三階建ての平屋
招待された。友人に。新しく引っ越したのだと、彼は言った。あいつが引っ越しただなんて知らなかった。ぜひ来てくれとせがまれた。駅から歩いて十五分だそうだ。駅まで来れば、迎えに来て新居まで案内すると言う。俺は何も言った覚えはないが、どうやら俺は、彼の新しい住まいを見学することになったようだ。
朝一番、駅の改札を出ると、その友人が待っていた。もちろん立っている。人を呼び出しておいて、駅で、座って待つなんてありえない。彼は立って待っていた。
「行こう」
友人が俺の着ている白いシャツの袖を引き、駅から強引に俺を連れ出した。
駅を出て五分、友人の新居とやらに到着した。都心から外れた住宅街。周りには似たような家が窮屈そうにひしめいている。彼は俺に「これは秘密だぜ?」と言って、自分の唇に人差し指をあてた。何の事だかわからない。だがまあとりあえず、うんうんと頷いてやった。友人は笑って満足げだ。
改めて彼の新しい家を眺めてみる。白い壁の平屋だ。屋根まで白い。友人曰く、これじゃあ雪が積もっても気づかないな。とのこと。こいつのジョークは面白い。
「入ろうぜ」
友人に促され、俺は玄関のドアの前に立った。ドアは真っ赤に塗れていた。ドアノブまで赤い。ドアノブを握った時、ピチャリという音と共に、手にぬめぬめとした感触がした。手のひらを見ると、ドアノブと同じ赤い色がべったり付いていた。ペンキかと思ってにおいを確かめたが、何のにおいもしなかった。後ろにいる友人に振り向くと、彼は何も言わずに俺を手で押しのけて、さっさとドアを開けてしまった。友人の手には何も付いていない。俺は手に付いた赤をズボンで拭い、友人の後に続いて家の中に進入した。
中に入って最初に感じたのは、香りだった。蜜柑のような香り。芳香剤でもあるのかと思ったが、玄関にあるのは、木でできた粗末な茶色い下駄箱だけだ。その下駄箱は俺の腰ぐらいの高さで、取っ手が無い。どうやって開けるのだろう。見た感じだと、板を横にスライドさせて開けるタイプだとは思うのだが。
「おーい」
声のした方を見ると、友人が前方のはるか遠くから両手を上げて俺を呼んでいる。二十メートルは離れている。いつの間にあんな遠くに行ったのか。俺は靴を脱ぎ、フローリングの廊下を歩いた。友人の元へ向かう途中、部屋はひとつもなかった。ただ白い壁と、茶色い床。気になったので上を見上げると、天井は赤かった。光に照らされた水面のように輝いている。綺麗だが、なんだか不気味だ。
友人は横に並んで俺の肩を抱くと、「こっち」と一言だけ言い、歩き出した。
約二十分歩き続け、俺たちは居間に到着した。
「座ってて」
友人が畳の上の黒い座布団を指差した。素直にその座布団に座る。
「お茶」
俺が座ったのを確認すると、友人はどこかに歩いて行ってしまった。お茶という言葉から考えると、お茶を用意しに行ったのだろう。
友人がいない間、居間の様子をざっと見てみることにした。まず床は畳だ。新築ではないらしく、ずいぶん使い込まれた畳が敷かれている。すっかり黄色くなってくたびれている。数えてみると、畳は八枚あった。八畳間か。ひとり暮らしには広すぎる。あいつの考えには理解が及ばない。
壁を見てみる。相変わらず四面とも白い壁だ。何もかかっていない。窓すら無い。外の様子が全くわからない。唯一壁際に木製で縦二段の黒い本棚があったが、中には何も入っていない。何のために設置してあるのか。
天井がやけに高い。四メートルはあるように思う。その遠い天井の真ん中には丸い裸電球がひとつ付いているだけだ。あんな小さい電球でなぜこの広い部屋を明るく照らせているのか不思議だ。
一通り見回して気がついた。出入り口が無い。ドアも何もない。四面とも白い壁が無言で立っているだけで、本棚の他には何も無いのだ。こうなってくると疑問がふたつ湧いてくる。俺はどこからこの部屋に入ったのか。そして俺の友人はどこからこの部屋を出て行ったのか。このふたつだ。
俺はこのまま友人が戻ってくるのを待ってていいものか悩んだ。そもそも出入り口が無いのにあいつは戻ってこられるのだろうか。俺はだんだん焦りを感じてきた。じっと座って待っていられるような気分ではなくなってきた。座布団から立ち上がり、もう一度この部屋を見渡した。正面の壁。右の壁。左の壁。後ろの壁。何も無い。左の壁に空の本棚があるのを除いて。
思えばこの部屋にはテーブルの類が見当たらない。四本の脚があって、いや、たまに三本脚のものもあるが、とにかくあの、物を置くことができるあのテーブルが無い。この部屋の床は畳だからちゃぶ台が似合うだろう。それにしてもあいつはどこに行ったのか。お茶を用意したってそれを置くテーブルとかちゃぶ台とかが無ければ何もかも無駄になる。
「ニャー」
不意に猫に鳴き声が聞こえた。驚くことに、それは俺の足の下からだった。慌てて飛び退くと、今まで座っていた座布団が黒猫に変わっていた。俺は猫の上に座っていたのか。
黒猫は自分の右前足を舌で舐めている。俺が屈んでその黒猫に顔を近づけると、黒猫も俺の顔をじっと見つめた。ごく普通の大きさの黒猫だ。さっきの座布団はもっと大きかったが、どういうことだろう。
「ナァー」
機嫌悪そうに鳴くと、黒猫は本棚に向かって駆け出した。そして本棚の左側に回り、その縦板を爪でカリカリと引っ掻き始めた。爪研ぎでもしてるのかと思ってその様子を眺めていたが、どうやら違うらしい。黒猫は板に爪を立てたまま俺を見つめ、今度は媚びるような甘えた声で何回も鳴き出した。
「ニャウーンニャウーン」
猫は自分の欲望のためならどんな恥ずかしい声でも出す。もしこの黒猫が人間の女だったなら、さぞかし卑猥な声で扇情的な言葉をさえずっているんだろう。恥知らずめ。
しかし俺にも非がある。さっきまで数十秒、もしかすると数分、俺はこの黒猫を座布団と思い込んで上に座っていたのだ。非は詫びなければならない。それならば。それならば俺はこの黒猫の望みを叶えてやらなければ。仕方ない。今だけ、今だけこの黒猫の男娼にでも何でもなってやろう。俺は黒猫と本棚に近づいた。
「ニャウーン」
黒猫が待ちきれないといった様子で本棚を引っ掻いている。こいつは一体何がしたいのか。黒猫が懸命に引っ掻いている板を調べてみる。この黒い板はどこかの安いホームセンターみたいな所で買ってきたのだろうか。屈んで近くで見れば見るほど、その粗末さが目に付く。塗装で誤魔化すにしてももっとやり方というものがあるだろう。
「ニャウーンニャウーン」
黒猫に軽く腕を引っ掻かれた。焦らされるのは嫌いらしい。しかしこの本棚を俺にどうしてほしいのかわからないことにはどうしようもない。
