はる
飛び出した先が何時だって正しいとは限らない。
が、何が起こるか何て誰にも分からない。
状況は目まぐるしく変化している。雲は形を留めず流れてちぎれて消えていく。ただ空はあの時ほど美しくも広くもないので、見上げることはしない。故郷を懐かしく思えば思うほど美化されていく過去に今は背を向けて、人混みに流されながらホームへと降り立った。土臭さの代わりに鼻をさす異臭、頬を抜ける春風の代わりに四輪駆動の排出ガス、木漏れ日の代わりに眩しいばかりの照明。都会に未だとけ込めない私は、大学の最寄り駅に着くこの瞬間がどうも好きになれなかった。人で溢れるホーム内は一様に自己中心的で、どうも全世界から無視されたような心持ちになる。電車酔いを起こしかけベンチに腰を下ろしていると、自分だけ流れに逆行しているようで、せかせかと早足で向かい人の流れを遠目に見ていた。我先にと急ぐ人々には他人なんて障害物にしか過ぎないのだろう。
いつまでも座っているわけにはいかないが、重たい腰はそう簡単に上がらない。このままでは1限に遅刻してしまう。堂々巡りを繰り返していたその時だった。
カラン、コロン、カラン。
唐突に転がり込んできた音は雑踏をかき分けて目の前に現れた。気がつくと下駄が目の前を通り過ぎていった。正確に言うならば下駄を履いた男性が、だ。ジーパンに長袖の白いシャツという、ラフな服装は人混みに不釣合い、おまけに背が高いのか集団から頭ひとつ飛び抜けている。その出来事はほんの一瞬のことで、次にはもう駅員のアナウンスにかき消されていた。あれは一体何だったのだろう、雑踏の一つでしかないはずの下駄がどうにも頭から離れなかった。
そんな事があり、一限開始時刻に間に合わなかった。それどころか教室変更も重なり出席すら叶わず、挙句に二限は休講となっていた。朝早く起き準備をし、満員電車に揺られながら来たというのに、だ。
仕方なく足を動かすが、結局のところ食堂へと行き着いた。清潔さにかけては他大学にも劣らない食堂は、二限開始時刻を過ぎても学生たちで賑わいを見せていた。授業の予習や復習を行っているものは少なく、その多くが他愛のない会話に花を咲かせる中、昼前からカレーライスを盆に乗せ席を探し歩く。さほど空腹を感じていたわけではなかった。が、前の人が食券を買っている場面を目撃し、流れで選んだカレーライス。申し訳程度のじゃが芋と人参がルーの中に佇んでいる。
「あれ、千春ちゃん!」
呼ばれた方へ振り返ると、カウンターの席に腰を下ろしていた笹野が手招きしているところだった。彼女とは先日行われた新入生向けの学科内親睦会で知り合った。その会で隣に座っていた彼女の快活とした様子が印象的だった。
「おはよー。これから朝ごはん?」
「え、あ、えーと…」
「あ、席開けるから、使うかなと思ってさ」
よく見ると彼女の隣にも、知り合いらしい友人が座っていた。視線が合うと小さく会釈をする。
「はい、どうぞ!」
「わ、わざわざありがとう」
じゃあね、と手を振る笹野はその友人らしき女性を連れて立ち去ってしまった。残された私と四五〇円のカレーライスは共に空席となったその場所に腰を下ろした。銀色のスプーンで白米を切り崩しルーと和えていく。カツン、カツンと金属の衝突音が景気よく響く。
社交性か?語彙力か?はたまた容姿か?未だに馴染めない都会の真ん中、大学内の食堂で自分に問いかける言葉は妙に重く響く。華の女子大生とはよくいうが、周辺の色は相変わらず暗んで見える。そもそも『華の』という取ってつけたような言い方が好きになれなかった。大学生にもなり故郷を一人飛び出して、行き着いた場所では孤立を強いられているような感情さえ抱く。手元のカレーは中途半端な辛味であった。
カラン、コロン、カラン。
不意に脳裏を掠るあの下駄の音がした。耳鳴りかもしれない、白米を崩す手を止めて顔を上げた。
「隣、空いてる?」
「あ。」
そこにはやはり今朝の下駄が居た。
「蕎麦が伸びちゃうから、座っていい?」
急いでいる様子でもなかったが、確かに手には丼ぶりが握られていた。ちくわ天がひっそりと蕎麦を覆うように浮いている。
「え、ど、どうぞ。」
「悪いね、どうもどうも。」
彼が動くとカラン、下駄の響く音がした。やはり今朝の彼で間違い無い。あの混雑した駅のホームで偶然見かけた下駄の彼が横で学食のちくわ天蕎麦を啜っている。別段、運命的なものを感じた訳ではなかったが偶然もここまで重なると何故か近しい気持ちになる。
「あんさ、イチネン?」
「は、」
「別に答えたくなかったらいんだけどさ、そのカレー旨くないだろ」
ちくわ天を箸で持ち上げたり汁に浸けたりを繰り返しながら、さながら独り言のように淡々と彼は続けた。おおよそ隣にいる女性に、しかも初対面の相手に話しかける口調ではない。
「俺も最初の頃、なんとなくカレー選んで失敗したんだよね。人がカレー食べてんの見ると思い出してつい。それ、辛くないろ」
そこまで言うと満足したのか、ひとつ頷いてちくわ天を漸く口へ放り込んだ。確かに中途半端な辛味ではあるが、半分以上残っているそれを馬鹿にするなんて。妙な沈黙、下駄からすれば蕎麦を啜る音だけが連続性を保ち続けていた。それを破ったのは、
「あのぅ、新潟出身なんですか?」
という、意外にも私からの問いかけだった。
「お?」
「今、ろって言ったじゃないですか。私は新潟出身なので…」
「よく聞いてんのな」
「あの、私は一年の草下千春と言います。千の春と書いて千春です」
感心したようにこちらを見つめ、それから少し馬鹿にしたような笑みを浮かべながらチハル、チハルと呟いた。
「俺は二年の浦乃ハル。同郷のよしみだ、覚えといてね」
その言い方がどこか拍子抜けして千春はくすりと笑みを漏らした。
これがハルとの出会い、ほのかに眩しい日差しを受けながら風が揺れる春の昼前だった。
数年前、友人と四季をテーマに作品を作ることを約束していました。
今更ながら、少しずつ書き上げてみようかと思い、サイトのパスワードから探し始めました。笑
今度は更新頻度もぼちぼち増やしながら進めていくつもりです。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。