涙の日
短編小説『雪の日』のサイドストーリーです。
私は走った。
走って、走って、逃げた。
見ていられなかった。
息が切れそうに苦しくて、ぼんやりと霞んだ視界に、隆くんの左腕が見えた。彼を巻き添えにしてしまったことに、いまさらながら罪悪感を覚えた。つかんでいた彼の手を、ゆっくりと離す。
「ご、ごめんね、隆くん。急に走り出しちゃって」
私はバスケットボール部のマネージャーをしている。午後七時、練習が終わってジャージから制服に着替え、部員たちとともに駐輪場へ向かっていた。
日中に降った雪が溶けて、地面はぬかるんでおり、歩きづらかった。雪はもう止んでしまったものの、太陽が沈みきったこの時間帯はとても寒くて、震える指先をこすりながら歩いた。
今日は去年卒業した大学生の先輩が遊びにきてくれた。及川由希子さんといって、私の大好きな先輩だ。端整な顔立ちで、すらりと伸びた手足。綺麗な人だなぁと会うたびに思う。一見近寄りがたそうにも見えるのに、話してみるととても気さくで、面倒見がよくて優しい。隆くんのお姉さんでもある。
ひょんなことから、由希子さんが後輩である私たちに飲み物をごちそうしてくれる、という話になった。にぎやかな部員たちが缶やペットボトルを手に嬉しそうに散らばっていく中で、気が付けば自販機の前には四人だけが残っていた。
自販機から漏れる光の中で、私はなんともいえない不安がじわじわと侵食してくるような気がした。
隆くんが、ホットコーヒーのボタンを押す。
これで、何も手にしていないのは、私と北村くんだけになってしまった。
北村くんは、由希子さんを見ていた。
私はそれに気づいたとき、この場から立ち去ろうと決めた。由希子さんに勧められる前に、飲み物を断って、逃げた。隆くんの手をとって、走った。
あの場所から離れたかった。駐輪場には他の部員たちがいたけれど、皆には会いたくなくて別方向へ向かう。こんなところまで来るつもりはなかったのに、走っているうちに体育館の前まで来てしまった。
「ほら、由希子さん優しいからさ、こうでもしないと絶対私にもご馳走してくれたと思うんだよね」
私はうまく笑えているだろうか。
「……いいの?」
「もちろん! さっきあったかいお茶飲んだばかりだったし、由希子さんにはいつもお世話になりっぱなしだし、いいの」
大丈夫。声は震えていない。
私は笑って隆くんの方を見たのに、彼は感情を押し殺したような、ひどくあいまいな顔をしていた。
隆くんも由希子さんの弟というだけあって、整った顔をしているけれど、いつも薄く笑顔を浮かべているような親しみやすさがあった。由希子さんがクールな寒色系だとしたら、隆くんはやわらかな暖色系。そんなイメージがあった。
だから、彼のこの表情を見たとき、私は急に泣きたいような気分になった。
「加南子が言いたくなけりゃ言わなくていいし、聞かなかったことにしてくれ」
どきどきと心臓がうるさく音をたてる。
隆くんの言葉をじっと待つ。
彼は手に持った缶コーヒーを見つめて、それから小さく息をついた。
「好きだったんだろう?」
言葉が耳に刺さって、痛い。
気づいていたんだこの人は。鈍感だと思っていたのに。
棘が刺さったように痛くて、その言葉を飲み込めない。
私が何も言えずに黙っていると、隆くんは、加南子、と私の名前を呼んだ。
「このままだと、あの二人……京一たちは、うまくいくと思う。……今から戻れば、まだ間に合う」
隆くんはさきほどと変わらぬ表情を浮かべていた。いったい彼は、どんな気持ちで今の台詞を口にしたのだろう。
私は、隆くんにこんなことまで言わせてしまった。
その事実が、さっきの言葉以上に胸に刺さった。
