鐘の音
ともあれ"コーラカル"全体の方針が決まらないことにはその末端である猟矢たちも動けない。猟矢は"コーラカル"の旗印だが、平時はバハムクランのいち団員として働いている。もうひとつの旗印でもありビルスキールニル皇女であるアッシュヴィトも同様だ。
「しかしまぁ、皇女様が労働とはねぇ」
アルフがぼやく。しかも携わっているのは地味な配達業務。地味極まりない。こんなものを皇女がやるとはと文句をつけずに楽しそうに業務に励んでいるのは良いことなのだが。
「市井に混ざるのも皇族の勉強のうちだったカラネェ……」
治めるべき民がどういう生活をしているのか身をもって知る必要があるといって勉強のため王宮から放り出されたのはいつだったか。最低限の読み書きと算数ができた頃だったか。
どこかしらの家に引き渡すための手続きや儀式をしたわけではなく、まさに放り出されるようにぽんと王宮の外に置いてけぼりにされた。着の身着のまま、数日は食べていけるような額の資金だけを持たせて。あの時は捨てられたのだと思ったくらいだ。実際は事前にこれでもかと民に周知がなされ、街には普段の数倍もの警備が敷かれていたわけだが。アッシュヴィトが自らの意志で王宮に戻る半年、それはもう厳重な警備がなされていたと聞く。
「ノンナの乳搾りも出産手伝いも何でもできるヨ」
「へぇ、そりゃすげぇ」
それはそうとして。
「なぁヴィト、今日の配達ノルマ終わってないよな?」
「……バレた?」
「早く行ってこい!」
まったく猟矢は早々に終わらせたというのに。悪戯がばれた子供のようにぺろりと舌を出すアッシュヴィトを部屋から叩き出す。はいはい、とようやく重い腰を上げたアッシュヴィトは居住している宿屋から出た。2階が個室の宿泊部屋となり、1階が酒場と食事処を兼ねる典型的なつくりの宿屋はアッシュヴィトたちが住まいとしている建物だ。木造だが個室部分には武具で特殊な防音結界が張ってあって部屋の内部の音が漏れることはない。
行ってきマス、と手を振ったアッシュヴィトと入れ違って猟矢が戻ってくる。左肩から斜めにかけた鞄は配達仕事に使うものだ。配達は終わったというのに鞄は膨らんでいる。またどこかの家で何か土産を持たされたらしい。
「なにもらってきたんだよ」
「青い布屋根のパン屋の店主にアズラの実のジャムを」
「ほほう、ウォドリングのおっさんのパン屋が土産をなぁ」
あの店主は頭が回る。ジャムを土産にしたということは、つまりそれをつけるパンを買わせる意図があったに違いない。さすがは商売上手だ。その目論見通りパンを買わされた猟矢はジャムの瓶と焼きたてのパンを鞄から取り出した。少し遅い昼飯といこう。一口程度にちぎってからジャムの瓶にひたす。赤いジャムが柔らかいパン生地を彩る。それを口に放り込んだ。
アズラの実は赤くつややかな皮に覆われている。それを割れば甘くみずみずしい薄桃色の果肉があり、中心部にはぐずぐずとした綿状に変化した果肉に覆われた種がある。メロンと同じ構造をしているが、味は苺や柘榴に近い。皮も種も食べられるものなので、ジャムにする時には丸ごと砂糖で煮る。そのためアズラの実のジャムは真っ赤なのだ。
不思議なものだと猟矢は思う。現代からこの異世界に来たが、この異世界でも現代と同じものは存在する。リンゴやオレンジの味は変わらないし、"リンゴ"と言えば"リンゴ"で通じる。アップルだの何だの英語や何かしらの言語に言い換える必要もない。これが異世界転移された際に"ソール・オリエンス"に保証された翻訳能力だ。ただアズラの実やノンナといったように、猟矢の世界にはないものに対しては翻訳する言語が存在しないためにそのまま出力される。不思議なものだと猟矢は思う。
どうせなら文字も翻訳してくれればよかったのにと不満に思わなくもないが、言葉が通じるだけよしとしよう。これで言葉が通じなければどうしようもなかった。そんなことを思いながら、もぐもぐとパンを咀嚼する。その机に対面するように座るアルフは手帳に何かを書き付けていた。
「何書いてるんだ?」
「んー、世界情勢のまとめっつーか、色々と」
バハムクランの情報通として、得た情報はきちんとまとめておきたいのだ。どこの誰がどんなことを言い、どんな行動を取ったか。周囲はどんな反応を示したか。その人物にまつわる情報も何もかも。
「世界情勢といえば、今どうなってるんだ?」
「同盟か? パンデモニウムに動きがないせいで"コーラカル"は平和極まりないぞ」
それはとてもよいことなのだが。問題は同盟のさらなる発展のために他の地域に加入を促しているのだが反応が芳しくないということだ。
「身内だけど他人のふり真っ最中なキロ島はまぁともかく、ミリアム諸島は徹底拒否だしクレイラ島は大沈黙。ベルミア大陸もノーブル・コンダクトどもが同盟に非難轟々で」
「ノーブル・コンダクト?」
「ベルミア大陸の4つの国の王家のことだよ」
貴族の責任という意味だ。ベルミア大陸を支配する4つの国を指してそう呼ぶ。うちひとつのアルフェンド国は没落して今は3つになってしまったが。
そう説明するアルフの話を聞きながら、猟矢は違和感を覚える。ノーブル・コンダクト。聞いた覚えがあるような、ないような。なんだったか思い出せない。
この世界で聞いた単語ではない。猟矢がいた現代で聞いたことでもない。だが、その言葉自体は覚えがある。違和感を抱えながら猟矢はアルフの話の続きを促す。
「ベルズクリエ国はまだ交渉の余地があるんだが、シヴァルス国とヴィリア国がなぁ…って、どうした、変な顔して?」
「…………あ…!!」




