刻みつけられた背中
私がやる。そう言ったダルシーは唐突に氷剣を放棄した。腕輪に戻る銀輪。ゆっくりとひとつ深呼吸したダルシーはまとっていた外套を強く握り締めた。
「……本来は」
うつむいたダルシーが呟く。大きく動いたことで露出した耳を隠そうとすらしない。何かの覚悟を決めたような重苦しい声。思わずドリアードが攻撃の手を止めた。
「アレイヴ族は10歳で身体に刺青を入れられる」
最低限自分の身を守るための力を与える魔術式の刺青だ。そこから適正によって薬師か防人かに分かれ、薬師となる者は知識を吸収し防人になる者は更に刺青を重ねていく。
成人というには少し早いが、その儀式を経て里の一員として正式に数えられる。それほど重要な節目だ。それを任される彫師はその儀式だけを専門として、それ以外の役には携わらない。ある意味長老よりも重要な地位を持つ。
だがダルシーは"耳無し"であるが故にその儀式を経ていない。"耳無し"に施す刺青はない、さっさと海に捨ててしまえと彫師が拒否したのだ。だからダルシーの肌には刺青がない。
「だから母は対策を打った」
刺青がない。否。刺青はある。それは母が最期に残してくれた唯一。里で最高の医療技術を持つ薬師であったからこそできた手段。
ざわりとダルシーの身体から魔力が吹き上がる。うつむいたまま身を屈めたダルシーは詠唱を舌に載せる。背中が、熱い。
「汝が根源は世界樹の滴り」
それは母の身体に刻まれていた刺青であった。彼女は自らの皮膚を肉ごと剥がし、娘の背中に移植した。その傷が遠因となり命を落とした。直接の原因は、皮膚移植などという手段で刺青を施した異端に対する強い差別と迫害だったが。
「汝が姿を現世に刻め。"リムノーレイア"」
背中で熱が弾けたように錯覚した。弾けた魔力が形をなし、ダルシーの足元で水溜りを作る。そこからずるりと現れたそれは、上半身だけのひとの形をした水だった。髪も目も手足も水がそれらしく形をとっただけの。
喋る器官もないそれは、かつての主人の娘であり現在の主人であるダルシーを見た。久しぶり、と目が訴えている。口があったならそう喋っているだろう。
「"リムノーレイア"、お願い」
知性も知能も低い下級の水の精霊だ。大した能力は有さない。水で構成された身体を活かして敵の顔を包み溺死させるだとか、隙間をすり抜けるだとか、その程度しかない。闇馬"アムドゥシアス"のように剣のような角を持つわけでも夜の女神"ノート"のように生物を眠らせるわけでもない。ましてや神に匹敵するなどとは。
だがそれでいい。それで十分。ダルシーの指示を受けて"リムノーレイア"は水の身体を翻してドリアードに向かっていった。それを蔦が迎撃する。しかしひとの形をした水の塊は蔦に打たれても堪えない。すり抜けてドリアードの身体を包んだ。
属性元素と変わらぬほどの低級な下級精霊だからこそできる芸当。大気中の水の属性元素を引き寄せて自分の体積を増やしたのだ。空気中の水蒸気を集めて一滴の水とするような行為を"リムノーレイア"はやってのけ、拡大された水の塊は大樫のドリアードすら包む。
だがそれがなんだ。ドリアードの顔の果実が侮りの笑いを浮かべた。ように見えた。包み込むほど巨大になった水の塊など、この大樫の前ではただの栄養に過ぎない。全て吸い取ってくれよう。
蔦の鎧の隙間から生えた根が水塊となった"リムノーレイア"に刺さる。まるで水を飲むように吸い取っていく。それに負けじと"リムノーレイア"もまた大気中からさらに水を集めようとする。
僅かなせめぎあい。決着はあっという間だった。みるみるうちに水塊は手のひらほどに小さくなってしまった。不利と悟った"リムノーレイア"がドリアードから離れようとするももう遅い。深々と突き刺さった根がそれを離さない。
"リムノーレイア"が"リムノーレイア"である最後の一滴。それすら奪い去られようとした瞬間。
「 」
ドリアードの身体が揺らいだ。ぐらりと傾いて足根から崩れ落ちていく。"リムノーレイア"に突き刺さった根もどろどろと溶けていく。拘束から逃れた指先程度の水塊はダルシーの元に慌てて戻っていった。
指先に乗るほど小さくなってしまった精霊を優しく受け止めたダルシーはドリアードを見る。青々とした蔦は黄色く変色してしまっていた。蔦は太いままだがそれは先程までの硬く重い強靭なそれではなく、水を含みすぎてぶにぶにとした柔らかいものだ。
根腐れ。どんなに立派でも根がなければ木は枯れる。堅牢な蔦もまた栄養を供給する根がなければ生育できない。
「……ご苦労様」
役目を終えた"リムノーレイア"を還し、ドリアードを見下ろすダルシーは再び氷剣を手にした。たっぷり水分を含んだ木はさぞかしよく凍るだろう。
ぼろぼろと蔦の鎧が枯れていく。根腐れを起こした足根を晒したドリアードの本体が露出していく。
もはやこれまで。決着はついた。諦めたようにうつむいたドリアードは葉擦れの音でトレントに決着を伝えた。
お見事。娘を連れて帰るがいい。大樫の処刑樹はニルスが収容された檻の出入り口を開放した。




