幕間小話 闇にありては
血筋を残すため、あらゆる勢力に家の者を寄越す。もし本家筋が絶滅し、分家筋しか残らなかった場合はそれが本家となって血統は続いていく。こうすることにより血統の保存のみならず、情報収集と監視を兼ねている。
それがベルミア大陸の当たり前だ。そのことについてガルシアは異を唱えたことはない。だから自分がパンデモニウムに送られるのも当然そうあるべき流れと思っていた。
案内人に連れられ、パンデモニウムの門をくぐった。ふたりとも叙せられた階級はレッター級。統率された軍隊ではないので部隊などなく、任務を与えられていなければ自由に過ごしていいことになっている。常時連絡が取れるのであれば、拠点の外に出ることも可能だ。といっても、この拠点があるシャロー大陸は極寒の永久凍土の大陸だ。天候は安定せず、常に吹雪か大雪が降る。外に出たところで吹雪に見舞われるのが落ち。このシャロー大陸の外に出る手段は"ラド"のみであった。
この自然環境はそれだけで拠点の防衛となる。こんなところに拠点を構えている理由だ。警備兵を配さなくても永久凍土の大陸と荒れた天候が侵入者を阻む。ひとを警備に回す必要などなく、その分だけ人数が浮く。そして警備に回す分の人員は兵として各地に任務に出すことができる。
拠点自体は特殊な武具で結界を張ることで荒天から守られている。極寒の地にありながら、内部の温度湿度は快適に保たれている。その秘訣については特別な秘密でも何でもなく、知りたければ教えてもらえるそうだ。
「まぁ、知らない方がいいと思うがな」
ただ、振り分けられた任務によっては知ることになるだろう。そこまでざっと説明を終えた案内人は、ふたりをレッター級の男の前に連れて行った。パンデモニウムという組織に慣れるまで、彼がしばらくふたりの面倒を見ることになる。
「ガルシア・アーフェンと言います。よろしくお願いします」
「グインと申します。皆様、ご指導ご鞭撻のほどをお願いします」
「あぁ、よろしく」
しばらく彼らの面倒を見ることになった男は、にやにやと下卑た笑みでふたりを歓迎した。
その晩、ガルシアは男に呼ばれた。ふたりに与えられた部屋の隣が男の部屋だ。とんとん、と扉を叩くと、入れという声が返ってきた。それに従ってガルシアは扉を開けた。
「失礼します。…あの、何か」
何か粗相でもあっただろうか。今日やったことといえば、拠点内の設備の紹介を受けることであった。その時に何か失態を犯しただろうか。
世話役として親睦を深めたいというだけならグインも呼ばれるはずだ。自分だけというのなら、ガルシアだけが何かをやったと考えるのが妥当だろう。
分家筋で権威はほぼないとはいえ、アーフェン家は貴族だった。つまり、ひとを使う側だった。命令する側であり、こうして誰かの下についてその言うことを聞くというのはガルシアにとって初めてのことだった。それ故に何か至らないことがあっただろうか。緊張した面持ちで扉をくぐったガルシアに、世話役の男は相変わらずの下卑た笑みでベッドの前まで手招きした。
ベッドサイドには護身用なのか抜き身のナイフと固形のオイルが置いてあった。金属製のケースに入った固形オイルは手の体温で溶かすものだ。その用途が何なのか、この時のガルシアは知らなかった。
「俺は黒髪のお坊ちゃんが好みでな」
「…はぁ…?」
唐突に何を。確かに自分は黒髪のお坊ちゃんではあるが。男の意図がわからずにガルシアは目を瞬かせた。
首を傾げるガルシアの手を男が引っ張った。驚いて息を詰めるガルシアをベッドに組み伏せる。何を、と言葉を発する前に前とじのシャツが引き裂かれた。
「大人しくしていろよ。パンデモニウムでうまくやっていきたいならな」
それから先の記憶は脱落している。ガルシアが覚えているのは、行われた何らかの行為に対して歯を食いしばっていたことだった。声を出せば隣の部屋のグインに聞かれるからと。そう思って耐えた記憶だけが残っている。何の行為を耐えていたのかは覚えていない。ただ、足腰の鈍い痛みと妙なだるさが残っていることは覚えていた。
記憶が脱落しているのは、その世話役の男がふたりについている期間の間だけだった。それ以外、幼少の記憶や現在については脱落が起きていない。ふたりがパンデモニウムに加入してから、男が任務のミスでオーダー級に裁かれ命を落とすまでの期間だけの記憶が失われていた。
