【第36話 血の消えた診療所】
――夜明け前の戦闘から、わずか数刻後。
街は何事もなかったかのように、ゆっくりと朝の気配を取り戻しつつあった。
人々は知らない。
ギルド裏の路地で、群生魔獣〈ダスクウォルフ〉が血を撒き散らし、
その統率役と思しき“何か”が、静かに息絶えたことを。
◇ ◇ ◇
「……で、オレの方はオレの方で、ってわけだ。」
バルドは、まだ完全には目覚めきっていない街の石畳を歩きながら、小さく息を吐いた。
薄く曇った空。
パン屋から流れてくる焼きたての香り。
どこかで水を汲む音。
一見、平和な朝。
だが――裏通りに一歩踏み込めば、話は別だ。
「“保護区”の裏取り。ギルド経由だけじゃ足りねぇ。……ったく、面倒な賭けだぜ。」
口ではそう悪態をつきながらも、足取りは迷いがない。
まず向かうのは――表向きには存在しない“帳簿”の場所だ。
◇ ◇ ◇
街の中央区から少し外れた一角。
看板も掲げていない、ひどく地味な建物が一つ。
一階はただの倉庫。
二階は、ただの事務所。
――ということになっている。
バルドは、扉を二度軽く叩き、三度目でリズムを変えた。
「……なんだよ、その叩き方は。朝からうるせぇ。」
扉の向こうから聞こえてきたのは、しゃがれた声。
鍵が外れる音がして、隙間から鋭い目だけが覗いた。
「おう、久しぶり。まだ生きてたか、“裏帳簿屋”。」
「死ぬほど忙しいだけだ。用件は?」
「“教団”名義の物件。最近この街で動いた“奇妙な借り物”を、片っ端から出してもらおうか。」
バルドが小声で“教団”と言うと、裏帳簿屋の男の目がわずかに細まった。
「……表で言うな。中に入れ。」
◇ ◇ ◇
二階の部屋は、紙と埃とインクの匂いで満ちていた。
棚に積み上げられた帳簿。
壁に貼られた地図。
机の上には、擦り切れた羽ペンと小さな魔導ランプ。
男は一冊の黒い冊子を取り出し、バルドの前にドンと置いた。
「民間ギルド経由で動いた“寄付”“保護”“医療支援”名目の物件一覧だ。ここ三ヶ月分。」
「仕事が速くて助かるねぇ。」
「お前が払う金も速いからな。」
軽口を交わしながらも、バルドの目は真剣だ。
ページをめくる。
教団《世界救済団体》の名を隠すために使われる、複数の偽装団体名。
慈善財団。
巡回診療団。
救済会。
その中から、“不自然な動き”だけを拾っていく。
――短期間で借りて、すぐに引き払われた建物。
――使用用途が曖昧なまま、帳簿上だけで処理されている施設。
――名義の持ち主が別の街に“同時に存在していた”不可能な履歴。
「ここ……ここ……それから、ここだな。」
バルドは三つの物件に指を走らせる。
「なんだ。色でも付けてほしいのか?」
「その三つに共通してるのは――」
バルドは鼻で笑い、指でトントンと紙を叩いた。
「全部、“医療施設”名義ってことだ。」
◇ ◇ ◇
「患者の名前がごっそり抜けてる診療所なんざ、普通は存在しねぇ。」
薄い皮肉が混じった言葉を残し、バルドは裏帳簿屋の建物を後にした。
次に向かうのは、三つの候補のうち、一番“新しい傷跡”が残っていそうな場所だ。
街の外縁部。
住宅街と倉庫街の境界に立つ、小綺麗な建物。
白い壁。
薄青い庇。
扉の横には、薄く消された看板の跡。
かつてここには、「巡回診療所」の札が掛かっていたはずだった。
「……撤収が早すぎるな。」
バルドは建物全体を一瞥する。
窓はすべて閉じられているが、板で打ち付けられてはいない。
人の気配はないが、“死んだ建物”特有の重さもない。
――つい最近まで、誰かが出入りしていた。
◇ ◇ ◇
鍵は掛かっていたが、錠前は古い。
バルドは細い工具を手に取り、手慣れた動きで外す。
扉を押し開いた瞬間――
鼻腔を刺す、独特の匂いが漂ってきた。
「……消毒液。それも、血の匂いを消すための濃度だな。」
薄い布と薬品。
拭き取られた床。
窓の隙間から差し込む光が、うっすらと残った拭きムラを照らす。
一階は受付と待合のような造りになっている。
だが、椅子は少しだけしかない。
患者を長く待たせる気がない配置だ。
奥の扉を開く。
簡素な診察室。
並ぶ棚。
空になった薬瓶。
そして――
壁際に並ぶ、簡易ベッドの跡。
「……いやな並べ方してんな、おい。」
床には、ベッドの脚が長く押しつけていた跡がくっきり残っている。
