【第50話 当たり前の記録】
村を発つ準備は、静かに進んでいた。
王都へ向かう以上、これ以上の滞在は本来許されない。
ルコールも、オズマも、それは理解している。
それでも二人は、馬車を出す前に、もう一度だけ村の中を歩いた。
理由を言葉にする者はいない。
ただ――このまま通り過ぎていいとは、どこかで思えなかった。
◇ ◇ ◇
ミラは、特別なことは何もしていなかった。
家に入れば、乱れた椅子を戻す。
壁際に寄せられた棚の角度を、ほんの少しだけ直す。
卓の上に置かれた器に、そっと手を添え、軽く目を閉じる。
祈っている、という自覚はない。
ただ「落ち着くから」と言って、そうするだけだ。
誰かに頼まれたわけでもない。
注意を引こうとした様子もない。
それでも――
部屋の空気は、わずかに変わる。
村人たちは、それを不思議がらない。
止めもしなければ、問いもしない。
「ありがとうね」
その言葉だけが、自然に落ちる。
ミラは首を振った。
「いつも通りです」
それが、彼女にとっての真実だった。
◇ ◇ ◇
ルコールは、少し離れた位置から、その様子を見ていた。
所作そのものではない。
順序。
配置。
手を止める間。
それらが、妙に揃っている。
(……似てる)
記憶の底に沈めていた光景と。
軍にいた頃、遠征先で何度か目にした“型”と。
だが、口には出さない。
言葉にした瞬間、何かが決まってしまう気がした。
一方で、オズマは歩きながら、小さな帳面に筆を走らせていた。
視線はミラを追いながらも、表情は変えない。
書かれる言葉は、驚くほど簡潔だった。
――物を整える。
――祈りに近い所作。
――年齢・身分を問わず受け入れられている。
――拒絶も、疑問も生じていない。
評価はない。
結論もない。
これは報告書ではなかった。
提出する相手も想定していない。
ただの記録。
忘れないための、覚え書きだ。
◇ ◇ ◇
村を一巡し終えた頃、三人は馬車の前で足を止めた。
ミラは少し離れた場所で、村人に別れを告げている。
その背中は、どこまでも穏やかだった。
オズマは、その姿から視線を外さずに、低く言った。
「……ルコール」
一拍置き、言葉を選ぶ。
「彼女は、どういう経緯で、そこにいる?」
探る響きはない。
疑う気配もない。
ただ、事実を知りたい――
それだけの問いだった。
ルコールは、短く息を吐く。
孤児院のこと。
セナのこと。
教団に連れ去られた経緯。
そして、ミラが“拾われた”存在であること。
知っている範囲の事実だけを、淡々と話した。
感情を挟む余地は、意図的に削った。
オズマは頷きながら、それを聞く。
「……そうか」
それ以上、言葉は続かなかった。
◇ ◇ ◇
ミラが戻ってくる。
「準備、できました」
いつもと変わらない声。
変わらない距離感。
ルコールは手綱を取り、馬車に乗り込む。
オズマも、その後に続いた。
馬車が動き出す前、ほんの一瞬だけ、誰も口を開かなかった。
村は、相変わらず静かだ。
壊れたものも、露見した秘密もない。
それでも――
確かに、何かは記録された。
答えは、まだ出ていない。
判断も、下されていない。
だがオズマは、帳面を閉じながら、心の中でだけ結論を留める。
(これは、忘れていい類のものじゃない)
馬車が、ゆっくりと動き出す。
王都へ向かう道は、まだ続いている。
(第50話 了)
よろしければ、評価と気に入っていただければブックマークをお願いします。
執筆の励みになります。




