【第54話 酒場の温度】
王都の酒場は、夜になると息を吹き返す。
昼間は秩序と規則に満ちた街も、
日が落ちれば、人の本音が滲み出る場所が必要になる。
古い木の扉を押し開けると、
麦酒と焼き肉の匂いが鼻を突いた。
「おう、生きてたか」
カウンターの奥から、低い声が飛んでくる。
ロウグ・ヴェンター――
王都ギルドマスターにして、この酒場を長く切り盛りしてきた男だ。
六十を越えてなお背筋は伸び、赤銅色の髪には白いものが混じる。
派手さはないが、視線の重さだけで場を制する類の人間だった。
「相変わらずだな、ロウグ」
バルドはそう返し、向かいに腰を下ろす。
「親父でいい」
「便利な立場だな」
「便利じゃねぇ。長生きしただけだ」
ロウグは鼻で笑い、杯を傾ける。
◇ ◇ ◇
最初は、どうでもいい話だった。
昔の依頼。
失敗談。
どこかで聞いた噂話。
酒が減るにつれて、言葉の角も取れていく。
「王都はどうだ」
ロウグが、何気なく聞く。
「静かだな」
バルドは即答した。
「昔より、ずっと」
「だろ」
ロウグは喉を鳴らして笑う。
「冒険者が暇を持て余す街になっちまった」
「悪いことじゃない」
「表向きはな」
杯が、静かにカウンターへ置かれる。
◇ ◇ ◇
「昔はよ」
ロウグは、天井を見上げる。
「王都ってのは、常に何かが起きてた」
「揉め事か?」
「小さいのから大きいのまで、な」
指を折る。
「依頼が溢れて、情報が飛び交って、冒険者が右往左往する」
「今は?」
「……綺麗すぎる」
その言葉には、長年この街を見てきた者だけが持つ重みがあった。
◇ ◇ ◇
「騎士団が優秀なんだろ」
バルドは、あえて軽く言う。
「そりゃそうだ」
ロウグは即答する。
「連中は仕事してる」
否定はしない。
だが、次の言葉はほんの少し遅れた。
「だがな……」
ロウグは、杯を回す。
「“仕事しすぎてる”気もする」
「……ほう」
「冒険者が、街の裏側に触れなくなった」
それは愚痴ではない。
観察の末に出た言葉だった。
◇ ◇ ◇
「俺はな」
ロウグは声を落とす。
「頭のいい人間じゃない」
「知ってる」
「勘で生きてきた」
そう言って、苦く笑う。
「王都の勘が、最近ずっと嫌な音を立ててる」
バルドは、黙って酒を飲んだ。
ロウグが理由もなく不安を口にする男ではないことを、
よく知っている。
◇ ◇ ◇
「……ただな」
ロウグは、そこで言葉を切った。
しばらく、沈黙が落ちる。
周囲の笑い声が、やけに遠い。
「いや、今夜はここまでだ」
ロウグは首を振る。
「酒の席で話す話じゃねぇ」
「本題があるんだろ」
「ある」
はっきり言った。
だが、それ以上は続けない。
◇ ◇ ◇
「今日は飲め」
ロウグは、無理に笑った。
「久しぶりだ。昔話で終わらせよう」
バルドは、それ以上踏み込まなかった。
踏み込めば、
戻れなくなると分かっていたからだ。
酒場の灯りは、暖かい。
だがその奥で、
確実に“別の温度”が動き始めている。
その頃――
同じ夜の王都で、
静かな祈りが始まろうとしていることを、
バルドはまだ知らなかった。
(第54話 了)
よろしければ、評価と気に入っていただければブックマークをお願いします。
執筆の励みになります。