それが四つ、並んでいた。
今はベッドそのものが撤去され、白いシーツも何一つ残されていない。
残っているのは、ほんのわずかな布の繊維と、染み込んだ“重み”だけだ。
◇ ◇ ◇
バルドはしゃがみ込み、床にそっと指先を這わせた。
――冷気の名残。
魔導冷却装置を長時間動かしていた部屋特有の、変な冷え方だ。
「寝かせて、冷やして、運び出した……か。」
声は低く、乾いていた。
診療所で、普通の患者にそんな真似をする必要はない。
ここは、“保護”ではなく“選別”の場だった。
スカイハウルで保護したミラ。
彼女が着ていた童女服。
タグ【MI-07】。
――あの服にも、似た冷たさがあった。
(ここで選んで、“どこか”へ送った。
……保護区か、それともその手前か。)
バルドは立ち上がる。
部屋の隅。
机。
棚。
全体の撤収は早い。
だが、“丁寧すぎる”感覚が逆に鼻についた。
「痕跡を消すのに慣れすぎてる連中の仕事だな。……鼻につくぜ。」
◇ ◇ ◇
二階も見て回る。
記録室らしき部屋。
帳簿はほとんど持ち出されているが、棚の隅に、一冊だけ古い台帳が押し込まれていた。
表紙には、医療用語ではない、妙な略号がいくつか並んでいる。
「“搬送記録”……かよ。」
ページをめくる。
日付。
人数。
性別。
身体情報。
そして――目的地を示す欄だけが、ことごとく黒く塗り潰されていた。
「……やっぱりな。」
黒塗りのインクは新しい。
つい数日以内に塗られたものだ。
つまり――
ここが“見られて困る場所”だと、教団の誰かが認識していたということだ。
「動きが、速すぎるんだよ。オレらが一手動くと、その先で二手三手、先に消しにくる。」
バルドは舌打ちしたくなる衝動をこらえながら、ページの端を指でたどる。
黒塗りの向こう側、紙の凹凸。
そこにかつて記されていた文字の圧痕を、指先の感覚だけで追いかける。
――《北の山脈帯》《隔離区画》《保護区》。
はっきり読めるわけではない。
だが似た圧の並びを、彼はかつて別の帳簿で見たことがあった。
(……“隔離区画”。
ルコ兄の言ってた“保護区”と、同じ匂いがするな。)
◇ ◇ ◇
その時だった。
指先に、微妙な違和感。
紙の下――机の縁の内側に、硬い金属の感触。
「……あ?」
バルドは顔を上げる。
台帳の陰。
机の裏。
そこに、小さな金属片が張り付いていた。
一見しただけでは、ただの留め具にしか見えない。
だが、よく見れば――細かいルーン文字の刻まれた“魔導機構”だ。
「……仕掛けかよ。」
バルドは息を止める。
そっと指を離し、台帳を元の位置に戻した。
その瞬間――
机の内側で、微かな震えと、カチリという音がした。
魔導ランプでも、警報鐘でもない。
もっと遠くへ、もっと静かに、何かを“伝える”ための仕掛け。
「やっべ。」
短く呟き、バルドは一歩後ろへ跳んだ。
何も起きない。
光も爆発もない。
ただ、部屋の空気が、わずかに冷たくなる。
(……なるほど。
“ここに侵入者が来た”ってのを、どこかに知らせるタイプか。)
直接の危害はない。
だが、これで――この診療所を“嗅ぎ回った奴がいる”ことは、教団側に伝わったはずだ。
「上等だよ。どうせ、いつかはバレる。」
苦く笑いながらも、心の中で計算を始める。
教団がこの警報を受けて動き始めるまでの時間。
街から教団の拠点への距離。
ルコールたちが出発する準備にかかる時間。
――ギリギリの綱渡りだ。
◇ ◇ ◇
診療所を出ると、朝の光がすでに街角を白く照らし始めていた。
人々の足音が少しずつ増え、荷車の音が石畳を軋ませる。
そんな中で、バルドはひとり、煙草を指の間でもてあそんだ。
火は点けない。
代わりに、短く深呼吸をする。
「……急がなきゃ、全部“消される”な。」
そう呟き、歩き出す。
向かう先は、ギルドではない。
――ギルドの裏手に停泊したままの、あの鉄の獣。
スカイハウル。
「ルコ兄。
オレの仕事は終わったぜ。
あとはお前らの番だ。」
バルドの足取りは、険しくも迷いはない。
彼の背後で、静かに扉の鍵が風に揺れた。
その小さな音が――教団とハンターたちの、次の衝突の始まりを告げていた。
(第36話 了)
よろしければ、評価と気に入っていただければブックマークをお願いします。
執筆の励みになります。




