【第26話 選別の歌】
――ここは、戦場の外側にある“静かな檻”だった。
真っ白な壁。
高い天井。
窓には分厚いガラスと鉄格子。外の空は見えない。
けれど、光だけは落ちていた。
どこから来るとも知れない白い光が、床とベッドを均等に照らしている。
影が薄く、奥行きのない世界。
その一角に、二つの小さな影が並んで座っていた。
「ねぇ、セナ。もういっかい、最初から。」
「うん。今度はセラが高い方だよ?」
青髪の前髪の隙間から、おでこがきらりと光る。
セラは膝を抱え、隣に座る少女を見上げた。
セナは、栗色の髪を肩で揺らしながら、いたずらっぽく笑う。
年の頃は、どちらも十歳前後。
身長も、ほとんど変わらない。
けれど、歌うときの二人の声は、不思議なほど違っていた。
セナの声は、柔らかくて、あたたかい。
セラの声は、少し細くて、震えが混じる。
でも、それが重なると――ここでは聞き慣れない“祈り”みたいな響きになった。
「……せーので、いくよ。」
「うん。」
二人は小さく息を吸い、声を合わせる。
ドでも、レでも始まらない。
どの教本にも載っていない、不思議な始まり方をする、小さな歌。
最初の一音は、いつか耳に残った誰かの声に似ていた。
――もう怖くない。大丈夫だ。
それが誰の言葉だったのか、セラにははっきり思い出せない。
焼けた村で手を伸ばしてくれた兵士の声だったのか。
それとも、いつか本当に出会う誰かに、言ってもらいたい言葉を、勝手に歌にしているだけなのか。
わからないまま、その一音は、二人の歌の“始まり”に決まっていた。
◇ ◇ ◇
「ねぇ、セナ。」
歌をいったん区切ると、セラは自分の腕を見下ろした。
薄い布のバンドが、青白い光の下でぼんやり浮かび上がる。
【Se-06】
黒いインクで刻まれたその記号は、汗で少し滲んでいた。
「わたしたちの“、このせー”って、なんなんだろうね。」
「さぁ……」
セナは、自分の腕を見せる。
そこには、似ているようで違う記号があった。
【Se-Na】
「ほら、わたしのだけ、変でしょ。」
「名前っぽい。」
「でしょ? 先生たちも時々困ってるもん。
“個体番号なのか名前なのか紛らわしい”って。」
セナが真似をして、わざとらしく大人の口調で言う。
セラは思わず笑って、肩を揺らした。
「でもさ、なんかちょっと、うれしい。」
「うれしい?」
「うん。番号のふりして、名前もちゃんと残ってるみたいでしょ。
“セナ”って、呼んでもらえるみたいで。」
その言葉に、セラは自分のバンドを見つめ直した。
「……じゃあ、わたしも、負けてないかな。」
「なんで?」
「だって、ここには“セラ”って書いてないけどさ。
【Se-06】って、ちゃんと読めば“セ・ろく”じゃなくて――」
「セ・ラ?」
「……そう。
そういうことに、しておく。」
二人は顔を見合わせて笑った。
この施設に来てどれくらい経ったのか、もう正確な日数はわからない。
最初は、「保護」と呼ばれていた。
燃えた村。砕けた家。
血の匂いと煙の中で、「大丈夫だ、もう怖くない」と言った誰かの声。
その手を握っていたのが、セナだった。
――だから、ここに連れて来られた時も、セラは最初、本気で“安全な場所”だと思っていた。
白い服を着た人たち。
白い壁。
白いベッド。
けれど、日を重ねるごとに、別のことも覚えていった。
腕に刺さる、冷たい管の感触。
頭がぐらぐらする薬のあと。
時々、廊下の向こうから聞こえる、誰かの叫び声。
そして――“順番”。
「今日は静かだね。」
セラが天井の隅を見上げる。
黒いレンズが、じっとこちらを見下ろしていた。
監視用の魔導カメラ。ここにいる子どもたちは、みんなそれを“目”と呼んでいる。
「きっと、今日は別の階の番なんだよ。」
セナは何気ないふりをした声で言う。
けれど、その指先は膝の上でぎゅっと握られていた。
「前はさ、順番だったよね。」
「うん。昨日はBの子たちで、その前はDで……」
「じゃあ、そろそろ、Seの番かな。」
二人は同時に黙り込む。
Se。
自分たちの腕に巻かれた文字。
“セラ”と“セナ”。
名前のようでいて、番号の列の一つに過ぎない記号。
最初は何も考えていなかった。
けれど、日を追うごとに、他の部屋から聞こえていたすすり泣きや叫び声が、少しずつ意味を持ち始めていた。
「……ねぇ、セナ。」
「なに?」