「ンニャンニャーン」
悩んでいると、黒猫が少し違う動きをした。今度は本棚の背面との間にある壁を目指すように爪を本棚に突き立てたのだ。
なるほど、わかってきたかもしれない。こいつはこの本棚の後ろに行きたいのだ。つまりこの本棚を壁からどかしてやればいい。俺は立ち上がって本棚の正面に陣取り、その黒く四角い板の集合体に上から両手をかけた。黒猫が察したのか、本棚から離れた。俺は一気に本棚を右へずらした……つもりだったのだが、畳の繊維に底板が引っかかり、本棚は右に大きく傾いてそのまま横倒しになってしまった。本棚は倒れた瞬間黄金色のガラスとなり、ガチャンと大きな音を立てて粉々に砕けた。部屋中にその黄金色の破片が散らばる。黄色い畳の上に広がった大小の破片は、一見すると美味しそうな砂糖菓子のようだ。天井の小さな電球の光を反射してキラキラと輝き、更に俺の食欲がかき立てられる。
「ニャー」
足元で黒猫が鳴いている。やれやれ、用が済んだらもう嬌声はおしまいか。どれ、この黒猫は本棚の後ろに何を見ていたのか、俺も確かめてみよう。
俺は見た。本棚が隠していたものを。それは引き戸だった。壁とほどんど一体化していて遠目には扉だとは思わない。本棚の後ろにこんなものが隠されていたとは。この黒猫がいなければ永遠に気がつかなかっただろう。
「ニャー」
その黒猫はというと、引き戸に寄りかかって後ろ足で立ち、戸の取っ手に向かって前足を伸ばしている。そうだ。扉があるということは、この向こうに何か空間があるということだ。これは俺にとっても都合が良い。この何も無い畳の八畳間から抜け出せるのだ。俺は迷わず引き戸の取っ手に右手をかけた。
「おい!」
背後から怒鳴り声がした。振り向くと向かいの壁際に友人が立っていた。どこから入ってきたのか。この引き戸以外のどこから、この部屋に入る方法があるのだろう。いっそ聞いてみよう。俺は友人にこの部屋の出入り口の事を尋ねようとした。しかしそれより先に彼の方が口を開いて大音声を部屋に響かせた。
「お前俺の部屋に何をした! 隠すなよ。お前俺の猫にまで手を出しただろうわかってるんだぞ! さあその猫を渡せ! さもなきゃ殺してやる! その猫諸共だ!」
友人は右手にノコギリを持って襲いかかってきた。が、その勢いは一歩目で無になった。畳中に散らばっていた黄金色のガラスの破片が彼の足に刺さったのだ。彼は痛みによって体勢を崩し、畳の上に背中から倒れこんだ。もちろんその先の畳にも黄金色のガラスが無数に撒かれている。
「うぎゃあああ!」
友人は倒れた後畳の上をのたうち回り、数秒の間にその体は黄金色のサボテンとなった。いや、破片が深々と刺さった傷口から血が流れ出し、赤い衣装を纏った道化師のようにも見える。痛みにのたうつその姿が、滑稽なピエロのダンスと重なったのかもしれない。
しばらく友人の滑稽でつまらないショーを見ていたが、それも幕切れだ。彼が起き上がったのだ。友人はガラスが突き刺さった目玉で俺を睨みつけたまま、足に破片が食い込むのもお構いなしに迫ってきた。手に握ったノコギリを大きく振りかぶって。
「ンニャア」
黒猫が引き戸を引っ掻いた。俺もこの黒猫と同じ気持ちだった。俺は再び取っ手に手をかけ、今度こそ思い切り開け放った。
扉の先には上り階段があった。赤い絨毯が敷いてある。まるで洋館だ。黒猫が俺の事は見向きもせず一目散に階段を駆け上がっていく。俺も先を行く黒猫を追いかける感覚で、階段を一段飛ばしで駆け上がった。十段ほど上がったところで下を振り返ってみると、友人は黄金の破片を身に纏い、衣服に赤い染みをいくつも付けたまま、階段の一番下でうずくまって微動だにせずいた。思わず立ち止まって彼の様子を窺ったが、そのまま一向に動く気配がない。もしかして、すでに事切れてしまったのだろうか。だとしたら惨めな最期だ。俺の友人にはふさわしくない。俺はズボンのポケットにたまたま入っていた百円玉を一枚、友人めがけて投げてやった。百円玉は彼の背中に当たって跳ね、床に落ちた。ここからでは床に着地した音は聞こえなかった。……俺は急にバカバカしくなり、友人の事など忘れ、前を向いて階段を上った。
長い階段だった。体力には多少自信があったが、息が切れてしまった。しかし上りきった。
ここは一応、二階ということになるんだろうか。前方に長い長い廊下がまっすぐ伸びている。それにしてもずいぶん階段を上った気がする。さっきの居間を思い出す。そういえば天井がすごく高かった。となると二階もそれだけ高い位置になるか。いやそれにしても高すぎる。どうもこの家はおかしい。辻褄が合わなすぎる。だいたいこの家は平屋のはずだ。そもそも二階なんてものがあること自体変なのだ。『平屋』とは一階しかない建物の事をいう。実際外観では二階なんてあるようには見えなかった。トリックルームというやつだろうか。
二階は先ほどの居間とはうって変わって洋風な意匠だ。階段に敷かれていたものと同じ赤い絨毯がこの床にもある。壁には銀の燭台が等間隔に取り付けられ、その上で白いロウソクが小さな炎を灯している。
天井は黒い。ただただ黒い。まさに漆黒。二メートルほどの高さだが、頭のすぐ上まで迫ってくるような閉塞感がこの天井にはある。
さて、これから俺はこの廊下を馬鹿正直に歩いて渡らなければならない。文字通りそれしか道はないからだ。後ろの階段の下には友人の死体があるだけだし、その向こうには黄金色のガラスが散らばる畳の部屋があるだけ。家主が死んだ今、俺がこの家に留まる理由は無い。さっさとお暇したい。そのためにも出口を探さなければ。俺は廊下を歩いた。
歩く。廊下が続く。この廊下にも部屋に続く扉らしきものは一切認められない。
歩く。廊下が続く。壁の燭台に付いているロウソク、長さが全て均一に揃えられている。不気味だ。
歩く。廊下が続く。そういえばあの黒猫はどうしただろう。全然姿が見えない。ここをまっすぐ走って行ったのだとしたら、ものすごいスピードだ。陸上競技に出場すれば良い成績が残せるだろう。
歩く。廊下が続く。居間にあった引き戸の事を思い出す。もしかするとこの廊下にもあの引き戸のように巧妙に隠された扉があるのかもしれない。俺は立ち止まり、近くの壁をまじまじと観察してみた。……何も無い。不自然な縦線も、取っ手も、コーヒーの染みすら無い。俺は歩みを再開させた。
歩く。廊下が続く。いったいいつまで続くのか。この廊下はいつになったら終わるのか。歩きながら途方にくれる。 もしこのまま何もなかったら俺はどうなるのか。この廊下を永遠に歩き続けるのか。たったひとり、階下に友人の死体を放ったまま。誰にも知られる事なく歩き続け、歩き続けたまま死にゆくのか。なんとも面白くない、気の抜ける話か。
