世界が震えた日
時は少し遡る。ラピス諸島の本島、領主の家の離れの宮にて。
そこでは領主の愛娘でありラピス諸島の巫女であるヴェイン・サイトが静養している。パンデモニウムによって意識と知識を抜き取られ生きた人形と成り果てた彼女は、この離宮にて日々を過ごしている。
「ヴェイン、今日もいい天気よ」
公務の隙間を縫って、領主は愛娘の様子を見に離宮を訪れた。投げかけた言葉に対する返事はなかった。
鼓動や呼吸といった生命活動は滞りなく維持されている。だが自我や魂といったようなものが抜け落ちている。虚ろな人形は呆と宙空を見つめベッドに横たわったままだ。母が声をかけても反応を示すことはない。
ボクの力がないせいでゴメンネ、とアッシュヴィトが抱きつき縋ったのはいつのことだろうか。もう月を数え始めるほど前のことだが、それから何ひとつヴェインには変化がないままだ。
声を発するわけでも何かを見るわけでも何かを聞くわけでも手を伸ばし触れるわけでもなく。鼓動と呼吸だけを繰り返し、時折忘れたように瞬きする。
それでも、誰もヴェインのことを見捨てなかった。母である領主を筆頭にラピス諸島の政治議会はヴェインの保護と治療で一致した。神でさえ、ヴェインを見捨てて新たな巫女を選定することなく状況を見守っている。
誰も諦めてはいない。解決法は目の前にあるのだ。ヴェインの身に起きたこれは武具によるもので、つまりはその武具を破壊すれば彼女に自我が戻るのだ。パンデモニウムの誰がやったかまではわかっていないが、それを突き止めて引きずり出せばいいのだ。
「……ぁ………」
それは、ふとすれば庭木の葉擦れの音で掻き消えてしまいそうな小さな呟きであった。だが確かに、ヴェインの口から発せられた。
「ヴェイ……」
武具を破壊しなければずっとこのままだと言われているのに。神の奇跡か。喜色ばんで名を呼びかけたその瞬間。
「終わらせて終わらせて終わらせて、おわらせて、おわらせて…!!!」
そして、世界が震えた。圧倒的な破壊の力に。凄惨な惨禍に。吹き荒れた悪夢に。着弾の衝撃に世界は揺れ、余波が駆け抜けていく中、虚ろな人形は叫ぶ。
「おわらせて…おわら、せ、て」
どうか終わらせてくれと。世界を駆け抜ける力に蹂躙され、悪夢にもがく者たちの感情を代弁するかのように。
その報せがアッシュヴィトのもとに伝わったのはそれから後のこと。
謎の衝撃が"破壊神"によるものであり着弾点はアルフェンド国であることなど、状況報告がある程度出揃ってからのことであった。
「ラピス諸島の巫女殿がそう叫んだそうだ…と」
引きつれた声で叫んだヴェインは地震がおさまるに従って口を閉じ、今では絶叫などなかったかのように元通り沈黙しているという。
「終わらせて…か」
「どう思う?」
どういう意味だろうかと頭を悩ませるアルフにユミオウギが問う。師匠として弟子の見解を聞こうではないか。水を向けられ、アルフは首を振る。答えを出すには情報が足りなさすぎる。
駆け抜けた破壊により現地は地獄の様相だろう。運良く、否、運悪く生き残ってしまった人たちがどうかこのまま悪夢を見せることなく殺してくれと叫んだ懇願を受け取ってしまっただけという説が一番に考えついたものだが、それを答えとして示すには不可解な点がある。
巫女だとかそういう神性がある役職にある人間は、自然と魔力に敏感になる。そこに乗せられた感情を読み取る能力に目覚めていく。生き残りの懇願を受け取ったにしてはおかしい。だってあの魔力は"破壊神"とやらのものだ。だとしたらその発言は"破壊神"のものになるはず。それが終わらせてくれと懇願するのは妙だ。
「師匠は?」
偉大なる師匠はどう分析するのだろう。訊ねると、確証はないが、と前置きして口数少ない師は口を開いた。
ユミオウギの見立てはこうだ。巫女本人から抜き取られた知識と意識が"破壊神"に移植された。世界を愛する巫女が世界を滅ぼすものにされたという苦悶がそう叫んだのではないかと。呪わしいものになった自らの命を終わらせてくれと。
そう考えれば筋は通る。だが直感が不正解を告げている。その見立ては正しくないと直感が訴えてくるのだ。
「かといって正解になりそうなものが見つからなくてな」
他の視点で分析しようにも情報がなさすぎる。なので一旦保留にしておくしかない。頭の片隅にでもとどめておいて、新たな情報が手に入ったら再び考えるとしよう。
「おいサツヤ、大丈夫か? 顔色悪いぞ」
机の端に座り、アルフとユミオウギの会話を聞いていた猟矢の顔色がよくない。そのことに気がついたアルフが問う。人によっては、強い魔力にあてられると一時的に酔いに似た症状を起こすという現象がある。それだろうか。
心配するアルフに、なんでもない、と猟矢は首を振った。




