衍字
「パンデモニウムは世界の間違いによって生まれたもの。俺は……その間違いを潰さなければならないんです」
この世界は自分の創作によって生まれた。今まで猟矢が生み出したものを集めてひとつの箱に詰めた世界だ。
設定は作った。プロットも作った。序章にあたる文章も書いた。それを受けてこの世界も歴史が回り始めた。猟矢が文章を書くに従い、この世界の歴史も創作に沿って動き出した。
猟矢の思いのままに、世界という舞台は作り上げられた。
猟矢が神にもっとも近い神秘的な島を作り、その王と民を描けば、この世界にも同じものが生み出された。それがビルスキールニルであり、そこに住む民たちだ。
世界には数多の属性元素がありそれぞれの種族がそれを信仰していると定めれば、この世界もまたそうなった。ベルベニ族、シャフ族、スルタン族、キロ族、アレイヴ族、竜族、それらがそうだ。
万魔の悪徳と恐れられる集団がいて、それらに立ち向かう反抗集団を作れば、そのようになった。パンデモニウムと"アトルシャン"、"コーラカル"というものとして。
創作と反映。つまりそれは、とあるひとつの不幸を生む。猟矢が作り出した万魔の悪徳の集団を反映してパンデモニウムができた。それならば同じように、その創作と反映の関係は個人にも及ぶだろう。猟矢がそういうものとしてキャラクターを作り出した故に、その役をやるために誰かがそうさせられる。
その代表がネツァーラグ・グラダフィルトという人間だ。そう猟矢は理解している。間違いなく、彼という存在は自分の創作とこの世界の関係を象徴する人間だ。
ネツァーラグは、猟矢が生み出した悪役の像を反映するための人間であるが故に、それに相応しい人生を歩まされた。設定された悪役になるに足る人生を。ある意味レールの上の人生だ。どう足掻こうとも真っ当に生きようとも、宛がわれた役割を果たすために運命が修正をかけてくる。
それを知ってしまったネツァーラグはあれだけの憎悪を猟矢に向けるのだ。自分の人生は、そうであれと人物像を設定し、筋書きを書き出した猟矢に責任があると。
それでキャラクターとして、ひとつの役として、ひとつの人間として、幸せであれ不幸であれ悲劇であれ喜劇であれ結末が決着しているならまだいい。ひとつの演劇と思えば、宛がわれた自分の役を人生かけて演じるだけだと開き直れる。
しかし、この世界という舞台の上にいる人間たちにとってはあろうことか、猟矢は生むだけ生んでおいて一切創作を完結させることなく放置した。創作を反映して作られ、創作を反映して動き出した世界は創作を反映して途中で放り出された。
これではどうしたらいいかわからない。台本はないのだ。進むことも戻ることもできない。悲劇の人物として死ねばいいか、喜劇の道化として生きればいいのか。どうしていいかわからずに立ち尽くすしかできない。
明確に終末を描いてピリオドを打ったわけではない。元である創作にはピリオドを打たれていない。終末の創作がないから世界は存続する。稼働し歴史を紡ぎ続ける。放り出され、それから方針もないままに流れた歴史は少しずつ歪み、そして今に至る。
だから、終わらせなければならない。完結させねばならない。終結させねばならない。ピリオドを打たねばならない。放り出したことで歪んだものを正さなければならない。それが生み出したものの責任だ。
パンデモニウムによってこの世界が滅ぼされるというのなら、それを止める。止めなければならない。猟矢はそう思っている。
衍字という言葉がある。不要に挿入された文字のことだ。衍字を消し、文章を整える作業は創作になくてはならない工程だ。
パンデモニウムは衍字だ。創作主を失った世界の歪みが生み出したあってはならないもの。ならば書き手として修正しなければならない。
それが自分がこの世界に救世主として召喚された理由なのだ、と猟矢は思う。自分はこのためにこの世界に召喚されたのだ。そしてこの召喚は、放り出された世界が救いを求めてあげた悲鳴なのだ。
思えば、この世界に召喚された時に付与された保証の力である"キャンセル"の力はまさにその体現なのだろう。書いた文章を消すように、事象を消す。どんな出来事が描かれてもキャンセルすれば消える。まさに創作主だからこその力だ。
そう考えれば、猟矢に適合した武具である"歩み始める者"もその暗喩だ。持ち主の創造力を反映して力を生み出すそれは、文章を書き出して綴るかのよう。
それが与えられた理由は、歪みを修正ためだ。創作をあるべき姿にするため。
そして、この世界をハッピーエンドにするためだ。