その時、不意に後ろから音がした。勢いよくドアが閉まる、バタンという音だった。振り返り、自分の目を疑った。俺のすぐ後ろ一メートルの距離に、木でできた茶色いドアがあったのだ。
俺がついさっきまで歩いてきた廊下はどこに行った。無意識にこのドアをくぐっていたとでも言うのか。ありえない。こんなドア初めて見た。ドアと、廊下。交互に見比べる。俺は迷った。このまま廊下を進み、 終わりの見えない孤独な無声遊説を続けるか、いつの間にか背後に現れたドアを開け、その先の景色をこの目に焼き付けるか。答えは決まった。
俺はドアと向かい合った。ノブに手を伸ばす。その鉄製のドアノブは赤く塗られていた。この家に入る時のことを思い出す。玄関のドアノブも赤かった。何かペンキのようなもので塗りたくられていた。
このドアはどうだろう。ドアノブに人差し指の腹で軽く触れてみた。冷たくひんやりとした感覚が指先に広がった。指をドアノブから離して確認すると、指先には何も付いてはいなかった。俺は安心して、今度は手でしっかりとドアノブを握った。冷たいそれを捻って回し、手前に引いて開けた。
想像以上に広い空間だった。正方形の部屋が広がり、その中央は床が無くこれまた正方形の大きな吹き抜けになっている。その周りには、木でできた柵と手すりが隙間なく、肘の高さまでしっかり取り付けられている。その周り四方の床には相変わらず赤い絨毯。壁にはそれぞれの面の中央にひとつづつ、今くぐったものと同じドアが存在している。つまり、今通ってきたものを合わせて四枚ドアがあるわけだ。吹き抜けもある。こんな開放感のある部屋はこの家に来て初めてだ。
俺は吹き抜けの手すりに両肘を乗せ、そこから下を覗いた。多分この下が一階なんだろう。……しかし。
その景色は異様だった。一言で言えば、海だ。真っ赤に染まった海が、吹き抜けのすぐ下で波を作って流れている。それなのに、ミュートで再生された動画でも見ているかのように、音が無い。ザブ、だとかチャプ、とかいう、水の音は一切聞こえない。
俺の耳がおかしくなったのかと思い、右耳の側で指を擦り合わせてみた。サリサリという音がちゃんと聞こえた。正常だ。この家が異常なのだ。異常な家に長く居つくとこちらまで異常になってしまう。現に今、俺は俺の耳を疑った。普段ならありえないことだ。これからどんどん異常になっていく。一刻も早くこの異常な家を出なければ。音の無い赤い海から目を逸らし、四角いドーナツ状の廊下を小走りで右に進んだ。そして最初の地点から見て右の壁のドア前に立つ。
よく見るとそのドアには下の方に文字が彫ってある。直線的な、小さい文字だ。膝を折ってしゃがみ、その文字列に目を近づけた。
――わたしのおへヤ――
私のお部屋、か。俺の太ももぐらいの位置で彫ってあるという事は、子供がやったのだろう。我ながらよくこんな所にある文字を見つけられたものだ。『ヘヤ』だけカタカナなのが妙に気になる。ずいぶんませたこだわりだな。……いや、違う。『ヤ』の右上に点状の細かい傷が付いている。なるほど、本当はひらがなで『や』にしたかったが、掘るのに使った道具ではうまく点が付けられなかったのか。じゃあこの『ヘ』もカタカナではなくひらがなか。それを踏まえてもう一度見ると、『お』の右上の点も少し長すぎるようだ。『や』もこれでは納得いかなかったのだろう。努力してみたが、結局諦めた、と。子供は不思議な所でこだわるからな。この断念は相当悔しかっただろう。
ドアの文字を見ていても仕方ない。立ち上がってそのドアのノブに手をかけた。このドアの彫刻を手がけた小さな芸術家の『おへヤ』をとくと拝見させてもらおう。
何か違和感があると思ったら、このドアノブは赤くない。銀色だ。色の違いには何か意味があるのか。ぼんやり疑問に思いながらノブを回し、ドアを押した。
半分ぐらい開けたところで、部屋の中から「ぶしゅ、ぶしゅ、ぶしゅ」とリズミカルな音が聞こえてきた。少しだけ警戒しながらドアを全開させると、その音の正体が半分だけ判明した。その六畳ほどの部屋はまさに女の子の子供部屋といった雰囲気だ。ピンク色の壁紙とタンス。カラフルなパステルカラーのおもちゃ箱と本棚。そのおもちゃ箱の横に添えられた五十センチぐらいのクマのぬいぐるみ。奥には子供サイズの小さなピンク色のベッド。横にはベッドの高さに合わせた白いサイドボード。その上には卓上の電気スタンド。部屋の中央には円形のラグが敷いてある。緑、赤、オレンジ、紫。様々な花が描かれているオシャレなラグだ。
そしてそのラグの真ん中。ひとりの少女が背中を向けてあぐらで座っていた。七歳か、八歳ぐらいだろうか。くせ毛の長い黒髪を背中までそのまま垂らしている。服装は水色の半袖Tシャツに、オレンジ色の半ズボンだ。おそらく彼女が、ドアに彫刻を施した『わたし』なのだろう。少女は俺に気がついていないのか、背中を向けたまま右手に何か棒状の物を逆手に持ち、ここからでは見えないが、彼女が抱えている何かに向かってそれを振り下ろしている。繰り返し、繰り返し。その度に例の音がぶしゅぶしゅ鳴った。これは彼女が何かを突き刺している音だったのだ。いったい何を……。
俺は少女に近づいた。一歩。二歩。彼女はまだ気づかない。三歩。花柄のラグに足を踏み入れ、少女の右手に持っている物が何かわかった。彫刻刀だ。その中でもあれは三角刀と呼ばれるもので、主に曲線を掘るために使う。あれでドアの文字も彫ったのだろうか。何にしても、小さな子供が扱うにはいささか危険だ。彫刻刀の刃の部分に赤い液体のようなものが付着して濡れている。……まさか。
四歩。床を踏みしめた時、これまでとは明らかに足の感触が違った。ラグが数センチ盛り上がっている。床とラグの間に、何か細くて短くて固い棒状の物が数本ある感じだ。しかしそれが何なのかは問題ではない。これを踏んでしまったことによって、部屋中にギリリという不快な音が響き渡ったのだ。この音は一心不乱に彫刻刀を振るっていた少女の耳にも届いたらしく、その腕を止めて床に降ろしキョロキョロと周囲を見回し始めた。
やがて目が合った。少女はだらしなく口を開けて俺を見つめている。その両目はぱっちりと丸く大きく、白と黒のビー玉でも埋め込んでいるのかと思うほどだ。ところが前髪が少し長すぎてせっかくのつぶらな瞳がやや隠れ気味になっている。前髪だけじゃなく全体的に髪のボリュームが多くてぼさぼさ。少し不潔に感じる人もいるかもしれない。
