた、と。
パンデモニウムを裏切ってこちらに寝返るという話は騙りではないだろう。彼らは刺青として刻まれているパンデモニウムの刻印を焼き潰したそうだ。刻印を潰すなんてことをしたら処断の対象になるのは間違いない。騙りでもできないことだ。そんなことをしたのだから決意は本物のはずだ。
「保護ネェ……」
パンデモニウムの情報を渡すから保護してくれ、とは随分都合のいいことだ。
今まで散々各地で悪事をなしてきておいて、手に負えないものが生み出された瞬間逃げ出したなどと。ほの暗い声音でアッシュヴィトは呟いた。
刻印を潰して逃げ出した。だからなんだ。逃げ出したからといって今までの悪事が精算されたわけではないのだ。逃げ出した奴の中に故郷を焼き討ちした人間が混じっているのかもしれないというのに。
パンデモニウムに与する人間は等しく死を。裏切って逃げ出してきたからといって許しはしないのだ。保護などせずに放り捨ててしまえ。むしろ血祭りにあげてしまえばいい。
「随分と過激なことで。…ですが彼らの身柄は我々"アトルシャン"のものですので」
保護を受け入れた以上、彼らの身柄は現地の団員、ひいてはカガリの判断に委ねられている。いくら憎いとはいえアッシュヴィトの勝手にさせるわけにはいかない。憎悪はわかるがこらえてほしい。手を出されては困る。
「ヴィト、落ち着けよ」
憎悪はわかる。だからそれをある程度消化する案を思いついたのだとアルフが宥めた。
案とは。ほほう、とユミオウギが唸った。動揺の余韻を引きずっていたとはいえ、師匠より先に作戦を思いつくとは。ぜひとも聞こうではないか。




