【第98話 折れた翼の音】
ノーグレイブは、雲を裂いて逃げていた。
――逃げているように“見せて”。
幻影はすでに切れている。
それでも敵は、なお追ってきた。
全員が追ってきたわけじゃない。
追ってくるのは――疑い深い連中だけだ。
◇ ◇ ◇
バルドは操縦桿を握り、歯を鳴らす。
「しつけぇ……」
視界の端で、薄い影が増える。
遊撃艦。小型。速度優先。斜線を描いて追撃。
空が広い?
違う。
追う側は“広さ”を武器にする。
距離を取り、角度を取り、射線を作る。
逃げる側は“狭さ”に追い込まれる。
逃げ道は一つ――前だけだ。
◇ ◇ ◇
ノーグレイブが吐く推進光は、直線の爪痕になる。
魔導出力式。
加速に段がない。
踏んだ分だけ、空気が後ろへ流れる。
だが――速ければいいわけじゃない。
速いほど、回避の余裕が消える。
バルドは高度を微調整する。
上げすぎれば薄い空気で失速に近づく。
下げすぎれば、雲の壁に突っ込んで視界を失う。
敵はその“中間”を狙ってくる。
◇ ◇ ◇
オズマが、外の気配を読むように言う。
「追撃は三。間合いを維持している」
「撃つ気だな」
バルドは返事をしない。
操縦桿を手首で捻る。
機体が滑る。
横滑り。
回転ではない。
“ズラす”動き。
レシプロなら軸が悲鳴を上げる。
だがノーグレイブは、衝撃を循環させて受け流す。
それでも船内は揺れる。
◇ ◇ ◇
「来るぞ」
オズマの声が落ちる。
次の瞬間、空が白く裂けた。
砲撃ではない。
直撃狙いの弾ではない。
爆裂する“近接弾”。
当てなくていい。
揺らせばいい。
操縦を狂わせればいい。
爆風が船体を殴った。
◇ ◇ ◇
ガン、と床が跳ねる。
バルドの身体が座席に叩き付けられる。
操縦桿が一瞬だけ浮く。
「チッ……!」
バルドが押し戻す。
推進を落とすのではなく、逆に噴かす。
姿勢を“押さえ込む”。
ノーグレイブは墜ちない。
だが――
船内の人間は、鉄と同じじゃない。
◇ ◇ ◇
ミラが声を上げる間もなく、体が持ち上がった。
固定帯は締めていた。
締めていたはずだった。
だが衝撃の向きが悪い。
横から叩かれ、腰がずれて、肩が滑る。
次の瞬間。
頭が、硬い縁に当たった。
鈍い音。
小さく、乾いた音。
◇ ◇ ◇
「――ミラ!」
フォティが叫ぶ。
声は、いつもの“静かなやつ”じゃない。
伸びた声。
裏返りそうな声。
ミラは返事をしない。
身体が座席の下に落ちている。
目は開いているのに、焦点が合っていない。
額から、ゆっくり血が流れた。
赤い線が、頬を伝って落ちる。
◇ ◇ ◇
オズマが即座に動く。
「押さえろ。頭を動かすな」
フォティは頷くこともできず、ミラの肩に手を当てる。
震える指先で、固定帯を掴む。
「ミラ……おい、ミラ……」
呼ぶ。
呼ぶしかない。
ミラの唇が小さく動くが、声にならない。
目が、泳ぐ。
耳鳴りか。
眩暈か。
視界が白いのか。
痛みの前に、世界が崩れている。
◇ ◇ ◇
オズマは掌をかざす。
治癒ではない。
魔力で“止める”。
血の流れを抑える。
脳を揺らさないよう、周囲の振動を微細に殺す。
それは医療ではなく、制御だ。
だが今は、それでいい。
◇ ◇ ◇
バルドが怒鳴る。
「手ぇ離すな! 次が来る!」
その声が、フォティの背骨に刺さる。
次。
また揺れる。
また当たる。
また――ミラが壊れる。
その想像が、胸の中を焼いた。
◇ ◇ ◇
フォティは見た。
操縦席。
バルドの背中。
操縦桿。
計器。
オズマの手。
ミラの血。
全員が、それぞれの役目をやっている。
フォティだけが――何もできていない。
座って、押さえて、呼んでいるだけだ。
◇ ◇ ◇
(……違う)
違う。
このままじゃ違う。
自分がいる意味がない。
いや。
意味がないとか、そんな格好いい話じゃない。
怖いんだ。
このまま見てるのが、怖い。
次の揺れで、ミラがもっと動かなくなるのが怖い。
だから――
動きたくなった。
◇ ◇ ◇
フォティは立ち上がった。
オズマの手が伸びる。
「待て」
声は静かだ。
だが重い。
止める声だ。
フォティは、止まれなかった。
「俺だって……やってやる!」
自分の声が、自分の耳に乱暴に響く。
冷静じゃない。
正しい判断でもない。
でも、叫ばないと壊れそうだった。
◇ ◇ ◇
バルドが振り返りかけて怒鳴る。
「バカ! それは――」
言葉は続かなかった。
敵弾がまた近接で爆ぜる。
機体がもう一度跳ねる。
その揺れに、フォティの決意が“固定”された。
迷う暇が消える。
◇ ◇ ◇
フォティは操縦席を振り返らず、後部隔壁へ向かった。
ハッチは閉じている。
当然だ。
撤退中に外気を入れる理由はない。
だが――そこに“出口”がある。
警告灯が赤く点滅している。
外圧差。
安全ロック作動中。
開けるな、という表示。
フォティは迷わない。
解除レバーを掴む。
「待て!」
