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ネコはカレの為にカノジョを捜す

作者: 克微 ショウ


 いつも通りの時間。ボクはいつも通りに、窓を叩く。

 いつも通りの合図にコウジはすぐに気付き、ボクを家の中へと招き入れてくれる。

「おかえり、タンジェント」

 いつも通りの言葉に、ボクは彼を見上げて「にゃあ」と答える。ただいま、コウジ。

 それに応えるように、コウジはボクを抱きかかえる。いつも通りの、日常。


「なあ、タンジェント」

 ソファーの上、ボクの背中を撫でながらコウジは言った。いつもとは違う、どこか悲しげな表情で。

 ボクはそれに「にゃあ」といつもよりも甘い声で鳴く。コウジに少しでも元気を出して欲しい。ボクはそう思った。

「お前は、どこにも消えたりしないよな? ……必ず、帰ってくるよな?」

 震えた声。今にも泣きだしそうな声。何を突然。コウジは何を心配しているのか。ボクは必ず帰ってくる。どこへ行っても、必ず帰ってくる。

 だからボクは、絶対的な自信を持って、にゃあと答える。

「ありがとう、タンジェント」

 コウジは微笑みながら、今度はボクの頭を撫でた。ボクはまた、鳴く。出来る限りに、可愛らしく。次は肉球をお願いしたい、なんてリクエストも込めて。


 結局この日、どうしてコウジが落ち込んでいたのかは分からなかった。

 夕飯を作るときも目玉焼きを焦がしていたし、食事の際にも箸の進みが遅かった。ついでに麦茶も零していた。それはボクにかかった。冷たかった。

 しかし、これ程までに落ち込んでいるコウジを見るのは初めての事だ。もっとも、ボクが彼と出逢ったのは三ヵ月前とつい最近の事だけど。

 ……一体、コウジに何があったのだろうか。

 釈然としない気持ちのまま、ボクは帰路に着く。ボクは所謂ノラ猫だ。コウジの飼い猫ではない。ボクとしては彼に飼って欲しいところなのだが、彼の家は賃貸でペット禁止らしく、それでもボクは彼に毎日会いたくて、それゆえに毎日通っている。これは、グレーゾーン……、だよね?

 とにかく、明日にはコウジが元気になっていますように。

 ボクは願いながら、祈りながら、とてとてと、いつもの道を歩いていく。

 満月に彩られた夜空が、とても綺麗だった。


 翌日。コウジを悩ませていたその理由は、あっさりと判明した。

「実はな、……昨日から、澄音がいなくなってるんだ」

 澄音。スミネ。彼が口に出したのは、恋人であるスミネの名前だった。なるほど。いなくなったのか、彼女が。

「だから、タンジェント、お前は――」

 コウジが言い終わる前に、ボクは「にゃあ」と鳴く。分かっている。いなくなるつもりなど、毛頭ない。安心していいよ、コウジ。

 ボクはもう一度にゃあと鳴いてから、コウジの肩に乗り、その頭を撫でる。

「そうだな、いつまでも落ち込んでても、しょうがないよな」

 パン、と膝を叩くと同時にコウジは立ち上がり「よし、なんか豪華なものでも作るか」と言いながら冷蔵庫へと向かう。

 ボクは「にゃあ」とそれに大きく賛同する。コウジの食事が豪華なら、ボクの食事も豪華になるからね。

 コウジが冷蔵庫を開けると、ひんやりとした空気が漂った。同時に、目に飛び込んできたのは、様々な食材。その中でも、チーズが目立って多い。ミックスチーズに、カマンベール、ブルーチーズやスモークチーズ。チーズケーキもある。

