【第13話 影の研究室】
冷たい光が、床を白く洗っていた。
部屋は静かだった。
壁も床も天井も白い。だが、孤児院の白とは違う。清潔さのための白ではない。血の色も、涙の跡も、初めから存在しなかったことにするための白だった。
中央には手術台がある。
その周囲を囲むように、器具が並んでいた。鉗子、細い管、脈動を映す黒い計器、冷却用の銀色の筒。空気には薬液と金属の匂いが混じっている。
天井から吊るされた照明は、祈りの燭台にも似ていた。
だが、ここで祈る者はいない。
祈りは、観測されるものだった。
「記録開始」
乾いた声が響く。
白衣の男が、記録板へ視線を落としていた。白銀の髪を後ろへ流し、細い眼鏡の奥に冷えた光を宿している。胸には、白金の瞳を象った紋章。
ラドクリフ。
世界救済団体《The Salvation Order》開発主任。
彼は手術台に横たわる少女を見下ろし、淡々と告げた。
「適合体零七。事前同調指数、八四・二。呼吸浅いが安定。体温、平常よりわずかに低下。拒絶反応なし。精神反応、鎮静剤により抑制中」
眠る少女の睫毛が、かすかに震えた。
セナだった。
白と淡青の服はすでに脱がされ、簡素な検査衣に替えられている。手首には柔らかな拘束具。腕には細い管。首筋には小さな金属片が貼り付けられ、呼吸と鼓動を計器へ送っていた。
ただ一つ、残されたものがある。
胸元に下がる、淡い青のペンダント。
水晶には小さな亀裂が入っていた。どこかで欠けたらしく、端が不揃いになっている。それでも銀の鎖は切れていない。セナの胸の上で、雨上がりの空のような青が静かに揺れていた。
ラドクリフはそれを見た。
けれど、記録には残さなかった。
「個人所有物、ひとつ」
傍らの研究員が言う。
「除去しますか」
「不要だ」
「検査に干渉する可能性が」
「ならば、干渉も記録対象になる」
ラドクリフは指先でペンダントの亀裂をなぞりかけ、触れる直前で止めた。
「それに、こういうものは面白い。人間は、たった一つの小物で自我を保とうとする。名札、指輪、髪飾り、古い布。どれも物質としては弱い。だが、精神の支柱としては侮れない」
「では、番号登録は」
「行う」
研究員が記録板に文字を書き込む。
――適合体零七。
その無機質な名が、セナの名前の上に重ねられる。
ラドクリフは満足げに頷いた。
「名は後で戻せばいい。必要なら、いくらでも」
眠るセナの指が、ほんの少し動いた。
まるで、その言葉を拒むように。
ラドクリフの目が細くなる。
「いい反応だ」
彼は計器へ視線を移した。
黒い画面に、細かな波形が浮かんでいる。心拍。呼吸。魔力流量。治癒反応。精神抵抗値。そこに、別の線が一本、淡く揺れていた。
青い。
肉眼では見えないはずの反応を、計器だけが拾っている。
「共鳴値、上昇」
研究員が声を上げる。
「原因は」
「遠隔反応だろう」
ラドクリフは答えた。
「彼女自身の光ではない。外部の残滓に引かれている」
「残滓?」
「正確には、彼女に触れた光だ」
ラドクリフは記録紙の上に、ペン先を置いた。
「孤児院で観測された白光。森の中心で発生したものと酷似している。通常の魔力ではない。光導反応でもない。あれは、もっと原始的だ。世界が、自分の形を思い出す時に出す光に近い」
研究員たちは答えない。
誰も、その言葉の意味を完全には理解していなかった。
ラドクリフだけが、楽しそうに波形を見ている。
「その中心にいた少年。名はフォティ、だったね」
セナの指が、また動いた。
小さく。
だが、確かに。
ラドクリフはそれを見逃さなかった。
「聞こえているのか」
セナは目を覚まさない。
唇も動かない。
それでも、胸元のペンダントがかすかに揺れた。
「素晴らしい」
ラドクリフは静かに呟いた。