「もしさ。Seって、全部でどれくらいいるんだろ。」
「さぁ……」
セナは、天井を見上げた。
白い光が瞳に差し込み、その奥で小さな影が揺れる。
「あの先生たち、言ってたよね。
“Raは試作としては上出来だった”とか、“Naが完成しなきゃ意味がない”とか。」
「うん。聞こえた。」
「じゃあ、わたしたち、何かの途中なんだよね。」
セラの言葉は、子どもにしては妙に冷静だった。
セナはしばらく黙り込み、それから小さく笑った。
「……セラは、頭いいね。」
「うれしくない。」
「わたしは、難しいことわかんないけど。」
セナは自分のバンドを軽く叩いた。
「でも、これだけはわかるよ。」
「なに?」
「ここは、“選んでる”場所なんだと思う。
残す子と、捨てる子。
光と、闇。
この人たちの言い方だと、そんな感じ。」
セラは息を呑んだ。
「……わたしたちは?」
「まだ、“途中”なんじゃないかな。」
「途中って、どこに向かって?」
「さぁ。」
二人は同時にため息をついた。
でも、すぐに笑い合う。
笑っていないと、どこかが壊れてしまいそうだった。
◇ ◇ ◇
その日の検査は、予想外の形で終わった。
「Se系列、二名。検査だ。」
鉄の扉が開き、白衣の男が無表情に告げた。
セラとセナは顔を見合わせ、立ち上がる。
廊下は長くて冷たく、消毒薬の匂いが鼻を刺す。
壁には他の系列の番号が並んでいた。
【Mi-03】
【Mi-07】
【Ra-01】
【Ra-α】
セラはそれを横目に見ながら、腕のバンドを握りしめる。
検査室は、いつも通り真っ白だった。
ベッドの代わりに金属の台。天井には眩しい光がいくつも並び、どこかから機械の駆動音が聞こえてくる。
「Se-06、心肺反応安定。魔力反応、基準値内。」
淡々とした声。
腕に刺さった管から、冷たいものが流れ込んでくる感覚。
セラは歯を食いしばり、視線だけで隣を探した。
「Se-Na――適性値、基準を大きく上回る。
……これは、すばらしい。」
白衣の誰かが、感嘆混じりに呟いた。
タブレットの光が、セナの顔を白く照らす。
彼女は少し苦しそうに息をしていたが、それでもこちらを見ようとしていた。
「セラ……」
「だいじょうぶ。すぐ終わるよ。」
自分に言い聞かせるように笑う。
その横で、別の白衣が小声で報告している。
「Naは完成候補として十分な数値です。
Seラインの“最高傑作”になり得ます。」
「Raと比べて、どうだ。」
「安定性はNaが上。
光因子との共鳴値も……ほら、この通り。」
セラには意味がわからない。
ただ、彼らの視線がセナに集中していることだけは、嫌というほど伝わった。
「セラは?」
思わず、声が漏れた。
白衣の一人――ラドクリフが、ちらりとこちらを見る。
「君は平均以上。
データとしては十分、有用だ。」
「……完成には、なれない?」
「そういう役割ではない、ということだ。」
ラドクリフは、まるで天気の話でもするみたいに言った。
祈りの器。素材。完成モデル。
そんな言葉が、冷たい水みたいに耳の中を流れていく。
それでも、検査はそこで途切れた。
「……ん?」
いきなり、室内の照明が一瞬だけ揺らめいた。
機械の駆動音が止まり、警告灯が赤く点滅する。
「何だ、停電か?」
「いや、制御系のトラブルだ。いったん中断しろ。
Se系列の投薬を中止、個体を退避させろ。」
白衣たちが慌ただしく動き始める。
セナの腕から管が引き抜かれ、魔力測定器が外されていく。
「……セラ。」
セナが、小さく名前を呼んだ。
その声は、ほっとしたようで、どこか申し訳なさそうでもあった。
「検査は、また後日だ。」
ラドクリフは端末を閉じて言う。
「Naの本格処置は、設備が安定してからでいい。」
その一言に、セラの心臓が強く脈を打った。
――処置。
――本格。
自分たちが“何か”の途中であることを、あからさまに示す単語だった。
◇ ◇ ◇
部屋に戻ると、窓の向こうの空は少し赤みを帯びていた。
といっても、鉄格子と厚いガラス越しの世界で、夕焼けかどうかもはっきりしない。
「……ただいま。」
セナがぽつりと言う。
いつも通りの挨拶。それだけなのに、セラは胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。
「おかえり。」
二人はベッドに並んで腰掛けた。
検査でついた小さな針の痕が、じくじくと痛む。