 それを見て、ボクには一つ、思い出すことがあった。

 ――私、チーズ大好きなんだぁ。

 ただ一言。いつもの一言。スミネが、いつもチーズを食べながら発していた、一言。

 ボクが思い出すほどであれば、当然コウジもそれを思い出すわけで、隣を見れば酷く落ち込んだ顔が見えてしまいそうだったから、ボクは横を向くことが出来なかった。


 夕飯の後、コウジは「うちの郵便受けに入ってたんだ」と言って、ボクに一枚の紙を見せてくれた。

 ボクは人語を解せるけども、読むことは出来ない。そこでボクは「にゃあ?」と首を傾げた。コウジはその意を汲んでくれ、文字を読み上げてくれる。

「『貴方とはもう一緒にいられません。いたくても、いられません。だから、私は貴方の前から去ります。さようなら、お元気で』って、書いてある」

 理由を告げぬ一歩的な別れの言葉。なんだか釈然としない。ボクは「にゃーあ」と語気を荒げてみる。

「電話もメールも連絡がつかないし、住んでたマンションも引っ越したみたいだ……って、こんな事言っても、しょうがないよな。ごめん、タンジェント。気にしないでくれ」

 確かに、ボクにはどうすることも出来ない。それでも、話を聞いてコウジが元気になるなら、幾らでも聞いていてもいいと思った。

「……もう、澄音の事は忘れることにするよ」

 うん、それが、一番いい。早く忘れてしまえば、もう悩むことなんてない。「にゃ~あ」とボクは鳴く。明日の元気なコウジを期待して。


 その翌日、事態はやはりボクの望み通りにはならない。

「なあ、タンジェント」

 その呼びかけに、ボクはにゃあと答える。しかし、その後にコウジから続く言葉は無い。なんだか、ボーっとしている。

 不審に思ったボクがもう一度「にゃあ?」と訊いて、ようやくコウジは口を開いた。

「…………いや、なんでもない」

 開いたけども、発された言葉はこれだ。なんて後味の悪い。

 結局その後も一日中、コウジはボーっとしていた。ボクの呼びかけにも半分しか答えてくれないし、今日はコーヒーを零された。やっぱりボクにかかった。熱かった。

 まだ、スミネの事を忘れられないのか。

 そうボクは思うが、忘れられないのは当然のことで、それでもボクは、コウジに早く元気になって欲しくて。だけれども、忘れるのには時間がかかる。

 ボクは、どうすればいい? どうすれば、コウジを元気づけられる?