お互い黙っていたが、次の瞬間、俺は一気に冷や汗をかいた。少女の足元から丸い物が転がり、俺の見えるところまでやってきた。表面の半分は黒く、もう半分は赤みがかった肌色……いや、肌そのものだ。人間の、大人の男の頭だ。彼女はこれに彫刻刀を何度も何度も突き立てていたのだ。一歩後ずさりながらも、俺はその頭だけの死体から目を逸らせずにいる。始めはわからなかったが、その頭は、さっきガラスに塗れて倒れた、あの友人のものだった。刺さっていたガラスは全て取り除かれているが、額から血を流し、右側の目玉は無く、暗い眼窩だけがぽっかり開いている。もう片方の目玉も、ガラスが刺さっていたからか、少女が彫刻刀でどうにかしたからかははっきりしないがもはや目玉の形状は保っておらず、ぐちゃぐちゃに崩れている。鼻や頬は彫刻刀によって無数の穴が開けられている。その穴からは汗のように血が流れていたのであろう。今はすでに固まって黒く変色し、肌にこびり付いている。
少女は座ったまま、友人の頭を左手で上からぐりぐりと床へ押さえつけ、弄んでいる。そのせいで見たくなかった部分、首の断面が見えてしまった。赤い部分、黒い部分、白い部分……唐突に吐き気が込み上がる。慌てて目を逸らす。
再び前を向いた時には、少女は立ち上がり、右手に彫刻刀、左手に友人の頭を……後頭部の髪を掴んで持っていた。彼女の両腕は友人の血で赤黒く汚れている。服にも返り血が飛沫となって点々と染み付いている。
少女が一歩近づいた。友人の頭が前後に軽く揺れる。俺は少女との距離を保とうと一歩後ずさった。
「あはっ」
突然少女が笑った。しまりのない口を横に大きく広げてにんまりと笑みを浮かべている。可愛さよりも不気味さが勝っている。少女は唇と舌をにちゃにちゃ言わせながら、俺を見つめて何かを呟いた。
「みーいつけーたあ」
見つけた……俺を見つけたと言うのか。少女は笑って俺を見つめたまま、左手に持った友人の頭を真横にぶん投げた。頭はタンスの角に勢いよくぶつかり、床に落ちた。タンスに何か赤いものがくっついて残った。
少女は友人の頭にはもう目もくれない。あれで遊ぶのは飽きたようだ。彼女はにんまりと嬉しそうに俺の目を見つめ続けたまま、右手の彫刻刀を振りかぶってじりじり近づいてくる。どうやら俺を新しいおもちゃにしたいらしい。彼女の近づくスピードが速くなる。俺はとっさに後ろへ走った。そしてドアをくぐり、急いでそれを閉めた。少女がドアの向こうから俺に呼びかけている。
「あけてー。まってよー」
ゆったりと落ち着き払った口調だ。しかしそれとは対照的に、彼女は向こうからドアを開けようとノブをガチャガチャ回したり扉をガンガン殴ったりしている。俺は必死にドアノブを引っ張って押さえた。
「ねえあけてー」
今度は向こうからガリガリという音が絶え間無く聞こえてきた。おそらく彫刻刀でドアを彫って削っているのだ。小さな少女が一本の彫刻刀を振るって出している音とは思えないほどの大きく速い音に俺は恐ろしくなって、ドアノブから手を離しその場から急いで走り離れた。
廊下を反時計回りに走り、目に付いたドアを夢中で開いた。上り階段があった。これまでと同じ絨毯が敷かれている。後ろを確認する。少女が彫刻刀を持って追ってきている。俺は開いたドアをくぐると同時にドアノブを握ってバタンと閉めた。そして階段を一段飛ばしで上った。下は振り返らなかった。脳裏に少女のにんまり顔が焼き付いて離れない。あの少女は誰なんだ。友人はひとり暮らしじゃなかったのか。娘か、いとこか。しかし頭をあのようにおもちゃにされ弄ばれていた。まともな関係だとは到底思えない。少女の方もだ。あまりに趣味が悪すぎる。部屋は普通だったのに、そこに住む彼女の精神は、小さな子供の体にも子供部屋にも収まりきらないほど大きく、歪に好き勝手に膨らんで暴走している。人間の皮を被った悪魔という言葉がしっくりくる。気持ち悪いほどに。
友人のボロボロになった顔を思い出してしまい、吐き気と戦いながら階段を上った。この階段も長い。まるで登山でもしている気分だ。山登りは嫌いだ。登ったら降りなければならないから。
また息が切れてきたところで階段が終わり、ドアが現れた。さっきと同じ、木製のドア。ドアノブは赤い。俺はまた指先でドアノブが濡れていないことを確認してから、ドアを開けた。その先にあったのは、またしても吹き抜けのある正方形の大きな部屋だった。四方にドアがひとつづつ。戻ってきてしまった……。
そう思った時、俺の心はめげそうになった。疲労感が心身ともにどっと押し寄せた。もう歩きたくない。この家はどうかしてる。空間が歪んでいる。今更そんなわかりきった事をしみじみと感じても、どうしようもない。後ろに倒れそうになるのを堪え、吹き抜けの手すりまでふらふらと歩いた。手すりに寄りかかって全体重を預ける。吹き抜けの大きな穴の下では赤い海が無音で波を作っている。その波を見ていると、なんだか眠くなってきた。狂った少女に追われているのに呑気だと自分でも思った。でももう疲れた。歩きたくない。もう十分じゃないか。俺が何をしたというんだ。ただ友人に招待されただけじゃないか。その友人も死んだ。もう帰してくれ。
「ニャー」
自暴自棄に耽っていると、足元から猫の鳴き声が聞こえた。ついさっきも同じような事があったなと思いながら下を見ると、黒猫がこちらを見上げていた。さっきの黒猫だろうか。
「ニャー」
黒猫は俺に自分の事を認識させると、俺が今出てきたドアから見て左側の廊下を走っていった。
「ニャオー」
そして黒猫はドアにたどり着き、そこを引っ掻きながら俺の事を呼び出している。俺を専属のドアマンと勘違いしているらしい。こうなればヤケだ。この家から出る方法が見つからない以上、無駄に走り回ってもしょうがない。あの黒猫に従ってみよう。あいつは俺よりもこの家に詳しそうだし。
少女はまだ来ない。俺は歩いて黒猫の待つドアまで向かった。
「ナァー」
来るのが遅い、と不機嫌そうに鳴いている。腹が立ったので黒猫に背を向け、来た道を引き返そうとした。
「ンニャ、ニャウーン」
黒猫は慌てた様子で俺の前に来て、甘えた声を出した。猫を被る猫というのもなかなか面白い。俺はドアを開けてやることにした。
その部屋は、さっきの子供部屋だった。そりゃそうだ。さっきの吹き抜けの部屋から来たんだから。新しい部屋に出る方がおかしい。次はどんな部屋だろうと期待していた自分が恥ずかしい。だいぶこの家の毒に侵されてきている。
黒猫が部屋の中に進んでいく。俺も中に入り、ドアを閉めた。黒猫はピンク色のベッドの上に飛び乗って、猫らしく丸くなった。そのまま目を閉じ、呼吸で背中が上下する以外は全然動かなくなってしまった。