「ねぇ、セラ。」
「なに。」
「もし、わたしだけどこか別の場所に行けるって言われたら――
セラ、どうする?」
唐突な問いかけだった。
セラは、しばらく言葉を探した。
本当は、答えが出ている。
でも、それをそのまま口に出したら、何かが壊れてしまいそうだった。
「うーん……」
わざと悩む振りをして、眉を寄せる。
「その時は、その人に文句を言いに行く。」
「文句?」
「“セラもセットで持ってけ”って。」
セナが、吹き出した。
「そんなの、聞いてもらえないよ。」
「じゃあ、こう言う。」
セラは胸を張った。
「“セラを置いてくなら、セナもいらないでしょ”って。」
「それ、もっとダメなやつ。」
二人は笑った。
笑いながら、セラは心の中で、別の言葉をぎゅっと握りしめる。
――置いていかないで。
――置いて、いかせたりしないから。
「……でもさ。」
笑いが静まったあと、セナがぽつりと続けた。
「本当は、外に出たいよね。」
「うん。」
即答だった。
「美味しいもの食べたり、走り回ったり、森に行ったり。
そういうの、もう一回したい。」
「したい。」
セナは、窓の外を見た。
見えない空の向こうに、“普通の世界”を想像するみたいに。
「わたしね。
もし外に出られたら――誰かを助けたい。」
「たすける?」
「うん。
わたしたちみたいに“閉じ込められてる”誰かを。
もしどこかで、一人で戦ってる人がいたらさ。」
セラの脳裏に、あの日の兵士の背中がよぎる。
炎の向こうで、誰かを守るように立っていた黒い影。
「その人の隣で、歌ってあげたい。」
「歌?」
「うん。
怖くないよって。
大丈夫だよって。
そう言える歌を歌いたい。」
その言葉は、あまりにも大きな願いに聞こえた。
けれど同時に、「セナなら言いそうだ」と、セラは思った。
「……じゃあ、その時は。」
「うん?」
「その人の隣でセナが歌うなら、
わたしは、そのまた隣で歌う。」
今度は、照れくさくなって先に目をそらしたのは、セラの方だった。
「それ、二人とも邪魔って言われないかな。」
「言われてもどかない。」
「つよい。」
二人は笑い合う。
この笑いが、永遠には続かないことを、薄々感じながら。
◇ ◇ ◇
夜。
天井の灯りが落ち、部屋には薄暗い非常灯だけが残った。
セラは、ベッドの上で膝を抱えて座っていた。
隣のベッドには、セナが横になっている。
「……ねぇ、セラ。」
「なに。」
「歌ってよ。小さい声で。」
「また?」
「また。」
頼まれるのが、まんざらでもない。
セラは、小さく咳払いをしてから息を吸った。
ドでもレでもない、曖昧な音から始まる歌。
誰かの「大丈夫だ」が、いつの間にか自分たちの祈りに変わった旋律。
セナが、隣でハミングを重ねる。
二人の声が、暗い部屋の中でゆっくり溶け合っていく。
「……セラ。」
「なに。」
「明日も、一緒だよね。」
セラは、少しだけ間を置いてから答えた。
「当たり前でしょ。
起きたら起こしてあげるから、ちゃんと寝て。」
「うん……」
セナの返事は、だんだん眠気に溶けていく。
やがて寝息が聞こえ始めた。
セラは、歌うのをやめなかった。
声を小さく、小さくして、それでも歌い続ける。
この歌が途切れた瞬間、
“明日も一緒”でいられなくなる気がして。
「……もう怖くない、か。」
自分で口にしてみて、セラは小さく笑う。
「全然、怖くないわけないじゃん。」
だけど、胸のどこかで、誰かの声が重なった気がした。
――もう怖くない。大丈夫だ。
それが誰の声なのか、まだ名前はつけられない。
けれど、いつか本当にそう言ってくれる誰かがいるような、
そんな予感だけは、どうしても消えなかった。
セラは、眠りに落ちる直前、隣のベッドの方へ手を伸ばした。
シーツ越しに、セナの手の形がわかる。
「……セナ。
どこにも、行かないでよ。」
返事はない。
けれど、かすかに握り返してくれる感触があった気がした。
それを確かめるように、セラはぎゅっと目を閉じる。
この夜はまだ、何も壊れていない。
日常は、ぎりぎりのところで保たれている。
――だからこそ、この歌は“選別の歌”になった。
誰が残され、誰が外に出るのか。
誰が光になり、誰がその光を受け継ぐのか。
その答えは、まだ誰も知らない。
ただ、白い壁の中で震える、二つの小さな声だけが。
静かに、確かに――未来へと響いていた。
(第26話 了)