「意識は沈めてある。痛覚も遮断している。外部刺激への反応は最小限。それでも、名に反応する。人間の心は、本当に厄介で美しい」
その時、金属扉が開いた。
冷気が一枚、部屋の中へ流れ込む。
黒い軍装の男が入ってきた。
銀灰色の短髪。片頬に薄い古傷。赤銅色の瞳は、白い部屋の中でも妙に沈んで見える。
クロウ。
世界救済団体の作戦監督官。
彼は室内を一巡するように見た。手術台。計器。管。拘束具。ペンダント。眠るセナ。
最後に、ラドクリフへ視線を戻す。
「時間だ」
「ずいぶん早い」
「ルコールが動いた」
ラドクリフの口元が、わずかに動いた。
笑ったのではない。
興味が強まっただけだ。
「やはり来たか」
「現場で救援信号を上げた。その後、東の旧道を追った。分岐で一度足を止めている」
「足跡を読んだんだろう。彼らしい」
「その後、街へ戻った」
「諦めた?」
クロウは短く答えた。
「違う。情報を拾いに行った」
ラドクリフは楽しげに目を細める。
「バルドか」
「おそらく」
「彼も生き残っていたね。整備屋は長生きする。自分の手で直せるものが多いからだ」
「余計な感想はいらない」
クロウは手元の通信端末を操作した。
白い部屋の壁に、簡易地図が映し出される。孤児院から東へ伸びる旧道。三つの分岐。施療院。廃鉱道。川沿いの倉庫。
「陸路は予定通り囮に回す。医療馬車を東門から出した。門番にも見せている。搬送箱は二つ。片方は空。もう片方には冷却材と古い機材を詰めた」
「見せるための棺か」
「追う者がいれば、それを追う」
「ルコールは?」
「簡単には釣られない。だが、フォティは分からない」
ラドクリフは手術台のセナを見た。
「少年は、彼女を追っている」
「光を見て、か」
「おそらく」
「なら陸路の囮だけでは足りない」
「だから、空路二なのだろう?」
クロウは頷いた。
「対象零七は、この中継室から空路二へ移す。北東氷港を経由し、主施設へ送る。陸路の馬車は施療院へ向かわせる。川沿いの倉庫には積み替えの偽装を残す。廃鉱道には観測班を置く」
「ずいぶん丁寧だ」
「相手がルコールだからだ」
その名に、白い部屋の空気が少しだけ重くなる。
ラドクリフは記録板を閉じた。
「彼は魔力を読めない。光も見えない。けれど、地面を読む。匂いを読む。人間の焦りを足跡から読む。あれは、神秘を持たない者の執念だ」
「だから厄介だ」
クロウの声は低い。
「能力に頼らない人間は、能力を封じても止まらない」
「君が彼を評価するのは珍しいね」
「評価ではない。計算だ」
「同じことだよ」
クロウは答えなかった。
代わりに、手術台へ近づく。
眠るセナの横顔を見下ろす。
その顔は、戦場の兵士でも、実験体でも、教団の信徒でもなかった。ただ、孤児院で子どもたちを守っていた一人の人間だった。
クロウの表情は変わらない。
だが、ほんの一瞬だけ、目が動いた。
「この女を使って、少年を誘導するのか」
「誘導ではない。呼び合うのを観測する」
「同じことだ」
「君はすぐに作戦用語へ直す」
「お前はすぐに人間を現象へ直す」
ラドクリフは薄く笑った。
「その方が正確だからね」
「正確さで罪は消えない」
「罪という言葉は、宗教家に任せておけばいい。私たちは救済団体だ」
「便利な名だ」
クロウは手術台から離れた。
「護送班を入れる」
「まだ検査は終わっていない」
「終わらせろ」
「乱暴だな」
「ルコールが来る。フォティも来る。お前の興味で足を止めるな」
ラドクリフは肩をすくめた。
「分かった。なら、最低限だけ残す」
彼は研究員へ合図した。
器具が外される。
細い管のいくつかが抜かれ、拘束具が別の形に替えられる。手術台の下から、白い搬送台がせり上がった。冷却管と緩衝材に包まれた、棺に似た箱。
けれど、完全には閉じられていない。
