となりのおばさん
となりのおばさんは、ちょっとおかしい。
わたしが玄関先の花にお水をあげていたら、水の音がうるさいといってジョウロを叩き落とされた。
旦那の博之と手をつないで玄関を出たら、下品だ、はしたない、と怒鳴られた。
うちの庭の木の葉が、おばさんの庭に何枚も落ちてきたと言って、一日中おばさんの庭を掃除させられたこともある。
もう、うんざり。
せっかく念願のマイホームを手に入れたのに、なんだかケチをつけられたみたい。
博之に相談したけど、気にするなよ、なんて笑われるだけ。
休みの日だって家にいないんだから、まるで他人事みたい。
ああ、毎日毎日、いつまでこんなことが続くんだろう?
ところが、ある日を境に、おばさんはとっても静かになった。
以前は部屋の中で音楽を聴いているだけでも、うるさいといって怒鳴りこんできたのに、
なんにも言って来なくなった。
あんまり急におとなしくなったから、逆に気持ちが悪い。
そういえば毎朝していた玄関周りの掃き掃除も、最近はしてないみたい。
博之にそのことを話すと、わたしの顔を不思議そうにみつめて、
少し黙った後、静かになったんならいいじゃないか、と言った。
まあ、そうなんだけど。
でもね、おばさんは静かになった代わりにね。
気がつくといつも、窓からこっちを覗いているの。
黄色く濁ったような、いやな目。
台所、寝室、浴室。あらゆる窓から、いつもあの目がわたしたちを見ている。
ううん、気のせいなんかじゃないわ。
いつも同じ、首に赤いスカーフを巻いて、こっちを見ているのよ。
博之はおおげさに、お腹を抱えて笑いだした。
なんだい、それ。赤いスカーフって、そんなのいまどき巻いてるひといるのかい?
とにかく、もう考えるのはやめたほうがいいよ。
きっと、疲れているんだよ。
今夜は早く寝よう。そう言って、博之はわたしの頭を優しく撫でた。
それでもわたしは、どうしても気のせいだと思えない。
あれは絶対、おばさんの目だ。
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あんまり気持ち悪いから、博之に「警察に相談したい」って言ったら、
なんだかひどく叱られた。
気にしすぎだって言ってるのに、どうしてそんなこというんだ、って。
でも、どうしても不安で仕方がないから、わたしは博之が会社に行った後、
親友のマキちゃんに電話した。
マキちゃんは美容院で働いていて、今日はお休みのはず。
マキちゃんに事情を話すと、心配だからすぐいくわ、と言って、
本当に電話を切って1時間くらいで来てくれた。
「だいじょうぶ?なんだか声が普通じゃないみたいだったから」
マキちゃんは同い年とは思えないほどスタイルが良くて、オシャレだな。
綺麗にメイクされた顔を見て、わたしは全然関係ないことを考えていた。
「うん・・・博之は、そんなはずないっていうんだけど」
「でも覗かれているような気がするのね?」
それって、気持ち悪いよね。マキちゃんが形の良い眉をひそめる。
マキちゃんはいつだって、わたしの味方になってくれる心強い親友だ。
博之と結婚するまえにも、たくさん相談に乗ってくれた。
わたしは、今朝、警察に相談したいと言って博之に叱られたことも、
いままで本当に不安で怖かった気持ちも、全部マキちゃんに聞いてもらった。
マキちゃんは、うんうん、と優しい声でわたしを慰めてくれる。
安心したのか、わたしの目からポロポロと涙がこぼれた。
マキちゃんは両手でわたしの頬を優しく包んで、
そして、言った。
「ほんとうに、おぼえてないのね」
マキちゃんの声が、まるで地の底から響いてくるみたいに低くて暗い声だったから、
わたしはびっくりしてマキちゃんの手を払いのけた。
「・・・マキちゃん?」
マキちゃんは、突然笑いだした。その美しい大きな声で、高らかに。
さんざん笑った後、マキちゃんは冷やかにわたしを見る。
そして、マキちゃんはわたしを台所に引っ張っていった。見たことのない、怖い顔で。
そして、わたしを突き飛ばして、台所の床を指さした。
「おばさんは、ここにいるじゃない」
なに?なんのこと?頭がまっしろになる。
「部屋の音がうるさいとか何とかで、おばさんが怒鳴りこんできたときに、」
あんたが首を絞めて殺しちゃったじゃない。
その手で。あんたが殺したのよ。
頭のなかがぐるぐると回り始める。
そんなこと、そんなこと。
あの日。そうだ、おばさんが何か・・・ほうきか何かを持って、怒鳴りこんできたんだ。
それで、うるさいうるさいってわたしのことを何度も叩いて・・・
それで、もういや、いや、って思って、この手でおばさんの細い首を・・・
わたしは自分の手を見つめる。
マキちゃんは鬼のような顔で、言う。
「私が手伝ってあげたのよ?おばさんをこの台所の床下に片付けるのをね」
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だって、博之が頼むんだもの。
あんなことが起こったとわかれば、会社だってくびになる。
せっかくのマイホームも手放す羽目になるかもしれないって。
だから、私が、手伝ってあげたのに。そんなことも忘れるなんて。
「・・・でも、おばさんはたしかに窓からのぞいていたわ・・・」
わたしの言葉に、マキちゃんはおかしくて仕方がないというふうにケラケラと笑う。
「ねえ、窓からのぞいていたのは、私よ」
だって、博之ったらあんたとはもう終わりだって言ってたのに、ちっとも別れてくれないんだもん。
私と一緒にいない間に、いちゃいちゃされたら腹が立つじゃない。
だからね。あんたたちのこと、ずっと窓から見てたのよ?
それもあんたにだけわかるようにね。
マキちゃんの言葉に、わたしは血の気が引き、全身ががたがたと震えはじめた。
博之がそんなこと・・・?マキちゃんはどうしてこんな・・・
ガチャガチャと音がして、玄関からひとが入ってきた気配がする。
博之?こんなに早い時間に?
キッチンに入ってきたのは、たしかに博之だった。
わたしはもう、混乱して動けない。
マキちゃんが博之を見て笑う。
「私が呼んだのよ?そろそろカタをつけてほしいって」
博之は肩をすくめて、しょうがないな、と言う。
・・・しょうがない?
博之はわたしの耳元で、いつものように優しく頭を撫でながら囁く。
「おまえはおばさんがうるさくて邪魔だから殺しちゃったんだよな?」
わたしはうなずく。目の前が涙でかすむ。
「今度はおまえがじゃまなんだよ。ごめんな」
博之がわたしの身体に馬乗りになる。
そしてわたしの首を思い切り締め上げる。
抵抗しようとする手を、マキちゃんが全力で押さえつける。
ああ、もうわたし、死ぬのね・・・
ぼんやりとした意識の中で、すごくどうでもいいことが頭をよぎる。
寝室の窓は2階にあるのに、マキちゃんはどうやって覗いたんだろう・・・
薄れゆく意識の中で、最期にわたしが見たのは、
台所の窓からこちらを覗く、おばさんの黄色く濁った目だった。
(おわり)