【第28話 揺らぐ死神】
――また、同じ色の空だった。
灰色。
煙と砂塵が混ざり合った、どこまでも濁った空。
「前線小隊、撤収開始! 非戦闘員の確保を最優先とする!」
怒号が飛び交う中、ルコールは崩れた家屋の隙間を無言で駆け抜けた。
倒れた梁を片手でどかし、その下で震える老婆を肩に担ぎ上げる。
「立てるか。」
「ひ、ひぃっ……」
「無理なら黙って掴まってろ。生きて出るぞ。」
返事を待たずに、彼はそのまま歩き出した。
背後では、まだ銃声が散発的に鳴っている。
だがそれ以上に、遠くから聞こえる爆音――
祈りの器が暴れている音の方が耳に残った。
鉄と肉のぶつかる音。
砕ける骨の音。
それがこの戦場では、すっかり“日常の一部”になっていた。
◇ ◇ ◇
避難民の収容ポイントは、いつも通り即席のテント村だった。
仮設の柵と、軍用車両が丸ごと壁代わりに連なっている。
「そこに座ってろ。水はあとで配る。」
「た、助かったのか、わしは……」
「運が良かったな。」
本心からそう言ったわけではない。
だが、口から出た言葉を取り消すほどの気力もなかった。
周囲では、他の兵士たちが黙々と救助者を運び込んでいる。
泣き叫ぶ子どもをあやす声。
負傷者のうめき声。
医療班の短く硬い指示。
――ここだけ見れば、“守っている側”だ。
ルコールは、ほんの一瞬だけ空を見上げた。
灰色の雲の切れ間から、遠くに浮かぶ巨大な機影が見えた気がする。
祈りの器を運ぶ輸送艇か、それとも別の戦線か。
「ルコール軍曹!」
背後から声が飛ぶ。
振り向くと、若い兵士が敬礼していた。
「収容者リストの確認と護衛命令です。司令部行きじゃなく、今回は“保護区画”への直送だと。」
「……保護、ね。」
口の中で言葉を転がすように呟く。
それはもう、とっくに信用ならない響きになっていた。
「護衛対象は?」
「年少者多数、女性数名。前線から一時退避させた者たちだそうです。」
「了解。荷台を準備しろ。」
――いつも通り、だ。
救い出し、“安全な場所”へ運ぶ。
書類上は、それだけの仕事。
問題は、その“安全な場所”の中身だった。
◇ ◇ ◇
王国軍の基地の一角。
戦況モニターや作戦室のある階層より、さらに下。
湿った空気と無機質な光が支配する地下フロアに、ルコールは足を踏み入れた。
途中に、赤い線が引かれた床がある。
【関係者以外立入禁止】と書かれた立て札。
本来なら、ここから先は白衣と一部の将校しか入れない区画だ。
だが、避難民を乗せた台車と医療班がまとめて通される混雑の中、
ルコールも“護衛”の名目でまとめて押し込まれた。
「ここから先は、我々が引き取る。」
赤線の先、白衣の男たちが怯えた避難民たちを迎え入れる。
名簿に名前を書かせるわけでもなく、腕に番号のバンドを巻いていく。
「落ち着いてください。ここは安全です。食事と寝床があります。」
柔らかな口調。
だが、その目の奥には感情の色が薄い。
ルコールは、自分の足元を見る。
いつの間にか、赤い線を越えていた。
「……立入禁止、ね。」
小さく独り言を漏らした瞬間、白衣の一人が振り向いた。
「軍曹殿、ここから先は機密区画だ。あとは我々が。」
やんわりとした口調だが、拒絶ははっきりしている。
ルコールは肩をすくめ、赤線の“外側”まで後ずさった。
「ああ、わかってる。」
形式的に頷いて背を向ける。
扉が音もなく閉じるのを、赤線のこちら側から見る。
――“保護”の先は、見せてもらえない。
それでも、耳だけはごまかせない。
扉越しに、微かな声が聞こえた。
「おねえちゃん、ここどこ……?」
「大丈夫、大丈夫。外よりましだよ。」
そんなやりとりを最後に、音は吸い込まれるように途切れた。
代わりに、別の場所から音が届いた。
歌声。
かすかに震えた高い声と、
それを支えるような柔らかい声。
二つの音が重なり合い、地下の空気を震わせていた。
「……また、あの歌か。」
足を止める。
耳が、勝手にそちらへ向く。
ドでもレでもない始まり方をする、不思議な旋律。
戦場よりも遠く、司令室のモニター越しに聞いた、あの子どもたちの声。
あの時は、曲がり角を曲がれなかった。
顔を見れば、引き返せなくなる気がしたからだ。
――じゃあ、今はどうだ。
気づけば、足が音の方へ向かっていた。
◇ ◇ ◇
廊下の突き当たり。
本来、ルコールの制服で通れるのは、その手前までだ。
壁際に設置された小さな端末に、
【許可証をかざしてください】の表示。
床にはまた、細い赤線が走っている。
(ここまで、のはずだ。)
そう思いながら歩いていて、ふと我に返る。
赤線を、すでに跨いでいた。
