【第74話 合理の影】
影が、床に滲むように広がった。
灯りはある。
だが、その影は光源に従わない。
「ドクター」
低く、抑えた声が研究室に響く。
ラドクリフは、培養槽から目を離さないまま応じた。
「……お呼びですか」
振り返らない。
そこに恐怖も、畏敬もない。
「研究に没頭するのは結構だが、やるべきことが残っている」
影の主――
人々が“王”と呼ぶ存在は、静かに告げた。
「承知しています」
ラドクリフの返答は即答だった。
「成果は、想定を上回っています。
数値も、反応も、理論上は“成功”です」
ここで初めて、彼は培養槽から視線を外す。
「……ただし」
白衣の男は、眼鏡を押し上げた。
「軍曹……いえ、今はハンターと呼ぶべきでしょうか。
あの男は、予測外です」
一瞬だけ、研究者の顔に“純粋な興味”が浮かぶ。
「**強化された兵ではない。**
理論で組み上げられ、
改造で最適化された存在でもない」
淡々と、だが確実に言葉を重ねる。
「私と同じ軍属の系譜にありながら、
強化も、因子投与も受けずに――
結果だけを、最短距離で持ち帰ってくる」
小さく、乾いた笑い。
「……実に、非合理だ」
「危ういな」
王の声が、低く割り込む。
「合理の外にあるものは、制御できぬ」
「ええ」
ラドクリフは即座に肯定した。
「だからこそ、価値がある」
培養槽の表面を、指でなぞる。
「合理で説明できる存在など、
再現性のある部品にすぎません。
壊して、直して、作り直せばいい」
視線が、淡い光を湛えた液体の中へ沈む。
「しかし――」
声が、わずかに低くなる。
「説明できない存在は、観測対象です。
排除すべきか、素材にすべきか、
それを決めるまで“生かしておく”価値がある」
影が、わずかに揺れた。
「……ドクター」
「分かっています」
ラドクリフは、淡々と続ける。
「王は、結果的に不要な存在になる。
王子もまた、いずれ合理から逸脱するでしょう」
断言ではない。
だが、予測としては十分すぎた。
「記録は、常に勝者のために書き換えられます。
誰が剣を振るったかなど、本質ではない」
肩をすくめる。
「重要なのは――
人が“合理”という言葉を与えられたとき、
どこまで壊れることを許容できるか、です」
培養槽の中で、光が脈打つ。
「救済とは、慈悲ではありません。
選別です」
それは、誰に聞かせるでもない独白だった。
「耐えられぬ者は、最初から救えない。
壊れる者は、壊れるべくして壊れる」
視線が、遥か上を見据える。
「ならば最初から、
“壊す用途”として使えばいい」
影が、ゆっくりと後退する。
「やりすぎるな、ドクター」
「ええ。
ですから、まだ“途中”です」
ラドクリフは微笑んだ。
「完成形は――空にあります」
王は、それ以上何も言わなかった。
影は消え、
研究室には規則正しい機械音だけが残る。
ラドクリフは、一人になってから呟く。
「……Se-Na」
その番号を、愛おしむように口にする。
「君は、まだ未完成だ。
だが――」
薄く笑う。
「人が人である限界を超えるには、
未完成であることこそが、最適解なのだから」
合理の名の下に、
人の地獄は、静かに完成へ向かっていた。
(第74話 了)
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