 考えても、思いつかない。


 その夜、ボクは夢を見た。

 コウジと出会った日の光景。

 ボクがコウジの庭に迷い込んで、それを偶然にも彼が見つけ、家にあげてくれたあの日。

 ボクは人語を解せたが、彼は猫語を解せない。それでも、ボクたちは充分な意思疎通が出来た、と思う。

 コウジは猫の事をよく知っていた。それにボクは感心して「にゃあ」と鳴いて褒めた。

 コウジはボクの三色の毛を褒めてくれた。それがボクは嬉しくて「にゃあ」と鳴いて甘えた。

 楽しい一日だった。だから、それからボクは毎日、コウジの元に通っている。

 突如、世界が暗転。次に映ったのは、スミネがいる光景。

『どうして、戌年があってネコ年がないのか。俺には理解出来ないな』

 猫好きの彼は、そんな愚痴を彼女に漏らしていた。それを笑いながら、彼女は言う。

『あれ、コウジは知らないの? 十二支を決めるお話』

『なにそれ、そんな話があるのか?』

『えっとね、お釈迦様のところへ新年の挨拶に来た順番に十二支を割り当てたってお話』

『そういえば、子どもの頃に聞いたことあるかも』

『その時に、猫は挨拶の日を実際よりも一日遅い日と教えられたの。それで見事に挨拶に遅れて来て、十二支には入れなかったっていう』

『ああ、知ってる知ってる。鼠に嘘をつかれたんだよな、確か。小賢しいよな、まったく』

 楽しそうな会話。コウジは、ボクと出逢ったあの日と同じくらい、楽しそうな表情をしていた。

 世界が、フェードアウトしていく。

 ボクは、朝を迎えた。そして、決意する。

 彼女を忘れられないなら、再び彼女に戻ってきてもらえばいい。

 どこまで出来るかわからない。どこまで行けるか分からない。でも、ボクは、彼女を説得に行こうと思った。


            ***


「ああ、あのいけ好かないニオイのする人間の女か」

「キミの好みはどうでもいいとして、その人間の女――スミネという名のだけど、彼女がどこに行ったか、分からないかい?」

 コウジの家の向かい。そこに住む黒斑の猫に、ボクは聞き込みをしている。何の手がかりも無しに捜すことなど、到底出来るはずもないからね。

「む、俺だけの意見じゃないぞ、ここいら一帯の猫たちの殆どがそう言ってる」

「へえ、じゃあボクは偶然にも少数派に位置するわけだね」

「そういうこった」

「それで、ボクの質問はどこへ消えたんだい?」

「えーっと、すまん、なんだったっけ?」

 これだから黒斑は。すぐに会話が脱線する。ボクは心の中で悪態をつく。

「そのいけ好かないニオイとやらがする人間の居場所だ」

「ああ、それなら分かるぜ」

 身振り手振りを織り交ぜつつ、彼は非常に分かりやすくスミネの居場所を教えてくれる。

「なるほど、ありがとう。今度何か礼をしよう」

「礼なんていらないな。困った時はお互い様だろ?」

「ああ――」

 そうだった。猫の世間は、もっと気楽なものだった。忘れていた。どうして、人間はあんなにも堅苦しいのか。

 ……それにしても、随分と簡単に情報が手に入った。意外と楽だった。よかったよかった――



 ――現実は、そこまで甘くなかったようだ。

 なるほど。あの黒斑が教えてくれたのは、彼女が引っ越す前に住んでいたマンションだったのか。

 頑張って忍び込んだベランダから覗いた部屋は、もぬけの殻だった。ついつい舌打ちをしてしまう。

 さて、どうしようかな。

 マンションから抜け出し、ボクは周辺をさ迷う。そこに丁度、一匹の猫が通りがかった。ナイスタイミング。ボクが人間だったら確実に指を鳴らしていたところだ。

「ねえ、ちょっといいかな?」

「……はい、なんでしょう」

 ボクが声を掛けたのは、真っ白い、小さな猫。彼女は知っているだろうか、スミネの居場所を。

「あそこのマンションに住んでた人間の女――えーと、スミネと言うんだが」

「……?」

 しかし、彼女は首を傾げる。そうか、名前を言っても分かるはずもない。しかし、何号室に住んでいると言っても分からないだろうし――

 あっ、とボクは閃く。そうだ、良い言い表し方があった。

「いけ好かないニオイのする、人間の女」

 そんなに変なニオイがしただろうか、とボクは未だに疑問を持ったままだったが、使い勝手は良い。

「……あー、あの人ですか」

「そう、その人」

「ついこの前引っ越しましたよね、確か」

「そうそう、その人」

「スイマセン、分からないです……」

「……ですよね」

 普通、猫が人間の引越し先まで知ってるとは思えない。どうにも彼女はいけ好かないニオイで有名らしいので、暫くすればこちらまで噂が広がってくるかもしれない。しかし、引っ越したばかりでその居場所を知るのは困難か。

 ボクが落胆していると、どこかから低い声が聞こえてくる。

「ねえねえ、もしかして、僕その人の居場所知ってるかも」

 そこに、灰色で少し大柄な猫がやって来た。ボクはすかさず、彼に話し掛ける。

「それ、本当かい?」

「うん。そこのマンションに住んでて、いけ好かないニオイをしてて、つい最近引っ越した人でしょ? 僕、旅行先で見たもん」

「旅行先? ……それは、どこだい?」

 ボクの問いに大柄な彼が答えた場所は、ここから電車で数駅ほど先の場所だった。こんな都会でどんな小旅行だろうとボクは思ったが、それは口に出さず、心の内に秘めておくことにした。

