蒼い月の下で君と
ちょっと前に、ブルームーンが見えるっていう日があったでしょう。私も見事、目にすることができたのですが…いやぁ、綺麗だった。
…まぁ、そういうことです。要は、影響を受けましたというわけで。
起伏のほとんどない、ほんの短いお話ですが、楽しんでいただければ幸いでございます。
「よっ、弓掛。今帰りか」
後ろから唐突に聞こえた自分の名を呼ぶ声に、暗くなり始めた道中を歩いていた弓掛望はふと足を止め、振り向いた。点き始めた街頭に照らされた、見覚えのある姿に、思わず表情が優しくなるのが分かる。
「半井」
そこに立っていた、自分と同じ制服に身を包んだ少年――半井朔矢は、まるで自分の存在に気付いてくれたことが嬉しいとでもいうように、満面の笑みを見せる。あまりに屈託がない素の笑みに、望は自分の中で何かが音を立てるのを感じた。
途中まで家の方向が同じなので、図らずもそこから二人は並んで歩くことになる。過去に同じクラスだったことがあるため別に疎遠というわけではないのだが、今ではクラスも部活も異なるので、一緒に――しかも二人っきりで――帰るというのは非常に珍しかった。
「今日は、早いんだな」
何も話さないというのも気まずいので、望は隣に並ぶ朔矢へと話を振ってみる。
朔矢はバスケ部に所属しているので、いつも帰りが遅い。本来ならこうして望と帰りが一緒になることなどほとんどないはずなのだ。
「いや、そうでもないだろ。いつも通りじゃないか」
朔矢は腕時計を一瞥すると、ほんの少し小首をかしげた。
「つか、お前が遅いんじゃねぇの。もう七時過ぎてるぜ」
そういえば、と望は思う。
望は朔矢と違って帰宅部なので、いつもは暗くなる前に家に帰る。しかし今日は、校内で二ヶ月に一度行われる『役員会議』という委員会の延長のようなものに出席していたので、いつもより遅くなってしまったのだ。
それを説明すると、朔矢はあぁ、と納得したようにうなずいた。
「なるほど。委員長も大変だな」
ハハッ、と笑いながら、朔矢はこちらへと手を伸ばしてくる。さほど変わらない背丈のはずなのに、まるで子供をあやすみたいにポンポン、と頭を軽く叩かれた。
「っ、」
不意打ちの行動に、顔が熱くなるのを感じる。動揺を悟られまいとするように、望は自分の頭に乗った手をわざと鬱陶しそうに除けた。
「子ども扱いすんじゃねぇよ」
冷たく言い放つと、拗ねたように唇を尖らせ、赤くなった顔を見られぬようそっぽを向く。朔矢に気を悪くした様子はなく、それどころか少しも悪いと思っていなさそうに「ごめんごめん」と謝ってきた。
立て板に水のように次から次へとスラスラ出てくる朔矢の冗談を、望が適当にあしらう。朔矢との会話は、いつもこんな調子だ。自分でもそっけない態度を取っているとは思うけれど、どうにも朔矢の前では素直になれないのだから仕方ない。
いったん暗くなり始めると、それからは思いのほか早い。いつの間にか空は漆黒に塗りつぶされ、その中に白く丸い月がぽっかりと浮かぶように輝いていた。
「弓掛、知ってるか?」
ふと足を止めた朔矢が、さっきまでとは違った声色で言う。何のことかわからなかった望は、同じように足を止め、隣を見た。
朔矢はこちらを見ておらず、正面を――正確に言えば、空を見ていた。何か物珍しいものでも見つけたのだろうかと思いながら、望は朔矢の視線の先を追う。そこにはただ、何の変哲もない白く丸い月が、ぽっかりと浮かんでいるだけだ。
「満月だな」
思った通りのことを口にすれば、朔矢は無言で首を横に振った。一心に月を見る横顔は、やけに真剣だ。
――その熱のこもった瞳が、俺に向けばいいのに。
決して表沙汰にしてはいけない想いが、口を吐いて出そうになる。溢れ出る何かを堰き止めるように、望は両手で口を覆った。
望には、朔矢に対して隠していることが一つある。
望本人にも、十分すぎるほどわかっていた。自分が朔矢に対して向けるこの感情が、異常だということも。一般的に『気持ち悪い』と言われてしまうようなものであることも。
もし知られてしまったら、朔矢は確実に望を軽蔑するだろう。もう二度と、あんな風に笑顔を向けてくれることもなくなるだろう。
それだけは……絶対に嫌だ。
報われなくていいから。ただの友達以上になれなくてもいいから。
このままの関係で、望は十分だった。何も知らないまま、ただの友人同士として朔矢と一緒にいられるのならば、それだけでいい。
それでいいと、思っていたのに……。
「今日は、ブルームーンなんだって」
そんな望の思考を断ち切ったのは、独り言のようにポツリと告げる朔矢の声だった。口を覆っていた両手を離し、再び朔矢を見る。耳慣れない言葉に、首をかしげた。
「ブルームーン?」
「そう」
「黄色……か、どんだけ頑張っても白だろアレは」
「ちげぇよ」
色の話じゃなくて、と朔矢は小さく笑う。月明かりに浮かぶその表情が幻想的で、思わず目を奪われそうになった。
ブルームーンには二つの定義があるのだ、と朔矢は言った。
一つ目は、一ヶ月に二回満月が見られた時の、二度目の満月。
二つ目は、一年を春分、夏至、秋分、冬至の四シーズンに分けた場合、本来なら一シーズンにつき三度しか見られない満月が、稀に四度見られることがある。その時の三度目の満月を、ブルームーンと呼ぶのだという。
「まぁ、簡単に言えば『滅多に見られない、珍しい月』ってことだな。『ありえないこと』を、青薔薇に例えて『ブルーローズ』って呼ぶだろ? きっと、それと同じなんだよ」
「ありえない、こと」
口に出して言えば、朔矢はコクリとうなずく。
「そう。だから……」
この月を見ると、幸せになれるって言われているんだ。
どこか夢見るような、柔らかな声に、望の心臓がひときわ大きく跳ねた。朔矢の口調が、瞳が、どこか遠くに向いているようで。ここにいない誰かのことを、想っているようで。
望の知らない誰かを、朔矢はそんな甘い瞳で見つめるのだろうか。とろけるような声で、愛を囁くのだろうか。
「俺はさ」
そのままの声で、朔矢が続ける。願わくはもうこれ以上聞きたくなどなかったけれど、不思議と惹き込まれるように、望は彼の言葉に耳を傾ける。
「俺の選んだ人と――ずっと一緒にいたいと思う人と、いつかこうしてブルームーンを見られたら、ってずっと思ってた」
あぁ、やはり朔矢には想い人がいるのだ。俺なんかとじゃなくて、別の誰かとこの月を見たかったんだ。
いつか――朔矢とその人が一緒に並んでいるのを見て、素直に笑って祝福できるだろうか?