隆くんにとって、北村くんと由希子さんは最も身近な存在に違いなかった。二人の気持ちも、隆くんは気付いていたんだと思う。
親友とお姉さんがうまくいくかもしれない。
きっとそれは、彼にとっても嬉しいことであるはずだ。優しい隆くんが、親友の恋を応援していないわけがない。
なのに、私の為に、こんなことまで言ってくれているのだ。
――だめだ。
隆くんにそんなことを言わせたら、だめだ。
「逃げてきたの、怖くて」
由希子さんを見つめる北村くんの姿が脳裏に浮かんだ。熱のこもった瞳。決してそれは私に向けられることはない。
「二人を見るのが、怖くて」
見たくないのに、私の頭から二人の姿は消えてくれなかった。
隆くんは何も言わない。
私はぬかるんだ足元を見ていた。
隆くんのスニーカーも、ところどころ泥がついている。こんなときだっていうのに、それがやけに気になった。
私は一度小さく深呼吸をして、次の言葉を口にした。唇が震える。
「私、北村くんが好きだった」
言った瞬間、熱いものがこみあげてきて、涙が溢れた。
誰にも、クラスの友達にも言わなかったこの気持ち。
無愛想だけど、優しいところが好きだった。
重い荷物を持っていると、何も言わずにそれを取り上げて部室まで運んでくれたこともあった。こっそり倉庫の掃除をしていたら、誰も気づいてくれなかったのに北村くんだけは「ありがとう」と言ってくれた。
シュートを打つ前の、真剣な横顔が好きだった。
仲間のプレーを褒めるときの、ふとした笑顔が好きだった。
好きだった。
大好きだった。
◇◇◇
今日、まだ雪がちらちらと舞っていたとき、私は部室前の水飲み場でレモネードの準備をしていた。やかんとコップを丁寧に洗う。氷のように冷たい水が手肌に痛くて、当たり前なのだけど冬は寒いなぁと実感する。レモン果汁と砂糖を大きなやかんに入れて、ウォータークーラーから冷たい水を注ぐ。
……私としては、あったかいのがいいんだけどな。
部員たちからは冷えたレモネードをリクエストされていた。冬の体育館は底冷えして、じっと立っているだけでしもやけになりそうなくらいに寒い。けれど、バスケは運動量も半端じゃないし、練習中はみな汗だくだ。そんなときにはやはり冷たいドリンクが飲みたくなるのだろう。
みんな、私の作ったレモネードをおいしいと喜んで飲んでくれる。とっても簡単に作れてしまうので、そんなに喜ばれても申し訳ないような気分になるのだけど、彼らの笑顔が嬉しかった。
今日もまた、喜んでくれたらいいな、と部員たちの笑顔を想像しながら、私は体育館へと向かった。
ボールがバウンドする音と、部員たちの掛け声が響いてくる。体育館の扉を開けて、やかんとコップの入った籠を机の上に置いた。
コート内ではスリーオンスリーが始まっていた。ノートを手に取って、今日の練習メニューを記入しようとしたとき、先ほどまで体育館にはいなかった人を見つけた。
由希子さんだ。弟である隆くんとストレッチをしているのが微笑ましい。なんだかんだ言いあったりしているときもあるけれど、仲の良い姉弟だなと思う。
後で話しかけにいこうと決めて、コート内へ視線を戻した。
そのとき、ちょうど北村くんにパスがまわってきて、私は彼に釘付けになった。長身の彼はただでさえ目立つのに、ボールを持つとさらに存在感が増す。ディフェンダーをかわして放ったジャンプシュートが、吸い込まれるようにゴールネットを揺らした。
「……かっこいいな」
無意識に声を出してしまい、誰にも聞こえなかっただろうかと慌てたけれど、練習中の部員たちが私の小さな声に気づくはずはなかった。
シュートを決めた後も、私は彼から視線を逸らすことができなかった。汗をぬぐう仕草でさえどこか色っぽく見えてしまって、どきどきする。