「なるほど、ありがとう」

 ボクは謝礼の言葉を述べる。が、しかし。大柄の彼は「ねえ君、どっか遊びに行かない?」と先程の小柄な白猫に話しかけていて、ボクの言葉は全く聞いていないようだった。

 これだから大柄は。……もちろん、この言葉も心の内に秘めておくことにした。


 しかし、このマンションまでの距離も充分に長かったが、彼女の居場所は、更に遠い。

 既に日も暮れかけている。今日はこの周辺に泊まるとして、これから休み休みスミネの家へ向かうのにも、一週間で辿り着けるかどうか。

 長い間、コウジに会えなくなってしまう。ボクの一番の心配事は、それだ。

 ただでさえ落ち込んでいるのに、ボクが居なくなってしまったら。

 もしかしたら、ボクが本当にするべきなのは、ずっと彼の側にいることなのかもしれない。

 しかし、これ以上落ち込んでいる彼を、見ていたくなかった。楽しそうにしていて欲しかった。その為に一番手っ取り早い方法が、スミネを連れ帰ることなのだ。

 ボクは必ず帰ってくる。どこへ行っても、必ず帰ってくる。いなくなるつもりなど、毛頭ない。

 ここ数日で、ボクが発した一言一言になるべく込めてきたその決意が、コウジに伝わっていると信じて。

 ボクは、旅に出る。


            ***


 今日も夢を見た。

 知らない部屋で、コウジとボクが、楽しそうに語らう、そんな光景。

 コウジの家のどこにもこんな部屋はないし、ボクが今まで見てきたどの部屋とも違う、全く知らない部屋で。

『なあ、タンジェント』

 それでもコウジが発するのは、いつも通りの言葉。ボクはやっぱり「にゃあ」と答える。

『最近、どうも部屋に鼠がいるみたいなんだ。タンジェントが咥えて持ってきたりすると嫌だから、鼠捕りを仕掛けようと思うんだけど――』

 ビニール袋の中から鼠捕りを取り出しながら、コウジは言った。

 そういえば以前、コウジの家にいる鼠を渾身のドヤ顔で見せに行ったら、酷く嫌がられた。それ以来ボクは鼠を捕らえることをやめたから、そんな心配はないのだけれど。

 ボクがそう思っていると、夢の光景の中のボクは、鼠捕りをすかさず咥えて、ゴミ箱へ捨てた。

 何もそこまでしなくていいのに。ボクは不思議に思ったが、夢だから仕方ない。ボクは一応納得する。

『そっか、そうだよな。あれ以来タンジェントはそんな事しないし、無闇に捕まえるのも、よくないもんな』

 コウジの声が夢の中で響いた、その時。世界が、フェードアウト。

 ボクは、朝を迎えた。


 歩く。歩く。走る。歩く。休む。歩く。休む。休む。休む。

 朝から忙しい。もっと呑気に過ごしたいが、そうもいかない。一駅分は歩いただろうか。そう思った頃には、もう夕方。ああ、なんてことだ。

 やはり、歩きで行くのは非常に効率が悪い。もっと頭を使ったほうが良さそうだ。

 その反省から、二日目はトラックに乗り込んでみた。快適だ。とてつもなく快適だが、思った通りの道を全く通ってくれないのは不便だ。

 三日目。ボクはとうとう素晴らしい案を思いついた。

 そしてボクは今、それを実行しようとしている。


 ――さん――にい――いち――今だっ。


 周りがざわつく。しかし、遅い。圧倒的に、遅い。ボクが入り込んだ瞬間に、ちょうど扉が閉まった。

 そう、ボクが乗り込んだのは電車。乗客がざわついているが、一度乗り込んでしまえば、確実に一駅進める。これを繰り返せば、すぐに辿り着けるじゃないか。

 世紀の大発見に、ボクは小躍りしながら一駅分の区間を過ごした。

 次の駅に到着すると、ボクは駅員に抱きかかえられながら駅の外まで出された。ちょっと叱られた。

 無駄なのに。ボクは挑発するように「にゃあ」と鳴く。

 ボクを駅から追い出したところで、すぐに第二第三のボクが再び電車に乗りに来るというのに。


            ***


 目的の駅まで、無事到着出来た。無事というか、まあ、何度か叱られたものの、とにかく、無事に。

 予定よりもだいぶ早い。これも偏に電車のお陰だ。ああ、素晴らしいねまったく。

 あとはスミネを捜し出すだけだが、今までの旅に比べたら造作も無いことだ。聞き込みをすればすぐに分かることだろう。

「ごめん、ちょっと訊いてもいいかな」

「何かな? 何でも訊いていいよ」

 ボクは通りがかった猫を捕まえて、スミネを捜し出すのに最も適した質問を投げかける。

「いけ好かないニオイをした人間の女、ここら辺にいるかな?」

「……うーん、見たことはあるけど、何処にいるかは知らないな」

「そうか、ありがとう」

 居場所までは分からないものの、どうやらこの街にいるのは確かな情報のようだ。

 スミネまで、あと一歩。

 もはや、気長に捜せば、確実に見つけられる距離だ。

 目標は、すぐそこ。


 しかし、夕方になってもスミネはまだ見つからなかった。

 そもそも、この街には猫が少ない。そうすると情報源も少なくなり、未だにスミネの居場所を知る猫には会えずじまいだった。

「……今日はもう、諦めようか」

 もう日も暮れそうだし、ボクもだいぶ疲れてきた。どこかにいい寝床は無いだろうか、ボクは周りをきょろきょろと見回して――ボクは、目を見開いた。

 いた。

 あの橋の上に、確かにいた。

 スミネだ。

 後ろ姿だけだったが、分かった。

 今まで感じていなかったはずの、あの“いけ好かないニオイ”がしたのだ。

 ボクは走って、全速力で、彼女の元へと向かう。

 逃してはいけない。今逃したら、猫の少ないこの街で、次にいつ見つけられるか分からない。

 よし。この距離なら、届く。彼女に聞こえるように、ボクは思い切り鳴いた。


            ***


 にゃあ、というボクの大きな鳴き声が届いたようで、スミネは振り返り、ボクを視界に捉えた。

 大きく見開いた彼女の眼には、驚きよりも、恐怖の方が多く内包されていた気がする。

「……あなたは、コウジの……っ!」

 そう、ボクはタンジェント。コウジの家に毎日通っていた、キミのよく知る猫だ。

「ど、どうして、ここに……?」

 キミを連れ戻して、元気なコウジを取り戻すため。ボクは答えたが、果たして彼女に猫語が解せるのか。

「まさか、私とコウジの寄りを戻させに来たの? ……だとしたら、無駄よ」

 どうやら、ニュアンスだけは伝わっているようで、彼女はボクの目的を見事に理解してみせた。

 ボクはその『無駄』という言葉に対し、どういう理由で、と尋ねる。

「私は今でも彼を愛しているし、戻りたいとも思う、でも、出来ないの」

 だから、どうして? 何故。戻りたいなら戻ればいい。それだけで、皆が幸せになれるじゃないか。

「……じゃあ、あなたが消えてくれるっていうの?」

 消える? どうしてボクが消えなければならないんだ?