端末には、さっき押し通された医療班のカードキーの履歴が残っていたのだろう。
扉は半開きのまま、警告音も鳴らない。
「……無意識ってやつは、あんまり褒められねぇな。」
自嘲しても足は止まらない。
すでに、自分でも“立入禁止”の境界を曖昧に踏み越え始めていることに、ルコールは薄々気づいていた。
小さな覗き窓のついた扉が、いくつか並んでいる。
「収容室」とだけ書かれたプレート。
番号ではなく、記号で仕分けされた区画名。
そのひとつから、歌が漏れていた。
ルコールは、無意識のうちに覗き窓へ顔を寄せる。
視界の先に、白い部屋。
簡素なベッドが二つ。
その端に、二人の少女が座っていた。
一人は、青い髪。
額の広いその子は、膝を抱えてこちらに背を向けている。
もう一人は、肩までの柔らかな髪を揺らしながら、ゆっくりと手を叩いていた。
「そこ、もう少しゆっくりでいいよ、セラ。」
「うん……セナの声、追いかける。」
か細い声と、少し落ち着いた声。
歌は途切れながらも、何度も何度も繰り返される。
――あの時、モニターに映っていた二人か。
はっきりそうと断言はできない。
だが、胸の奥の嫌なざわめきが、その答えを示していた。
白い壁。
番号のバンド。
“保護区画”という名の檻。
全部、繋がる。
扉の横に、小さなパネルがあった。
そこには簡単な表示が並んでいる。
【Se-06】
【Se-Na】
指先が、無意識にそこへ伸びかけた。
触れれば、もっと詳しい情報が表示されるだろう。
名前、年齢、生まれた場所――もしかしたら、救い出した村の記録も。
ルコールは、寸前で手を引っ込めた。
「……また、覚えちまうところだった。」
顔も名前も知らないままでいれば、まだ“兵士”でいられる。
そんな薄っぺらい言い訳が、喉の奥に引っかかったまま、落ちてくれない。
歌声が、ふっと止んだ。
「……ねぇ、セナ。」
「なに?」
「さっきの人、誰だろうね。」
青髪の少女が、こっそり覗き窓の方を見た。
ルコールは慌てて壁際に身を寄せる。
わずかな隙間から、細い視線が外を探るように揺れた。
「兵隊さん、かな。」
「また、誰かを連れてきたのかな。」
その言葉が、じわりと胸に刺さる。
――俺は、何を守ってる。
赤線の上に立っている自分の足元が、急に重くなった。
◇ ◇ ◇
その夜。
基地の休憩所は、いつものように騒がしかった。
割れそうなほどの笑い声と、安酒の匂い。
戦場から一歩だけ離れた、泥臭い安堵の空間。
「おい聞いたか、祈りの器の新型、今度はもっと持つらしいぜ。」
「マジかよ。前のは一戦でモタなかったって話じゃねぇか。」
「素材を変えたんだとよ。どっかの研究室が“当たりの素材”をまとめて引き当てたってさ。」
テーブルの向こう側で、下士官たちが噂話をしている。
ルコールは、その隣で黙って酒を舐めていた。
「当たりの素材、ねぇ……」
呟きに、隣の兵士が肩をすくめる。
「なんだよ、軍曹。今さら綺麗事か? 俺らは結果さえ出せばいいんだろ。」
「別に、綺麗事を言う気はねぇよ。」
「じゃあ――」
「結果の中身くらいは、知っておきてぇだけだ。」
グラスを置く音が、乾いた。
別のテーブルでは、衛生兵らしき男がぼそりと言った。
「この前さ、搬入リスト見ちゃってさ。」
「搬入? 弾薬か?」
「いや……“素材”の。祈りの器用の。」
周囲が、ほんの少しだけ静かになる。
「数が合わねぇんだよ。」
「どういう意味だ。」
「前線からの“回収数”と、基地に送られてくる“素材”の数がさ。
どう考えても、戦場で死んだ兵士の数じゃ足りねぇ。」
ルコールの指が、わずかに止まった。
「じゃあ、どこから持ってきてる。」
「さぁな。」
衛生兵は、自嘲気味に笑った。
「輸送ルートの一部が、保護区画と繋がってるって噂は聞くけどな。
あそこ、赤線の向こうは全部“機密”だろ?」
保護区画。
白い部屋。
二人の歌。
赤い線。
頭の中で、ばらばらだった点が一本の線になっていく。
「……やっぱり、そういうことか。」
「何か言ったか、軍曹。」
「いや。」
短く答え、席を立つ。
グラスの中身は半分以上残っていたが、喉を通る気がしなかった。
◇ ◇ ◇
夜の廊下は、昼とは違う顔をしていた。
人の往来が減り、機械の駆動音ばかりがやけに大きく響く。
ルコールは、足の向くままに歩いていた。
自分でも、どこへ向かっているのかわからないまま。
気づけば、またあの階層にいた。
地下。
保護区画の手前。
白衣の出入りが多い一帯。
床にはあの赤線。
立て札には同じ文字。
【関係者以外立入禁止】
(ここから先は、俺の仕事じゃねぇ。……はず、だ。)