黒猫とふたりきりの部屋。……そうだ、ふたりきりだ。友人の頭が無い。少女に飽きられ投げ捨てられた悲哀の頭蓋。それが消えている。丸いラグやタンス、部屋中の所々に点々と付いていた血の跡も綺麗に無くなっている。掃除する時間なんてあったはずもない。掃除する人間もいないはずだ。この家にまだ俺の知らない誰かがいるなら別だが。
俺は部屋中を改めて調べることにした。頭や血の跡が無かった。つまりさっき来た時と違う箇所があるのだ。まだそういう箇所があるかもしれない。それに最初の居間でも、本棚の後ろに隠し扉があったんだ。ここにも何か隠れているのかもしれない。また黒猫がそう教えてくれてるのかもしれない。どうせこの家はまともじゃない。住んでる人間もまともじゃない。俺もまともな常識や先入観は捨てるべきなのかもしれない。俺は行動を開始した。
まず手始めに目を付けたのはパステルカラーの本棚だ。居間では本棚の後ろに扉があった。ここもまず本棚から当たるのが普通の考えだろう。本棚をどかそうと両手に力を込める。が、重くて動かない。そうだ、この本棚には本が詰まっている。重いのは当たり前だった。俺は本棚の中の本を手当たり次第に引っ掴んで後ろの床にバサバサと放り投げた。その音に黒猫が目を開けて反応していた。
ようやく空になった本棚を壁から剥がした。しかしその後ろには何も無かった。柳の下にどじょうは一匹、か。そうだな、まともな先入観は捨てると言ったのにいきなり普通の考えを起こしてしまっていた。
気を取り直して、次は隣に置いてあったおもちゃ箱を開けてみる。おや、さっきは箱の外に出ていたクマのぬいぐるみが今はこの中に入っている。これはどういうことだろうか。……気のせいかもせれないが、このぬいぐるみ、さっきより綺麗に見える。まるで買ったばかりの新品のようだ。いやそんなはずはない。そんなはずは。とりあえずぬいぐるみは関係無いだろう。箱から取り出して床に寝せておく。
取り出したぬいぐるみの下には、プラスチックでできたミニチュアのキッチン用品や、直立して人間の服を着た親指サイズの動物の人形がたくさん入っている。これでままごとでもするんだろう。他にも、プラスチックの宝石で装飾されたピンク色のコンパクトミラー、収納する箱が無くむき出しで一本ずつバラバラになっているクレヨン、用途不明のパチンコ玉一発、台紙から一枚も剥がされていないシールセットなど、様々な物があった。だがどれもそれ以上の意味は持っていない。ただの遊び道具に過ぎない。
と、おもちゃ箱の底に、女の子の持ち物としては似つかわしくない、黒革の手帳のようなものがあるのを見つけた。開く所が帯とボタンで留められている。手に取ってみると、それは手帳ではなかった。何かの入れ物だ。ずしりと重く厚みがあり、中に何か入っている。同じくおもちゃ箱に入っていた箱無しのクレヨンとはえらく扱いが違う。ボタンを外して開いてみる。
本のように開かれたその中には、刃先の形状が異なる彫刻刀が五本、綺麗にしまわれていた。
胸の鼓動が速くなるのを感じながら、その中の一本を手に取った。三角刀。あの少女が持っていたのと同じもの……。
その三角刀も、他の四本も新品同様だ。使い込まれている感じではない。もちろん血なんて付いていない。一緒に入っているバレンも綺麗なものだ。
この彫刻刀セットは彼女の予備なのだろうか。そんなにこれを使った遊びが好きなのか……。
「ニャ」
黒猫が短く鳴いた。黒猫はいつの間にか起きて、ベッドの横にある出窓の棚部分に乗っかっていた。
窓? 窓なんてあったのか。今初めて気づいた。この家で初めての窓だ。こんな状況なのに嬉しくなってしまう。俺は彫刻刀セットを持ったままその出窓に駆け寄った。
「ニャー」
黒猫が怪訝そうに俺を見ている。俺はそれを無視して窓の景色に目を向けた。そしてその景色に、己の目と頭を疑った。
俺はいつの間に、海沿いの街に移動してきたのだろう。
窓の外には、夕暮れの砂浜と、オレンジ色の海が広がっていた。
嘘だ。いくらなんでも、これは……信じられない。受け入れられない。だってあの駅の周りに海なんて無いし、家に入る時も海なんてこれっぽっちも感じなかった。ここに来たのも朝だ。まだそう何時間も経ってないはずだ。時間。時間……そうだ、この家に入ってからまだ一度も時計を見ていない。俺は携帯電話を確認しようと思った。そして携帯電話をなくしていることに気づいた。
今、俺はどこにいるんだ。遭難者、あるいは漂流者の気分だ。落ち着いたはずの精神がまたぐらついてくる。呆然と海の景色を眺めたまま、体が固まっている。
「ニャア」
黒猫が俺にすり寄ってくる。慰めているつもりなんだろうか。それは都合の良い解釈だな。猫は他人を気遣ったり思いやったりなんかしない。ただ利用するために、媚びるだけだ。猫とはそういう生き物だ。人間とそっくり似ている。
「ニャ」
何が「ニャ」だ。出口を知っているなら早く教えてくれ。それとも、この窓から飛び降りろとでも言いたいのか。……それしかないのなら、そうするしかないのだろうか。
俺は子供部屋を調べ続けた。全ての壁を隅々まで観察し、手で触っておかしな所がないか確かめた。タンスの引き出しを全て開けて中の服も全部引っ張り出し、サイドボードも開けられる場所は開け、開けられない場所も無理矢理開けた。電気スタンドも可能な限りバラバラに分解した。ベッドの毛布を剥がし、掛け布団を剥がし、枕はカバーを破いて中の綿まで調べた。シーツも剥ぎ取り、最後はマットレスをひっくり返した。しかし何も無かった。
あと調べてない場所……ラグだ。花柄の丸いラグの下をまだ見ていない。思い出した。ラグの下に何かあったのを踏んだ。あれは何だったのだろう。俺はラグの端を掴んで一気に取り払った。
疑問は明らかにならなかった。ラグの下には何も無かった。
なぜだ。なぜ何も無い。俺が踏んだと思ったものは何だったんだ。くそう、隠し扉も無いし、この部屋に来たのは全くの無駄足だったのか。結局あの黒猫は、ふかふかのベッドで休み、窓の景色を眺めたかっただけだったんだ。そりゃそうだ。猫に期待する方が酔狂なのだ。頭がどうかしてる。
ふと床に放り投げられた彫刻刀セットの箱が目に入った。手に取り、もう一度中を開く。
彫刻刀。あの少女はなぜこんなものを持っているのか。小さな女の子が自分から欲しがるようなものではない。男の俺だって、学校の授業で使うからと買わされたのだ。
そういえば、俺の持ってた彫刻刀セットは、彫刻刀をしまう場所の下にも一段フリーの収納スペースがあった。これも……やはり下に段があった。そしてそこに、半分に折り畳まれた一枚の紙切れが入っていた。その約十センチ四方の紙切れには、大人の字でこう書いてあった。
――あみへ おたんじょう日 おめでとう――