透明な上蓋の中に、セナの顔だけが見える。
胸元のペンダントも、そのままだった。
「外さないのか」
クロウが問う。
「外せば、反応が途切れる可能性がある」
「少年への餌にもなる」
「言い方が悪いね」
「事実だ」
「では、こう言おう」
ラドクリフはセナの胸元のペンダントへ目を落とした。
「これは彼女の祈りだ。祈りを残したまま運ぶ方が、光はよく澄む」
「趣味が悪い」
「研究者とはそういうものだ」
搬送台が静かに動き出す。
白い箱の側面に、黒い文字が浮かぶ。
――適合体零七。
その下に、小さな手書きの紙が挟まっていた。
セナ。
誰かが持ち物整理のために残したのだろう。名前だけが、雑に書かれている。
ラドクリフはそれを見つけ、指で引き抜こうとした。
その瞬間、セナの指が動いた。
本当にわずかな動きだった。
けれど、紙の端を掴んだ。
力などほとんど入っていない。眠っている人間の反射のようなもの。だが、その指は確かに、自分の名前を離すまいとしていた。
研究員が息を呑む。
ラドクリフは動きを止めた。
クロウも、見ていた。
数秒。
白い部屋に、計器の音だけが響く。
やがて、ラドクリフは紙から手を離した。
「……残しておこう」
「名は必要ないんじゃなかったか」
クロウが言う。
ラドクリフは微笑む。
「例外は、観測を面白くする」
「お前はいつか、その例外に殺される」
「その時は、記録してくれ」
「断る」
クロウは通信機に指を当てた。
「こちら監督官。護送班、準備開始。陸路は予定通り偽装を継続。空路二を上げろ。警戒級、作戦コードは――ルーベリア」
短い応答が返る。
白い部屋の外で、機械音が鳴り始めた。
遠くで風を切る低い音。
小型飛行艇の起動音。
セナを乗せた搬送台が、扉の方へ進む。
その途中で、胸元のペンダントが一度だけ強く揺れた。
亀裂の奥から、淡い青が漏れる。
それは照明の反射ではない。
計器の波形が跳ねる。
「東帯、反応上昇」
研究員が声を上げた。
「移動中の光反応、速度低下。おそらく、対象フォティ」
「倒れたか」
クロウが問う。
「可能性はある」
ラドクリフは静かに答えた。
「だが、消えていない。まだ歩くつもりだ」
眠るセナの唇が、わずかに動いた。
音にはならない。
けれど、誰かの名を呼ぼうとしたように見えた。
フォティか。
ルコールか。
子どもたちか。
それとも、ただ帰りたいと願っただけか。
ラドクリフはその全てを、波形として見た。
「……いい子だ」
彼は囁く。
「君の光は、必ず再現される」
クロウはその言葉を聞き、扉へ向かった。
「急げ。ルコールは遅くない」
「少年は?」
「生きていれば拾う」
「殺すな」
ラドクリフの声が、初めて少しだけ低くなった。
「フォティは未知数だ。損傷させるな」
クロウは振り返らない。
「可能なら、だ」
扉が閉まる。
その音は、鐘にも似ていた。
ラドクリフは記録板へ戻り、最後の行を書き加えた。
――対象零七、空路二へ移送。
――陸路、囮として継続。
――対象フォティ、東帯にて微弱反応継続。
――ルコール、行動開始。
少し迷ってから、彼はもう一行を加えた。
――光の純度、上昇傾向。
白い部屋には、もうセナはいない。
残ったのは薬液の匂いと、計器の冷たい音だけだった。
ラドクリフは胸章の白金の瞳を指でなぞる。
「夜明け前が、一番美しい」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
外では、小型飛行艇の翼が雨雲へ向けて開いていた。
世界を救う手順は、いつも整然としている。
そこに涙の欄はない。
あるのは成功率。
必要資源。
兵の消耗見積り。
そして、光の純度。
白い記録紙の上で、セナという名はまだ消えていなかった。
(第13話 了)