そう思った瞬間、耳が歌を拾った。
「……セナ、そこちょっと早い。」
「ごめん、もう一回。」
途切れ途切れの小さな歌声。
それが、なぜか戦場の銃声よりも重く感じる。
気づけば、赤線は背中の方にあった。
また、無意識のうちに境界を踏み越えている。
「……本当に、褒められねぇな。」
壁に背を預け、目を閉じる。
音だけを頼りに、歌の情景を想像する。
白い部屋。
二つの影。
腕のバンド。
冷たい光。
祈りの器の胸にあった、人間の心臓。
モニター越しに見た、手術台の上の“残骸”。
素材という言葉。
全部が、脳裏の同じ場所に積み上がっていく。
「……俺は、何を守ってる。」
ぽつりと漏れた言葉は、誰に向けたものでもなかった。
軍服。
階級章。
与えられた任務。
その全部が、急に薄っぺらく感じられる。
戦場で殺してきた敵兵の顔は、ほとんど覚えていない。
覚えていちゃ、仕事にならないからだ。
だが――
あの歌声だけは、やけに鮮明に耳に残る。
モニター越しの小さな影と、覗き窓の向こうで笑い合っていた二人。
名前も知らない、番号で呼ばれる子どもたち。
「……悪いな。」
また同じ言葉が口をつく。
何度謝っても届かないとわかっていても、言わずにはいられなかった。
その時、わずかな物音がした。
金属の台車が転がる音。
慌ただしく行き交う足音。
廊下の端で、白衣の一団が小声で会話していた。
「Mi系列の暴走、収まったのか。」
「薬剤で一時的に抑えたが、いつ爆発してもおかしくない。」
「なら、優先してSe系列を移送しろ。完成度の高い個体からだ。」
Se。
その単語が耳に刺さる。
白衣たちは気づいていないと思っているのか、歩きながら平然と続ける。
「特にNaは、ラドクリフ博士のお気に入りだからな。」
「昨日も言ってた。“あの子が完成すれば、世界が一歩進む”って。」
「世界が進む前に、俺たちの方が壊れそうだがな。」
乾いた笑い声が、廊下に消えた。
ルコールは、ゆっくりと目を開けた。
歌声は、まだ続いている。
ただ、その裏側で――子どもたちの扱いが“素材”として語られている現実が、はっきりと形を持ち始めていた。
赤線の向こう側に立ちながら、彼は思う。
(ここはもう、俺が守ってきた“安全な場所”なんかじゃねぇ。)
◇ ◇ ◇
その夜、彼は久しぶりに眠れなかった。
ベッドに横になっても、瞼の裏に浮かぶのは戦場ではなく、白い部屋だ。
青い髪の子ども。
隣で笑う影。
腕のバンドに刻まれた、無機質な記号。
【Se-06】
【Se-Na】
名前ではなく、番号。
そのくせ、耳に残る歌は、やたらと“人間らしい”。
(保護した。救った。そう言い聞かせてきた。)
(だが、あの子たちがこのまま祈りの器の箱に繋がれる未来しかないなら――)
(俺は、何から何を守ってる?)
軍服の襟元を掴み、乱暴に引き剥がす。
布の擦れる音が、妙にうるさい。
「……やっぱり、間違ってる。」
初めてそう言葉にした。
戦場の理屈でも、司令部の説明でもごまかし切れない感情が、言葉になった。
死神と呼ばれるようになったあの日。
祈りの器の胸を貫いた時。
あの瞳に映っていたのは“兵器”ではなく、“ただの人間”だった。
そして今――
白い部屋の中で歌う子どもたちが、その“次”になろうとしている。
「……俺は、兵士である前に、人間だろ。」
誰もいない暗い部屋で、ひとりごちる。
その言葉は、情けないほど小さな声だった。
けれど、その小ささを笑えるほど、彼は器用ではなかった。
天井を見上げる。
どこかで、金属の軋む音がした。
祈りの器の心臓。
素材搬入の台車。
歌声。
白衣の笑い声。
赤い線。
全部が、ひとつの場所に集約されていく。
――間違っているなら、正さなきゃならない。
――誰かがやるなら、手が早い方がいい。
――どうせ俺はもう、死神と呼ばれてる。
「なら、死神らしく――」
ルコールは、ゆっくりと目を閉じた。
胸の奥で、何かが決定的に“音を立てて折れた”気がしたが、同時に別の場所で何かが“組み上がった”ようにも感じた。
「次に歌が聞こえたら――今度は曲がり角を曲がる。」
自分にだけ聞こえるように、そう呟いた。
その決意は、やがて二人の少女と一人の少年、
そして世界そのものの運命を大きく変えることになる。
だが、この夜のルコールはまだ知らない。
ただひとつ――
“守るべきもの”の輪郭が、ようやくはっきりと見え始めたことだけは、
確かに感じていた。
(第28話 了)
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