神に至るは
用事は何だ。問う火神カークスの言葉に流れていた和やかな雰囲気が一転する。ぴんと張り詰めた空気の中、アッシュヴィトは口を開いた。
「ヤクソクの確認がしたくてネ」
普段使役している礼をしに行くと皆には言ったが、それがしたくて来たわけではない。確認したいことがあって来たのだ。
確認、と水神ティアマトが緩く首を傾げた。頭飾りに連なった数珠つなぎの真珠がしゃらりと鳴った。わざわざ確かめることがあっただろうか。
アッシュヴィトはビルスキールニルの皇女である。だから神を使役することが許されている。神もまた、あの"不滅の島"の皇女ならばと力を貸すことを承諾した。アッシュヴィトはそれを"神に助けさせる"と解釈しているがその話か。
「そんなコトじゃなくて…もう、トボケるのもイイカゲンにシてヨネ」
そうではなく、とアッシュヴィトが首を振る。おそらく本気で忘れているわけではないだろうに。
看破された水神ティアマトが穏やかに微笑む。笑って誤魔化そうとしているようだった。
「もちろん覚えているとも」
忘れたふりをする理由もなかろうに。意地悪をする水神を咎めて雷神トールは頷く。忘れることなどない。あの日、血反吐を吐きながら万の骸の山に立って悲鳴のような祈りを捧げた哀れな皇女の姿など。
力が欲しいと渇望し、絶望の砂山でもがいた哀れな皇女。その失意の叫び、必死な哀願は神に命を吹き込み、形を与えられた神は皇女に跪いたのだから。神を召喚する門"インフェルノ"はそうして生まれた。だから煉獄の名を冠す。薄暗い絶望の底から神を使役するために。
「貴殿がその煉獄を持つ限り、契約は継続される」
神はそれを違えることはない。神から破棄することもない。アッシュヴィトがその指輪を持つ限り、永遠に契約は継続される。
「えぇ。違えることなどありません」
ふ、と樹神ラウフェイが微笑む。約束は絶対だ。気まぐれと自由を愛する風神アンシャルでさえその契約を履行する。まるで地中で絡む根の束縛のように絶対なのだ。
「不協和の律動が正されし時、失われた魂は元あるべきところへ」
パンデモニウムが滅びた時、ビルスキールニルの民の魂は復活する。
それは、アッシュヴィトが神と交わした契約。絶望の底でもがく皇女に垂らした神の慈悲。もし、深淵の万魔を殺すことができれば、その時はビルスキールニルの時を巻き戻し失われた民を返還しようと。
神の力ならそれも可能だ。世界は無理でも島ひとつの民の命くらいならば返せる。冥府に召し上げられた魂を現世に引き戻す。島ひとつ丸ごと時間も何も、島が滅びた"あの日"以前に巻き戻すのだ。
しかしこれには条件があり、ビルスキールニルを巻き戻したその時、"あの日"以降に蓄積されたものは失われる。平たく言えば、生き残りの人々の記憶は失われる。滅びた事実が消えるのだから、滅びた記憶など最初から存在しなくなる。ラクドウだって恋人を失い、あまつさえパンデモニウムに操られた記憶さえ消える。これはイルートたちも了承済みの件である。
猟矢の"キャンセル"に似た力だ。だが大いに規模が異なる。猟矢でも大勢の人の死の"キャンセル"などできはしない。失ったものは取り戻せない。だが、その理すら無視してそれをなすのが神の力だ。
「不協和の律動が正されし時、失われた魂は元あるべきところへ」
再度雷神トールが契約を読み上げる。雷の力は約束や契約を司る。峻烈な雷光は人々の言葉を刻みつける。
「相違なし」
樹神ラウフェイが応じた。束縛の根は一度交わした契約を変えることはない。複雑に絡んだ根は条項を変更することを許さない。
「了とした」
主の水底のような深い絶望を受け止めよう。水神ティアマトが応じた。
「同じく」
土神ヨルズが続いた。堅牢に従順に従うつもりだ。頷いた土神に、私も、と風神アンシャルが続く。自らが司る風は自由の象徴であるが、契約に従おう。
氷神フレスヴェルグもまた頷いた。交わした契約は氷の中に閉じ込めて歪められることはない。盤石の永久凍土を溶かす炎を持つ火神カークスとて同じ。焼けた鉄を押し付け焼印として刻みつけるように契約は消えることはない。
「愛しき我が主。我々がそう呼ぶ間は何も違えることはありませんよ」
「…うん、そうダネ、アリガト」
わざわざ確認するまでもない。アッシュヴィトが"インフェルノ"を自ら捨てない限り、その契約は有効だ。そしてその願いが成就されるまで、神は力を貸す。
頷いたアッシュヴィトは大事そうに左人差し指の指輪を撫でた。これがある限り、やり直せるのだ。"あの日"に失った過ちを正すことができる。
「そうだろうとも。……っ!」
不意に、火神カークスが息を呑んだ。焦った様子で虚空を振り返る。神殿内に何かあるわけではない。火神が見ているのはそのはるか向こう。自らの信徒が住まう火の島、キロ島の方角である。
「どうしたノ、カークス?」
「…火が……」
揺れた、と。火神カークスは硬い声でそう呟いた。