脱落しているのは世話役の男とガルシアの間にあった何かについてだ。男が死ぬまでほぼ毎日、男の部屋に呼ばれていたことは覚えている。だがその部屋で何をしたのか、何があったのかは覚えていない。ひたすら歯を食いしばって耐えていたという行動はぼんやりと覚えているのに、何をなされたのか覚えていない。
脱落した記憶について、ガルシアは特に求めようとはしていなかった。記憶の欠如というのは心の防衛反応だ。忘れなければ自我が保てない何かがあった。それを思い出せないからこそガルシアはガルシアでいられるのだ。思い出したら何かが決定的に壊れてしまう。
だから忘れたままでいいのだ。パンデモニウムで活動するにあたって重要なこと、たとえば規律や人間関係なんかはしっかりと覚えたままでいる。忘れたことについて困ったことはない。だからそれでいい。
だからこの時まで、ガルシアはあの部屋で何をされていたのかまったく知らなかった。覚えていなかった。
"レムレイス"で異空間にひとり閉じ込められ、そこに男の容姿をした影身がやってくるまで。
「よぅ坊っちゃん。元気かい」
あの時と同じことをしようか。
「可愛い子だよ、お前は」
そしてガルシアは鮮烈に思い出す。記憶の蓋を外して悪夢が溢れかえった。
裸に剥いたガルシアを組み伏せた男はそれをガルシアに突き立てた。ぐっと体内にめり込む感覚にガルシアは悲鳴を上げる。こんな仕打ちを受けるのは初めてのはずなのに、身体は妙に順応していた。
「可愛い、可愛い子」
うっとりと囁く男は腰を押し付ける。犯される。犯されている。石が軋むような音がした。それが自分の声だとガルシアには理解できなかった。
「綺麗だ。やっぱり黒髪に限る」
男の手に銀色の光が握られた。ナイフだった。あの時ベッドサイドに置かれていたものとまったく同じものだった。
男は異常に興奮していて、ガルシアにぴったり体をつけると荒い息を吹きかけた。唇が上体を這い回る。そうしながらナイフの刃をガルシアの肌に滑らせた。だが切りつけるわけでもなく、刃先で背中や胸を撫でるだけだ。
浅く浅く滑った刃先が僅かに皮膚を裂く。数日もすれば消えてしまうような浅い傷から血が滲む。男はそれに舌を這わせた。傷口に舌先をねじ込んで流れ落ちる赤を舐めとる。流れる血の赤は男が最も愛する色、彼の全てだった。
「お前は本当に可愛いよ」
脱落した記憶に封印した呪いの言葉と共に刃先が背中に触れる。男は激しく突き上げ、性感のままに刃を滑らした。浅く、深く、長く、短く。
「ああ、素晴らしい、素晴らしい!」
その悪夢は唐突に砕け散る。まるで霧が風に吹かれて晴れるように、男の姿をした影身は消えた。
ガルシアは地べたとも床ともつかない黒い空間に身を横たわらせていた。のろのろと身を起こす。周囲には誰の気配もない。だが、足腰の鈍い痛みと妙なだるさが身体に色濃く残っていた。
「どう? これがお前の脱落した記憶だ」
とてもいい悪夢だろう。そう問う声の主はガルシアと同じ容姿をしていた。
これが脱落した記憶の中身だ。嗜虐趣味を持つ男に切りつけられながら犯された。ほぼ毎晩。傷のないところなどないほど丁寧に全身。男の精力がない日は傷の検分だけで済んだが、それで何が変わろうか。恐怖の度合いでは犯されようが犯されまいが同じだった。
だから歯を食いしばって耐えていたのだ。こんな仕打ちをグインに聞かれるわけにはいかなかったから。悲鳴をあげたのは最初の一度だけ。それ以降は奥歯が砕けるほどに強く噛み締めて耐えた。
そしてその行為は、男が任務の失敗を咎められオーダー級に裁かれ殺されるまで続いた。裁かれ殺され、平穏が戻るまで。
「あ、あああ、あ」
封印した悪夢が鮮やかに蘇り、ガルシアはがくがくと全身が震えた。吐き気がした。口の中に苦いものを感じ、思わずその場に吐き戻した。青臭い白濁が胃液の中に混じっていた。その正体について知ることをガルシアの本能が拒否した。
「記憶の蓋は開いた。苦しいか、憎いか?」
悪夢にのたうち回るガルシアを見下ろした影身の輪郭が崩れる。黒い霧のようなものが一瞬影身の全身を覆う。覆う霧の中から踏み出した影身は、再び男の容姿をとっていた。
「さぁ、悪夢を振り払おうじゃないか」
剣を握れ。男の容姿に変じた影身が微笑んだ。
「ぅ……あああああああああああああああああああああああああああああ」
殺せ。殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ――