オズマの声が飛ぶ。
だがフォティの指は、すでに押し込んでいた。
機械が短く鳴る。
ロック解除。
内部圧力が唸り、空気が吸い出される。
床が震える。
バルドが怒鳴る。
「何やってやがる!」
フォティは振り返らない。
「俺だって……やってやる!」
ハッチが外へ押し開かれる。
風が爆発する。
白い空が、口を開ける。
足が震える。
怖い。
それでも。
フォティは一歩、踏み出した。
◇ ◇ ◇
空が、音を失う。
ハッチを越えた瞬間、船内の騒音が切れた。
代わりに風圧が、全身を殴る。
身体が軽い。
軽すぎる。
足場がない。
上下も左右も、全部が流れる。
フォティの光が漏れる。
白金寄りの淡い金。
粒子が舞う。
だが整っていない。
噴き出し。
暴れ。
身体の周りで乱流を作る。
◇ ◇ ◇
(……飛ぶって、こうだったか)
訓練は“飛ぶ”ためのものだった。
落ちないための角度。
息を止めないこと。
目を閉じないこと。
でも空戦は違う。
相手は、同じ空を飛ぶ。
相手は、狙ってくる。
空そのものが、牙を持つ。
◇ ◇ ◇
敵遊撃艦が、フォティを見つける。
機体がわずかに傾く。
砲座が追尾する。
フォティは、意味もなく加速した。
直線。
正面から突っ込む。
――自殺みたいな軌道。
◇ ◇ ◇
バルドの声が、船内から漏れてくる。
「戻れ! それは飛行じゃねぇ!」
フォティは聞こえないふりをした。
聞いたら戻る。
戻ったら、また見るだけになる。
見るだけで、ミラが壊れていく。
それが耐えられない。
◇ ◇ ◇
敵が撃つ。
光が走る。
フォティは避けない。
避け方を知らない。
ただ――
“落ちる”時の癖で、身体を捻った。
偶然。
弾は肩を掠める。
熱が肌を舐める。
焦げた匂いが鼻を刺す。
痛い。
痛いのに、まだ生きている。
◇ ◇ ◇
(……できる)
根拠のない確信が湧く。
それは勇気じゃない。
ただの錯覚だ。
でも錯覚でも、今は必要だった。
◇ ◇ ◇
フォティは光を絞る。
訓練で覚えた“制御”を思い出す。
粒子を散らすな。
線にしろ。
推進に変えろ。
だが思い出すほど、乱れる。
焦りが混じる。
怒りが混じる。
光は感情に噛みつく。
◇ ◇ ◇
オズマが船内で低く言う声がする。
「……乱れている」
それは警告だった。
フォティには届かない。
届くのは、目の前の敵だけだ。
◇ ◇ ◇
フォティは敵遊撃艦の側面へ回ろうとする。
回れない。
回転半径が読めない。
遠心が身体を引き剥がす。
視界が一瞬白くなり、雲が上下にひっくり返る。
吐き気が込み上げる。
それでも――手足を伸ばし、光で“押す”。
押して、押して、無理やり姿勢を戻す。
◇ ◇ ◇
敵が再び撃つ。
今度は近接弾だ。
当たらなくていい。
爆ぜれば、揺れる。
フォティは理解した。
ミラがやられたのはこれだ。
(……じゃあ)
なら、俺が先に揺らす。
フォティは光を前方に放つ。
攻撃じゃない。
衝撃波でもない。
ただの推進。
だが、推進の“噴き”が空気を乱す。
敵弾の近接爆発が、わずかにズレる。
爆風が空を叩く。
フォティはその波に乗って、身体ごと投げられる。
◇ ◇ ◇
――生きている。
まだ。
ぎりぎりで。
◇ ◇ ◇
ノーグレイブが視界の端で大きく旋回する。
バルドがフォティに合わせたわけじゃない。
敵の射線を切るための動きだ。
だがその動きが、フォティの命綱になる。
敵は迷う。
少年を撃つか。
艦を撃つか。
迷った瞬間は、隙だ。
◇ ◇ ◇
フォティはその隙に、叫ぶ。
声は風に千切れていく。
でも叫ばないと、自分が誰か分からなくなる。
「……ミラを!」
言葉にならない。
代わりに、歯を食いしばる。
◇ ◇ ◇
船内。
ミラが薄く目を開けた。
ぼやけた視界の中で、白金の粒子が舞っている。
誰かが――外にいる。
理解より先に、声が漏れる。
「……ふぉ、てぃ……?」
小さい声。
だが確かに音になった。
◇ ◇ ◇
オズマが即座に顔を上げる。
「ミラ、動くな。話すな」
言いながら、視線はハッチへ向く。
外で乱れる光。
それが誰のものか、答えは一つだ。
◇ ◇ ◇
バルドが歯を食いしばる。
「……ガキが」
怒りか。
焦りか。
それとも――ほんの少しの誇りか。
分からない。
だが操縦桿を握る手は、さらに強くなる。
「落とすなよ……ノーグレイブ」
誰に言ったのか、自分でも分からない。
◇ ◇ ◇
空。
フォティの光が、乱れて、燃えて、揺れる。
敵遊撃艦が、照準をフォティへ戻す。
砲口が開く。
次は――外さない角度。
フォティは避け方を知らない。
それでも、前を見る。
怖い。
だが、怖さの奥で、別の火が燃えている。
やるしかない。
やらないと――守れない。
◇ ◇ ◇
白い閃光が、迫った。
(第98話 了)
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