思わず泣きそうになるのを、唇を噛みうつむくことでどうにか抑えようとしたとき。
「そんでさ……偶然にも今日、その願いが見事に叶っちまったってわけよ」
……へ?
予想外の言葉に、望は目を見開いた。思わず顔を上げ、朔矢を見る。朔矢はどこまでも優しく、穏やかに微笑んでいた。
「だから、今――思い切って、打ち明けてみようと思う」
朔矢の言葉が、理解できない。頭に靄がかかったみたいにぼんやりとして、思考がよく働かない。今の自分は、相当間抜けな表情をしていることだろう……と、望は頭のどこかでそんなことを考えた。
「どういう、こと?」
ブルームーンは、滅多に見られないもの。それは今日の夜に見られる――つまり今まさに、夜空に浮かんでいる満月のことで。
そして、その満月は先ほど出てきたばかり。つまり、朔矢が今日一緒にそれを見ていたのは。いや、見ているのは……。
「めちゃめちゃ鈍くねぇか、お前」
普通ここまであからさまに言われたら、すぐに分かんだろが。
呆れたような表情を浮かべ、朔矢は乱暴に頭を掻いた。その頬は、ほんのりと朱く染まっている――ように、望には見えた。……もちろん、自惚れなどでなければ、の話だが。
「それとも、」
朔矢の声が、急に弱々しいものになる。いつもどこか自信ありげな態度の朔矢にしては、珍しい。
「……同性である俺からの告白は、やっぱり気持ち悪いか?」
そんなことはない、と言いたいはずなのに、声が出ない。まるで塊が喉元で引っかかっているかのようだ。
突然のことに、どうしていいのか分からない。嬉しいような、恥ずかしいような、ドキドキするような、変な気分になってしまう。
顔を熱くしながら、ただ金魚のように口をパクパクとさせていると、朔矢がこちらに手を伸ばしてきた。そのまま、頬に触れられる。望のそれより少し大きい朔矢の手は固くて、少し温かった。
そのまま、朔矢が目を合わせてくる。黒目がちの瞳が、射抜くように望の双眼を見つめてきて、思わず身体が竦んだ。
「好きなんだ」
縋るような声に、こちらまで切ない気持ちになる。
「お前のことが、ずっと前から」
その熱っぽい瞳は、先ほど月を――ブルームーンを見ていた時の、望が『見つめて欲しい』と願ったものと同じだった。
やがて望の頬から手を離した朔矢は、哀しげに視線を落とす。寂しそうに、ポツリと言った。
「気持ち悪いなら、俺を置いてこのまま逃げたっていい。明日からもう、お前に近づかないから」
「そんなことっ」
そんなこと、できるわけがない。
いやいやをするように、首を幾度も横に振る。朔矢が何か言う前に、望は朔矢の制服の袖を強く掴み、思いの丈を吐き出した。
「俺はっ、気持ち悪いなんて思ってない。っていうかむしろ、俺も半井と同じ気持ちだから……」
朔矢の袖を掴んでいない方の手で、漆黒の空を指差す。その先には、変わらず白い月が煌々と二人を照らしていた。
「何なら、あの月に誓ったっていい」
きっぱりと宣言すれば、朔矢はきょとんとしたように目をぱちくりとさせた。やがて彼の言葉が心に沁みたのか、みるみるうちに表情が緩んでいく。最後に花開くような朔矢の笑みが見えたかと思うと、袖を掴んでいた腕が唐突に引っ込められた。掴んだ手を離していなかった望は、必然的に朔矢の方へ引き寄せられる形となる。
「やばい……すっげー嬉しいんだけど」
朔矢の腕から手を離し、思わず身を捩ろうとしたところに、吐息交じりの安堵したような声が耳元で聞こえた。背中に両手を回され、ぐっと抱き締められる。密着したことで、顔のすぐ横にある朔矢の耳が、熱を持っているのがありありと伝わってきた。
それからもう一言、今度は弾んだ嬉しそうな声が耳に届いた。
「俺も、ブルームーンに誓うよ。誰よりも、弓掛が好きだ!」
「っ……半井。お前、声でかい。耳痛いだろが」
照れ隠しに悪態を吐けば、いつも通りの軽い笑い声が耳をくすぐる。これまでの比ではないほどの愛おしさがこみ上げてきて、望はだらんと下がっていた両手を朔矢の背中へと回し、ぐっと力を込めて抱き締め返した。
ブルームーンの白く淡い光は、抱き締めあう二人の姿をいつまでも明るく照らし続けていた。




