【第85話 熱が入る理由】
風が、強くなってきていた。
断崖の縁。
視界の先には、雲が低く流れている。
雲の向こう側に、空があるのか、
それともただ落ちていくだけなのか――
その境目は、まだ曖昧だった。
◇ ◇ ◇
「……やりすぎだぞ、戦友」
オズマは、少し離れた位置から空を見上げていた。
その視線の先――
フォティが、また一歩、踏み出す。
跳ぶ。
落ちる。
魔力で踏みとどまる。
姿勢を崩し、空中で体を捻る。
地面が近づく。
その瞬間、オズマの魔法が発動し、
衝撃だけが削ぎ落とされる。
それを、もう何度繰り返しただろうか。
「……っ」
フォティは歯を食いしばった。
着地は、まだ硬い。
足は流れ、体勢も崩れる。
それでも――立ち上がる。
失敗を数えるより、
跳ばない理由を探す方が怖かった。
(……理由を聞く必要はないか)
オズマは、心の中でそう思った。
あれは――
技術の問題じゃない。
**感情だ。**
◇ ◇ ◇
「……空で、負けたくないだけだ」
フォティは、ぽつりと呟いた。
誰に向けた言葉でもない。
言い訳にも、宣言にもならない、
ただの本音だった。
「それだけ?」
オズマが、あえて軽く聞く。
「……それだけ」
即答。
だが、その声はわずかに掠れている。
フォティの視線は、
空ではなく――
遠くの崖下へ向いていた。
(やれやれ)
オズマは、内心で息を吐く。
(熱くなりすぎるなよ、少年)
だが、止めるつもりはなかった。
それもまた、彼の選んだ空なのだから。
◇ ◇ ◇
一方、その頃。
ルコールとミラは、
さらに奥の調査区域へ進んでいた。
切り立った岩場。
足場は狭く、高度差が連なる。
一歩踏み外せば、命を預けることになる場所だ。
◇ ◇ ◇
「……危ない」
ルコールは短く言った。
「動くな、ミラ」
有無を言わせない声。
次の瞬間、
彼は迷いなくミラを抱え上げていた。
◇ ◇ ◇
風を受けて、外套が広がる。
布は張りを持ち、
翼のように空気を受け止める。
重力は、消えない。
だが、支配はできる。
――滑空。
いや、
**降りていく。**
◇ ◇ ◇
ミラは、息を呑んだ。
視界が一気に開け、
空と地面の境界が遠のいていく。
怖いはずだった。
だが――揺れない。
その理由を探すより先に、
彼女の視線は無意識に――
**ルコールの背中へ向いていた。**
◇ ◇ ◇
風を切る音。
軋む布。
それでも、姿勢は崩れない。
広い背中。
揺るがない軸。
(……すごい)
心臓が、
理由もなく速く打ち始めていた。
◇ ◇ ◇
着地。
砂利が鳴る。
ルコールは、静かにミラを下ろす。
「……大丈夫か?」
いつもと同じ声。
いつもと同じ距離。
「……う、うん」
ミラは頷いたが、
胸の奥がざわついたままだった。
◇ ◇ ◇
ルコールは、彼女を一瞥する。
「顔色が悪い」
「……え?」
「無理をするな」
それだけ言って、
再び前を向く。
◇ ◇ ◇
(ちがう……)
ミラは、小さく胸に手を当てた。
息は苦しくない。
目も回らない。
ただ――
**どきどきしているだけだ。**
◇ ◇ ◇
だが、
それをルコールが理解することはない。
彼の中で残っているのは、
ただ一つ。
**守った、という事実だけ。**
理由は、
風の中に置いてきた。
◇ ◇ ◇
「……行けるな」
ルコールは、淡々と言った。
「うん……行ける」
ミラは、
少しだけ間を置いて答える。
◇ ◇ ◇
もう一度だけ、
その背中を見てから――
ミラは、前を向いた。
この気持ちに、
今は名前を付けない。
◇ ◇ ◇
遠くで、
フォティの着地音が響く。
荒い息。
それでも、立ち上がる気配。
◇ ◇ ◇
それぞれの空で。
それぞれの理由で。
彼らは、
**空に挑み続けていた。**
(第85話 了)
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