『あみ』……。この子の親が書いたんだろうか。じゃあこの彫刻刀は、『あみ』という子への誕生日プレゼントというわけか。センスの無い親だ。それにメッセージをこんな所に隠しては気づかれず読まれないかもしれないじゃないか。まあ、『あみ』が後からここにこの紙切れを入れたのかもしれないが。……『あみ』というのは、やはり、あの少女のことなんだろうか。
俺はこの部屋を出ようと思った。メッセージの紙切れを元の場所に戻して、そのまま彫刻刀セットの箱を持ってドアの前に立った。
銀色のドアノブを掴みかけて違和感を覚える。ドアが綺麗だ。それはありえないはずだ。あの少女はドアをガリガリと物凄い勢いで削っていた。何の傷も付いていないのはおかしい。小物を動かしたり血を拭き取るぐらいの事なら子供でもできるだろう。しかしドアを丸ごと取り替えるとなると大人でも容易ではない。工具も必要になるし、そもそもそんな事をする意味がわからない。こんな風に俺を困惑させるため? くだらない。俺はごちゃごちゃ考えるのをやめ、ドアを引いた。
「いたー」
目の前に少女がいた。おそらく、『あみ』という名前の少女が。
彼女は俺の顔を見るなり、にんまりと嬉しそうに破顔した。汚れたままの腕に彫刻刀を持っている。
「あれ?」
少女は俺の手に彫刻刀の箱が握られているのを見つけると、笑顔をやめて俺に問いかけてきた。
「それわたしのだよ。なんでもってるの? かえしてよ」
俺が返事に困っていると、少女の声に段々怒りが混ざりだした。
「ねえ、ねえってば。かえしてよ。かえしてってば!」
少女は左手を伸ばして彫刻刀の箱を掴み、俺から無理矢理奪い取ろうとしてきた。
「かえして! かえして! わたしの! わたしのなの! わたしの! かえして!」
見かけによらず力が強い。俺もなぜかムキになって箱を渡すまいと手を離さずにいた。さすがに子供の腕力に負けるはずもなく、彫刻刀の箱は俺の手の中から離れない。しかし彼女は諦めない。歯を食いしばり、箱を取り戻そうと必死の形相。あのだらしない顔とは似ても似つかない。まるで別人だ。
「ううう! うう! わたし……の! たからもの……! どろぼう……どろ……ぼう! このお!」
少女が右手の彫刻刀を振りかざした。そのまま俺の腕に振り下ろそうとしている。判断が追いつかず、俺はただ目を閉じる事しかできなかった。暗闇の中で聞こえてきたのは、意外にも少女の悲鳴だった。
「きゃあああ!」
彫刻刀の箱から少女の手が離れた感覚がして目を開けると、目の前には彼女の顔を自慢の剛爪で切り裂いている黒猫の姿があった。少女は持っていた彫刻刀を床に落とし、汚れた両手で顔を覆っている。その隙間からは赤い鮮血が流れ出ていた。
「いたい……いたい!」
少女が顔を押さえたままうめき声を上げている。俺はどうしたらいいのかわからず、その場に立ち尽くしたまま動けない。
その中で黒猫が一匹、何も言わず逃げるように廊下を走り、吹き抜けを回り込んで、ひとつだけ開いていた、向かいの一番遠いドアの中へ入っていった。
「まてえ……ねこ……ねこ!」
少女がバッと両手を顔から離し、落とした彫刻刀を拾い上げてから黒猫を追いかけて走り出した。一瞬見えた彼女の顔は、無数の引っ掻き傷とそこから流れる鮮血で赤く塗れていた。更に左の目にも傷が付いたのか、血の涙を流していた。
俺も彫刻刀の箱を放り投げ、少し遅れてから後を追った。
少女によって閉められたドアを開くと、そこには俺にとって衝撃的な光景があった。
片目を潰された少女が、左手で黒猫の尻尾を掴んでぶら下げ、右手で彫刻刀を逆手に構えている。黒猫は尻尾を掴まれているのがよほど痛いのか、空中でじたばたしながらぎゃあぎゃあ鳴きわめいている。
「つかまえた」
少女はにんまりと笑っている。その血だらけの笑顔が、とてつもなく不気味で、気持ち悪かった。
「おしおき」
少女が彫刻刀を高々と振り上げる。俺はとっさに、何かに突き飛ばされたかのように駆け出し、彼女に突進した。
「うわっ!」
少女の手から黒猫と彫刻刀を引き剥がし、俺はそのまま彼女の腰を抱えて脚を押さえ、彼女の頭を背中側にして肩に担いだ。
「はなして! おろしてよ!」
少女は暴れて俺の背中を殴ったり足で蹴ろうとしたりした。俺は意に介さず、子供部屋を出て吹き抜けの方へと歩いた。彼女がそれに気づき、より激しく暴れ出す。
「やだ! やめて! ごめんなさい! おしおきやだ! やめて! パパごめんなさい! もうしないからあ!」
涙ながらに何か訴えているが、俺は無視した。この子は人間じゃない。人間によく似た、悪魔なんだ。悪魔の言うことに耳を貸してはいけない。そして……。
「パパあ! ごべ、ごめんな、さい……ごめんなさい……パパぁ……!」
悪魔を、この子を生かしておいては、いけない。
俺はこの子を、吹き抜けの赤い海めがけて、ためらうことなく、放り投げた。
「ぱ……ぱ……」
少しの間、ぼうっとしてたようだ。
俺は吹き抜けの赤い海を眺めるのをやめ、後ろの部屋に戻った。
後ろ手でドアを閉め、部屋を眺める。状況が状況だったので、普通だったらすぐ気づきそうな事に今更気がついた。
同じだ。この部屋、さっき徹底的に調べ尽くしてきた部屋と同じ子供部屋だ。
いや違う。待て、混乱に飲まれてはいけない。よく見るんだ。
部屋の隅、タンスの近く、もうどんな顔だったかも忘れた友人の頭が転がっている。血の跡もあちこちに付いている。そして何よりも、さっきの部屋は俺がこの手でめちゃめちゃに荒らしてやった。でもこの部屋はそれよりも多少整然としている。
部屋の真ん中に立つ。足元に違和感。ラグの下に何かある。ラグの外に出て捲ってみる。そこには刃先の折れた彫刻刀の柄が四本隠れていた。……もうあの一本しか残ってなかったのか。部屋の端に落ちている三角刀を一瞥して、そんなことを思った。
もしかして。もう一度ドアを見る。きちんと閉まっているドアの表面には、夥しい数の切り傷や掘った跡が刻まれていた。ドアだけじゃない、壁一面に同じような跡がびっしり付いている。
この驚きが俺の頭に衝撃を与え、うまく噛み合わなかった回路がカチリと音を立ててようやくはまった。
俺は部屋を出て、廊下側のドアの表面を調べた。
――わたしのおへヤ――
やっぱりだ……。この家には、女の子がふたりいたんだ。『あみ』と、もうひとり、この『わたし』。向かい合わせにある、ほとんど同じ部屋で、それぞれ暮らしていたんだ。俺が見ていた少女は実は『あみ』ではなくて『わたし』の方だった。彫刻刀を使うのが大好きで、大好きすぎて、どこかで使い方を間違えて、残虐な、まるで悪魔のような少女になってしまった、『わたし』……。
では『あみ』は……?
