轍魚の悪夢
暗闇の中で揺蕩う。浮いているのか沈んでいるのか曖昧な世界。あぁ、これは夢の中か。
「それが」
何処からか怜悧な声が聞こえてくる。透き通った、それでいて冷たい、まるで氷というものを体現したかのような声だった。
この声に覚えがあった。自分がまだ世界を希求する神秘学者であった頃、希求の願い通りに世界の真実を教えて絶望を与えた声だった。
「それが世界」
残酷なほどに現実をつきつけた氷神の声がする。氷神は要求通りに真実を提示した。その時のことをよく覚えている。真実を知って絶望することを慮り言葉を選ぶことなく。神はひとの感情など頓着せずに、ありのままをありのままに指し示した。
「それが世界であり」
自分が神秘学者だった頃、世界は奥深いものだと信じていた。神によって綿密に組み立てられた世界は、幼少の頃に劇場で見た演劇のように繊細なものだと信じていた。
神が筋書きを書き、ひとが演者になって世界という舞台を作る。そんな素晴らしいものだと、ただ純粋無垢に期待していたし信じていた。
舞台の裏はどのように作られているのだろう。ふと舞台裏を知りたくなったのが間違いであった。その好奇心ゆえに神秘学者を志し、そしてこうなった。
舞台裏を知り、そして期待は憎しみに変わった。繊細な演劇だと思っていた。それが蓋を開けてみれば、ただの少年が書き散らした落書きに等しいものだった。
「それが世界であり真実」
自分の生は少年の落書きによって生み出されたのだ。悪い奴らの組織の中の秩序の番人という存在として。その役のためだけに。
「そのためだけに僕の人生はこうなったのだよ!」
ぱちん、と闇が晴れる。黒い紗の布を取り払ったかのように視界が眩しく翻った。
ただ、自分の周囲だけは変わらず暗闇のままであった。足元よりもはるか下、俯瞰で眺める眼下の光景だけが明るく浮かび上がっていた。
明るく白い空間には小さな子供がうつ伏せで転がっていた。ぼろぼろの汚れた服を着て、痩せこけて骨が浮いている。どうにか息はあるようで、脂肪のない薄い胸がわずかに上下しているのが見えた。
投げ出されたその内腿には血と、そして白く濁った粘液がまとわりついていた。
「何寝てるんだい、さっさと次の客を迎える準備をしな!」
息も絶え絶えな少女へ向けて金切り声がした。その声に押されて、のろのろと少女は身を起こす。少女の意識の覚醒に従い、明るく浮かび上がっているだけの背景が色を持つ。
石の部屋だった。床も壁も天井も冷たい灰色をしていた。家具らしい家具はなく、古びたベッドがひとつ。固い寝台の上に薄いシーツがかけられている。部屋の隅には水桶が置かれている。床の一部には溝が掘られ、汚水がそこに流れるようになっている。
半地下ゆえに窓はなく、通気孔となる穴には鉄格子がはめられていた。
唯一、部屋の外に出られる扉は真新しく頑丈な樫で作られていて、幾重にも鎖が巻かれて頑強な錠前が据えられていた。
まるで牢屋のような空間に少女はいた。ベッドからのろのろと起き上がった彼女は、部屋の隅の水桶から手で水をすくって自分の下半身にかけた。血と白濁で汚れた内腿を簡単に洗い流してから、ベッドのふちに座った。
「あぁ、お待たせしました旦那様。ようやく準備ができたようで。まったく、愚鈍な娘ですよ」
金切り声の主が、さっきとはうってかわった猫なで声を出しながら階段を降りてくる。
その後ろには小太りの男。部屋の少女を覗き込み、好色な笑みを浮かべた。ポケットからいくらかの貨幣を取り出し、部屋まで案内した女に渡す。
「えぇ、お代は確かに。では、ごゆっくり」
そして樫の扉が閉まる。ばたん、と閉まった音を合図に男はベッドの少女に襲いかかった。
ぎしぎしと欲望に軋むベッドの音が響く地下室を背に、金貨の数を数えた女はそれをエプロンのポケットに押し込んで鋭い金切り声をあげた。
「何を見ているんだい、仕事は終わったのかい、この愚図!」
「っ………!!」
跳ね起きるようにしてネツァーラグは目を覚ました。
「どんな夢を見ていたの?」
目の前には長い黒髪の女が覆い被さっていた。ベッドに横たわるネツァーラグの頭の両側に手をついて、ネツァーラグを逃がさないようにして。
妖艶という言葉が似合う女は紅を乗せた唇を動かして小首を傾げた。剥き出しの肩から髪が流れ落ちた。
女の肩から流れ落ちた髪が、目の前の女の顔以外の周囲を遮るように覆うのを無言で見送り、ネツァーラグは彼女の名を口にした。
名前を呼ばれた女は微笑んで、何の夢を見ていたの、と再度繰り返した。
「ママの夢?」
継母に虐待されて育った兄妹がいた。体が弱かった妹は働くこともままならなかった。畑仕事ができないなら体を売れ。痩せぎすのガキでも需要はあるんだよと継母は怒鳴り、そしてその通りにした。
兄は妹を庇えぬ自分を憎みながら、こんな仕打ちをする継母を恨みながら、継母からの暴力に耐えていた。
そしてある日、妹を買いにきた富豪と継母は代金のことで揉め事になり、そして権力に押し潰される形で継母は古井戸に沈められた。
残された兄妹はそのまま富豪に引き取られる形となり、そして屋敷ではさらなる行為が始まった。
わたしは少女も少年もいけるのだよ。さて少年よ、妹が大事だろう。太腿に手を這わせながら囁かれた言葉に兄は従った。
結局妹の方はその数ヵ月後に死んだのだっけ。そんなことを思い出しながら、ネツァーラグは彼女の問いかけを黙殺した。
無言を貫くのは柄ではないだろうに。回答を促すように、彼女は人差し指をネツァーラグの唇に添える。
答えを求められ、ネツァーラグは嫌々ながら口を開く。全裸でひとの上に乗るものじゃないよ、と軽くたしなめる。が、彼女はその指摘を無視して問いかけを続けた。何の夢を見ていたの。
「ママの夢でないのなら、」
ぐらりと彼女の体が傾く。紗のように覆っていた長い黒髪が傾きに従って流れる。
傾いだ体はシーツに沈む。その胸には後ろから貫くようにして槍が刺さっていた。
「わたしが死ぬ夢?」
ごぼりと血を吐きながら、虚ろな瞳で彼女は呟いた。




