砂都にて
シャフジズ。砂の季節と訳されるその時期はクレイラ島の季節のひとつだ。乾季により乾いた砂が風に巻き上げられ、そして強く吹き付ける季節風によってクレイラ島全体を覆う砂嵐となる。
この時期はクレイラ島に住む民にとって修行の季節となる。なにせ砂嵐で外出もままならない。島の外に出るなど到底不可能だ。この時期だけは島の内外が完全に遮断される。その環境を利用し、孤立した環境の中で修行に励むのがクレイラ島の慣例だ。どうしても必要に迫られない限り固く戸締まりをした自宅にこもり、ぴったりと鎧戸を閉じきった家の中で瞑想をしたり読書をしたりする。
外出もままならないため、隣の家の状況すらわからない。だから民衆たちは知らなかった。クレイラ島領主の居城で何が行われているのか。
クレイラ・セティという巨大な犬がクレイラ島の守護神である。神そのものではないが、神がその力を分割しクレイラ島にもたらしたものだ。神の代行である巨獣の吠え声が稲妻となり地上に降り注ぐ。
褐砂のような褐色の毛皮を持ち、砂地を照らす日光が落とした影のように黒い目をした神は領主の居城を住処としている。否。神の住処に領主が住んでいると表現した方が正しい。神はクレイラ島において何よりも高位の存在だ。気高い存在だが、自らを敬う者には気安い。背中に子供を載せて遊び相手を務めるほど親しく接する。
そのクレイラ・セティが床に伏せていた。丸太のような太い足を床に投げ出し、息を潜めるようにじっと伏せる。その四肢には太い楔が打ち付けられ、じくじくと赤黒い血がにじんでいた。四肢だけではない。憤怒の咆哮を発せないよう、上顎と下顎を縫い合わせるように何本もの杭が突きこまれていた。
「苦しいかしら? そうよね、苦しくないと困るわ」
瀕死のクレイラ・セティを見下ろし、くすくすと笑う女はクレイラ・セティの前足に突き刺さっている杭を踏みつけた。抜けないように棘の返しがついている楔に抉られ傷口からは鮮血が吹き出た。
「あぁ、その顔とてもいいわ。なんて最高なのかしら!」
力を割譲されただけの存在とはいえ神は神。それを踏みつける快感に酔いながら楔を踏みにじる。口は縫い付けられているから苦悶の呻きも発せられない。暴れようにも四肢はこの通り杭によって床に固定されている。クレイラ・セティにできることといったら、怒りと罵りをたっぷり乗せた視線を送ることだけだ。しかしそれも女にとっては快感でしかない。
「あはっ、あはは、あははははははは!!!」
神の力を受けた獣。つまりそれは神と同格であるといっていい。その獣が何もできない。神が何もできないのだ。なんという快感だろう。頭上を仰ぎ、女は高く笑う。のけぞった喉には鳥を模した紋章が刻まれていた。パンデモニウムの刻印だ。
「神の命は私次第。神は私のものとなったのだ! あはっ、あははははははははははは!!!」
高らかに勝利に酔う女が座すのはクレイラ島の領主の玉座だ。その部屋の隅でみずぼらしい衣装を身にまとった女性が小さく呻く。彼女は領主の妻だ。夫の方はというと、そこで首と胴が分離して床に転がっている。領主が死んだので主権は妻である彼女に移る。暫定的な領主といったところか。
「…ラゴド…ボグプレイ…キコキン、アクヴェ…」
「なぁに?」
せっかく気分がよかったのに無粋な言葉のせいで台無しだ。苛立って立ち上がった女は彼女の側までつかつかと歩み寄る。そのまま路傍の石にそうするように、横っ面を蹴り飛ばした。
「やだやだ、シャフ族って何言ってるかわからないから嫌いなのよね。言葉も喋れないだなんて野蛮人かしら」
砂が口に入らないよう、口をあまり開けずに短い文章で会話するという喋り方から発展したという。元は方言程度の差異しかなかったが今ではすっかり別言語だ。
言葉がわからなくとも表情である程度わかるのだが。要は恨みの言葉だとかそんなものだろう。あるいは神に救済を願う祈りか。前者はともかく、後者はいただけない。
髪を掴み、上を向かせて女は彼女に囁く。苦痛に歪んでいる顔でいくらか心が凪いだ。
「あんたはもう私のものなの。いい? 救済の祈りは神なんかじゃなく私に捧げるのよ」
すでに所有物なのだ、お前は。所有物の持つものは自分のもの。感情も意思もすべてだ。所有者のために泣き怒り笑い喜ぶべきだし、またその感情は所有者に向けるべきだ。そんな女にとって、所有物が祈りを神に捧げるのは許せなかった。
所有物とみなした相手のすべてを独占したい。カーディナル級を示す3つ羽の刻印をうなじに刻む女は、彼女を打ち捨てて再び玉座に戻った。
「神も何も、この"強欲"ミュスカデ・アベットのものなのよ!」
愉悦に笑う声も、救済を願う祈りも、どんな声も砂嵐は掻き消して閉じ込める。