俺は『わたし』の部屋に戻り、おもちゃ箱を開いた。中には四肢をバラバラに切断された人形たちや、粉々に砕けて割れているコンパクトミラーの残骸、輪切りにされ、箱もビリビリに破かれているクレヨン、元々は一個の何かだったのであろう破片の群れなどが詰め込んであった。
それらを箱から取り除き、俺はおもちゃ箱の底から黒革の箱を見つけ出した。『わたし』の彫刻刀セットだ。留め具のボタンは潰れて意味を成さなくなっている。蓋を開いたが、中には何も入っていなかった。想像通りだ。だって五本とも外に出てるのだから。俺は一度深呼吸をして、その下にある段を開いた。
小さな写真が一枚入っていた。そっくりな見た目のふたりの女の子が、砂浜で同じ赤い水着を着て横に並び、こちらに向かって笑顔でピースをしている。そのふたりは『わたし』と同じ顔だった。
写真の裏には日付が書いてあった。三年前の夏だ。
三年前? おかしい。そんな以前に撮ったにしては、さっきの『わたし』と体の大きさが変わらなすぎる。子供は三年もすればだいぶ成長する。なのにこれはどういうことだろう。
ううん、わからない。俺には、わからない。
気づけばまた吹き抜けで海を眺めている。もうこの家には、俺しかいないのだろうか。『あみ』はどこにいるのだろう。俺にわかるはずもない。
俺は右手に三角刀を持っている。刃が赤黒く汚れている、あの子の最後の一本だ。あの子は俺が持っていた『あみ』の彫刻刀セットを自分のだと勘違いして取り返そうとした。必死になって。それほどまでに彫刻刀が好きなのだ。だから、ちょっと遅かったかもしれないが、返してあげよう。
俺は彼女の宝物を、赤い海にそっと投げ入れた。
「ニャー」
黒猫がどこかで鳴いた。右のドアの前だ。
「ニャー」
黒猫が俺を呼んでいる。人の気も知らないで。
「ニャー」
わかったよ。行くよ。やれやれ。
「ニャウ」
黒猫の元へ行くと、こいつはやはりドアをカリカリと引っ掻いた。この先は確か階段だ。上り……いや、下りだったかな。まあいい、とにかくもうドアマンは退職だ。ここを開けても外には出られない。
「ンニャー」
命令に従わない反抗的な態度に黒猫は憤慨している。ドアに立てていた爪を、今度は俺の脚に向けてきた。
「ニャニャ」
尚も命令を無視し続ける俺。黒猫はドアに向き直り、後ろ足で立ち、前足をドアノブに伸ばしている。自分で開けようというのだろうか。だが前足はもう少しという所で届かない。届いたとしても、捻って回さなければならない。猫の手では無理だ。
ん。赤い。ドアノブが赤い。
ずっと気になっていた。この家のドアノブには二種類の色がある。何も塗られていない鉄の色そのままの銀と、この赤だ。この違いは何だ? なぜ塗っていたり塗っていなかったりするんだ。
わからない。今となってはもう、どのドアノブが赤くてどのドアノブが銀だったかも覚えてない。そもそも意味なんて無いのかもしれない。
俺にとって、どうでもいいことだ。
「ニャアーン」
黒猫が全身を大きく伸ばしてドアノブを掴もうともがいている。ガリガリとドアを引っ掻いている。爪が折れるんじゃないかと心配になるほどの大きな音が鳴っている。……仕方ないな。これで本当に最後だぞ。
俺は黒猫を手でそっとドアから離し、赤く輝くノブを掴んで回し、ゆっくり押して開けた。
「ニャ」
俺はドアの向こうに、奇跡を見た。玄関だ。数メートル先に、この家に入った時と同じ、あの玄関がある。あまりに唐突な出来事。思わず足元にいる黒猫を見つめてしまった。
「……ニャア」
黒猫は小さく鳴いたきり、黙り込んで何も言わなくなった。ただただ座って玄関の方を眺めるばかりだ。
お前はこの先に行きたくて俺にドアを開けさせたんじゃないのか? なぜ座ったまま動かない?
まさか、俺のために……? 猫が、他人のために……? そんな、ばかな。
やがて黒猫は膝を折って猫らしく丸くなると、両目を閉じ、ドアの前で眠りについた。
なんだか悔しい。真意はわかるはずもないが、俺は結果的に、この黒猫に助けられた。それも一回じゃない。今思い出したが、『わたし』に彫刻刀で刺されそうになった時も、助けてくれた。この黒猫は、この家の中で唯一、俺に協力してくれたんだ。見ず知らずの俺に。
俺はその場にしゃがみ、ほんの数秒だけ、黒猫の頭を撫でてやった。黒猫は耳を動かし、片目を一瞬開けてこちらを見たかと思うと、すぐに大きなあくびをして、また眠り込んでしまった。可愛くないやつだ。
俺は立ち上がり、玄関へと向かった。無意識に早歩きになっている。そしてたどり着いた。
玄関のドア。ドアノブだけじゃなく、扉全体が赤く塗れて水面のように揺らめいている。
ようやくこの異常な、狂った家から出られる。俺は嬉しくなった。はやる気持ちを抑えながら靴を履き、ドアノブに手をかける。
ドアを開けようとした瞬間。横から強烈な蜜柑の香りが漂い、俺の動きを停止させた。
その香りのする方へ顔を向けると、そこにはあの、取っ手が無い粗末な下駄箱があった。この家に入って最初に見たものだ。だが決定的にあの時と違う。
戸が開いているのだ。取っ手の無い板が二枚。その内の右側の板が、左にスライドして開いていた。
俺は早くこの家から出たいという思いとは裏腹に、その下駄箱の中がどうなっているのか調べずにはいられなくなっていた。
しゃがんで下駄箱と向かい合う。蜜柑の香りがする。下駄箱の中は不自然に真っ暗で、奥が全然見えない。これでは余計に気になる。
意を決し、右手を下駄箱の中に突っ込んでみた。すると、中で何かに触れた。冷たくて、柔らかい。これは……濡れている? 明らかに靴ではない感触だ。やけに大きくて、重い。とても片手で持てるものではない。左手も中に入れて、その何かを一気に引っ張り出した。
ずるずると音を立てて下駄箱の闇から現れたのは……これは……こ、これは……そんな……!