「にゃあにゃあ五月蝿いわっ、私は、猫が、大っ嫌いなのよっ!」

 そう叫んで、彼女はボクの首を掴む。そして、そのまま持ち上げる。苦しい。しかし、彼女は一体何をしようと――

 そこまで考えてボクは気付く。ここは橋の上。まさか、まさか。

「だから、あなたという存在が、邪魔だったッ! あなたと一緒になんて、いられるはずもないッ!」

 待って、やめて、待って。

 目の前にはスミネ。後ろは奈落。落ちれば、助からない。崖っぷちだ。

「でも彼に、猫と私、どっちかを選んで、なんて言ったら、猫好きのあの人はッ――」

 ボクを選ぶだろうから、だからこそ、そんな質問なんて出来なくて、逃げた?

「くッ――! この猫――ッ!」

 どうやら彼女の堪忍袋の緒を切ってしまったらしい。なるほど、これはまずいな。数秒後には奈落の底だ。

 ここから逃げ出すにはどうしたらいいだろう。考えるが、思いつかない。非常にまずい。このままでは、二度とコウジに会えないじゃないか。

 絶体絶命。

 ボクがこの言葉に相当する猫語を頭に浮かべた瞬間。声がした。

「――そんなことをさせるために、君を人間にしたわけでわないぞ?――」

 心に直接届くような、大いなる声。スミネの耳にも届いてるようで、彼女も驚いた表情をしている。

「い、いや、その……」

 必死に弁明しようとしたのだろうが、声になっていない。

「――確かに君は十二支順列一位の名誉を勝ち取ったあの鼠の子孫だ。その権利はあった――」

 大いなる声が、再び響く。

「――しかし、その姿になってまで天敵を殺そうなど、言語道断――」

「こ、これは、その……」

 スミネの姿が、透け始める。同時に、ボクの首を掴むものも無くなる。直後、浮遊感。しかしボクは焦らず、橋の上へと着地。間一髪。危なかった。

 その間にも、どんどん、どんどんスミネの姿は空気と同化していく。

「あ、あ、ああ……」

 今にも泣きそうな表情も、もう見えなくなってしまう。

 まだ、ボクの言葉は伝わるだろうか。思いながら、ボクは、ひとつだけ、最後に伝えたいことを、口に出す。

 さっきの質問、多分、コウジはこう答えると思うよ。選べない、ってね。


 そして、最後にそこに残ったのは、一匹のネズミだった。


            ***


 いつも通りの時間。ボクはいつも通りに、窓を叩く。

 ボクはようやく帰ってきた。スミネを連れて帰っては来れなかったけど、無事に、まあ、何度か叱られたものの、とにかく、無事に、いつもの場所へと戻ってこれた。

 いつも通りの合図に気付いたコウジは、すぐに窓までやって来て、ボクを家の中へと招き入れてくれる。

「やっと帰ってきてくれたんだね、おかえり、タンジェント、おかえり……」

 すぐさまボクを抱きしめて、泣きながらコウジは喋る。喋りながら、コウジは泣く。

 ごめん、スミネを連れ戻せなくて、ごめん。元気なコウジを取り戻せなくて、ごめん。ボクはにゃあにゃあ鳴いて、謝る。ひたすらに、謝る。


「なあ、タンジェント」

 一段落ついてから、いつも通りの言葉でコウジは話し掛けてきた。ボクももちろんにゃあと答える。

 久々のコウジは、一体何を話してくれるのだろうか。

「俺さ、凄い悩んだけどさ、やっぱり決めたよ」

 ボクは「にゃあ?」と首を傾げる。コウジは何の話をしているのだろう。

「引っ越すことに、決めたよ」

 引っ越す。コウジが、引っ越す? どこへ?

 そしてそれは、ボクから離れるということだろうか?

 ボクの中に、不安が渦巻く。折角、無事にまた会えたのに。どこへ行くの、コウジ。離れたくない――

 でも、それは全て杞憂だったと、すぐに判明するのであった。


「だから、一緒に住もう。タンジェント」

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