彼はコートの外に視線を動かして、乱雑に置かれていたスポーツタオルを手に取った。
……嫌な予感がした。
お願い、行かないで。
「き、北村くん! 飲み物、あるよ」
私はとっさに声をかけていた。そうだ。別にあの人のところへ行くと決まったわけじゃない。
そんな希望は、すぐさま砕かれる。
「いや、いい」
彼は微かに笑っていた。
私のことは見なかった。
そして彼女たちのもとへ歩いていく。
私は呆然とその様を見ていた。
見ていたくないのに、目を離すことができない。
北村くんは、隆くんと二言三言話したあと、彼と入れ替わるように由希子さんの隣に腰を下ろした。
北村くんと由希子さんは和やかに会話をしているように見えたけれど、どこか邪魔をしてはいけないような雰囲気が漂っていた。
でも。
唇を噛んで、勇気を出す。
不自然にならないように。
たった今、由希子さんの存在に気づいたふりをして、私は彼女の名前を呼んだ。
◇◇◇
「……だったら」
隆くんは私の手を掴んだ。ぎゅ、と力が込められる。
戻ろう、という彼の声に、首を横に振る。
「私、私ね。……由希子さんも大好きなの」
掴まれた手から、力が抜けていく。
「なのに、なのにさ。……私、今日、由希子さんのことを邪魔だって思った」
彼の顔を見ることができない。
こんなにも醜い私の心の中を知って、軽蔑されるのも当然な気がした。
「北村くんと二人で喋っている姿を見て、卒業してるのになんで来るの、って。……だから二人の邪魔をしたの。ひどいでしょ? ずるいでしょ?」
最後の方は、嗚咽でうまく声にならなかった。
由希子さんは、私の尊敬する先輩だった。
入部したての頃、人見知りでなかなか部になじめなかった私にも、毎日声をかけてくれた。近くの公園で開かれた新入部員歓迎会のときだって、ブルーシートのすみっこでジュースを飲んでいた私を、一緒に遊ぼうと誘ってくれた。
卒業した今だって、たびたび練習を見に来てくれる。そのたびに、明るい声で笑顔を見せてくれた。
私がバスケ部を続けられてきたのは、先輩がいたからだと言ってもいい。
なのに、そんなにも大好きな先輩を、邪魔だと思ってしまった。
「由希子さんのこと大好きなのに、なんで、こんなこと思っちゃったんだろう……」
最後に呟いた声は、消えてしまいそうなくらい小さかった。
「がんばったな」
慰めるような隆くんの声に、ふるふると首を振った。今は、優しくされることが何より辛かった。涙が溢れて止まらない。
「だいじょうぶ、加南子はいい子だよ」
隆くんは私の頭の上に掌をぽん、と置いた。
掌のぬくもりが、じわじわと私の中に染み込んでいく。
「私、全然いい子なんかじゃ、ない」
「大丈夫だから」
隆くんの大きな手が、優しく髪を撫でた。
しばらくそうされていると、ようやく私も落ち着いてきて、途端に恥ずかしさがこみあげてきた。
隆くんの顔を見ることができなくて、下を向いて「ありがとう」と呟いた。
彼は返事の代わりに、頭の上に置いていた手を私の目の前に持ってきた。
意図がわからなくて不思議に思っていると、それはパチンと乾いた音を立てた。
小さな衝撃に目を閉じてしまい、いったい何をされたのか呆けていると、じわりとゆるやかな痛みが額の一点から広がった。……デコピンされたのだ。
「いたい、隆くん」
「お詫びに隆さまがコーヒーを奢ってやろう」
おどけたようにそう言って、彼はいつものようにあたたかく笑った。私に背を向けて、ゆっくりと歩き出す。
この人はどれだけ優しいんだろうと、その背中に思う。
「隆くん」
振り向いた彼に、私は言う。
「とびきり甘いカフェオレがいいな」