紫に変色した肌。濡れてごわごわとした髪の毛。水を吸って重くなったTシャツと半ズボン。そして何より……傷ひとつ無いこの顔には、見覚えがある。
この子は……この子は……俺が……。
小さな体を抱える両腕がわなわなと震えだす。
なんで……なんでこの子が……こんな所に……。
俺の中で何かが溶けて崩れ出しそうになったその時、腕の中で眠っていた幼い水死体が突如ぱっちり両目を開き、驚愕する俺の目を見つめてにんまりと満面の笑みを浮かべた。
「ひとごろし」
俺は飛び起きた。ベッドの中の体は汗でびっしょりだった。最高に気分が悪い。最低だ。
額の玉汗を手で拭っていると、壁際に設置してある固定電話に着信が入った。心臓に悪い音だ。窓の外はまだ真っ暗だ。携帯電話で時間を確認しようと思って辺りを手探ったが見つからない。そうだ、この前街で無くしたんだった。まだ見つからないのだろうか……。
放心している間も電話は鳴り続けている。真夜中にいったい誰だ。急ぎの用でなかったら怒ってやろう。俺はベッドから降りて固定電話へ向かった。
白い電話機の液晶画面に相手の電話番号が表示されている。これは……俺の携帯の番号だ。誰かが拾って、ここに電話をかけてきてくれたのだろうか。急いで受話器を取って右耳に当てる。こちらが喋る前に向こうから声が聞こえてきた。女の子の声だった。
「もしもし、わたし。いまパパのうしろにいるの」
後ろを振り向く間もなく、いきなり背中の右側に激痛が走った。何か細いもので……刺された……?
受話器を戻す手が痛みで震える。ガチャリと受話器を置いた時、また背中を思い切り突かれた。血を吐いた。白い電話機に赤いものがかかり、びちゃびちゃと不快な音を立てた。
四回刺されたところで立っていられなくなり、床に両膝をついて電話機の乗った台に両腕で寄りかかった。
五回目。背中に何かを突き刺したまま、後ろにいる何者かが俺に語りかけてきた。
「パパ、わたしのたからもの、ぬすんだでしょ」
何のことだ。俺は何も盗んでなんかいない。
「あみといっしょのしゃしん。だいじにしてたのに。ひどい」
目が回る。ぐるぐると回る。思考が詰まる。言葉が声になって出てこない。荒い呼吸をするのがやっとだ。
「だから、パパもおしおき」
そう言うと、後ろの彼女がまた俺の背中を滅多刺しにした。俺は叫び声すら上げられず、横に倒れた。すぐ小さな手で仰向けにされた。胴体の上に跨ってきた。馬乗りだ。その小さな体は、なぜかびしょ濡れだった。
「つかまえた」
そう言ってにんまり笑う少女の顔は、爪で引っかかれたような痛々しい傷でいっぱいだった。更に左目が潰れている。野犬にでも襲われたのだろうか。
「ねえ、パパ」
少女は急にしんみりした声になった。
「パパ、わたしのなまえ、おぼえてる?」
この子の名前……。なぜ俺がこの子の名前を知ってなきゃならないんだ? この子と会ったことなんか……あるかもしれない。
この顔……見覚えがあるかもしれない。……頭が痛い。俺は……この子の……?
「おぼえてないんだね。……そうだよね」
少女は悲しそうな顔をしている。
「わたしじゃなくて、ちゃんとなまえをかけばよかった……」
ぼそりと呟き、彼女はそのまま右手を頭の上にゆっくりとかかげた。その手には細いものが握られている。目が霞んでよく見えない。
「パパにもらったちょうこくとう、さびちゃった。だからもう、ほれないの」
彫刻刀……。娘たちの誕生日に……プレゼントした……。
「でもパパは、ぜんぶわすれちゃった」
双子のお姉ちゃんはあまり喜んでくれなかった……。でも妹の方がふたり分……いやそれ以上に喜んでくれた……。
「わたしのことも、あみのことも。……おかあさんのことも」
ちょっと無理をして、海の近くに三階建ての家を建てた……。家族みんなで……仲良く……。一緒に……住んで……そして……そして……。
「わるいこにはおしおきなんだよね? みんなのことわすれちゃったパパもわるいこだ」
湯船に冷めたお湯が残ってた……オレンジ色の……入浴剤が……。
「だからおしおきだよ……パパ」
あみが溺れて……その隣でみのりが……。……みのり!
この子の名前を呼ぼうと口を開けた瞬間に、錆びた彫刻刀の刃が俺の首にまっすぐ垂直に、深々と突き刺さった。
しばらくの間。やがてみのりが彫刻刀をゆっくりと引き抜く。俺はみのりの名前を呼んだ。何度も、何度も。しかし俺の口からは何の声も出ず、穴の開いた喉からごぼごぼという感情の無い音が漏れ出るだけだった。ああ……視界が狭くなる。何も、見えなくなる……。みのりの顔も……何も……。
「さようなら、パパ……」
胴体にかかっていた圧迫感がふっと無くなった。みのり……? 待ってくれ、みのり……! お前まで、俺を置いて行ってしまうのか? あみと同じように、突然……俺の前からいなくなってしまうのか……? こんな真っ暗闇に俺を、パパをひとりにして行っちゃうのか……? みのり……!
誰も、いなくなってしまった。
寒い。全身が凍えるように寒い。体が動かない。指一本すら微動だにしない。本当に凍り付いてしまったのかもしれない。
これは悪い夢なのだろうか。……いやきっとそうに違いない。こうやって目を閉じていれば、そのうち夜が明けて暗闇は晴れ、娘たちが俺を起こしにやって来るのだ。「パパ! あさだよ!」「いっしょにちょうこくとうであそぼうよ!」「ちがうよ、おままごとするんだよ」「ちがうよー!」「ちがわないよー!」なんて言いながら、朝から騒がしく俺の腕を引っ張るんだ。
朝ごはんを食べて娘たちと三人で思い切り遊ぶ。そして夕方になったら近くの砂浜を散歩するんだ。三人、手を繋いで。娘たちの笑顔が目に浮かぶ。ふたりともにんまりとそっくりに笑う。世界一可愛い、俺の娘たち。ふたりが大きくなるまで、いつまでもそうやって、仲良く暮らすんだ。
そうだ、そうに決まってる。
だから、だから……。
だからお願いだ。早く俺を起こしてくれ……。
この、永遠に終わらない……悪夢から……。