【第103話 折れない者の折れる音】
白い翼が、室内の空気を裂いた。
羽ばたきは静かだ。
だが圧は重い。
呼吸が浅くなる。
肺が押し潰されるような感覚が、じわじわと喉元まで這い上がってくる。
目の前の存在は、戦場で見たどの魔物とも違う。
――完成しすぎている。
“救い”の形をしているのに、
その形のまま人を殺せるように作られている。
◇ ◇ ◇
ルコールは動かなかった。
動けないわけではない。
動かない。
斬れる距離だ。
撃てる距離だ。
壊せる距離だ。
だが、斬った瞬間に終わる。
セナが。
そのまま。
あの声も、あの笑みも、
孤児院の木漏れ日も、
全部、ここで断ち切ってしまう。
◇ ◇ ◇
白金の光が収束する。
次の一撃は逸れない。
制御が整っていく。
兵器として完成していく。
“抗う意識”が薄くなるほど、
攻撃は正確になっていく。
その事実が、何より残酷だった。
◇ ◇ ◇
歴戦の死神。
そう呼ばれた。
死に慣れている男。
殺しに迷わない男。
勝つために生きる男。
敵の命を奪うたびに、判断が冴えていく男。
――その男が今、立ち尽くしている。
◇ ◇ ◇
白金の光が放たれる。
ルコールは避ける。
床が溶ける。
壁が飴のように崩れる。
爆発ではない。
破壊でもない。
融解。
世界が“形を保てなくなる”種類の攻撃。
避けても避けても、
空間そのものが削り取られていく。
◇ ◇ ◇
外套が焦げる。
腕に熱が走る。
皮膚が裂け、血が滲む。
その痛みは、慣れている。
痛みは武器になる。
痛みは集中を助ける。
そうやって生きてきた。
だが――
胸の奥の痛みは、慣れていなかった。
◇ ◇ ◇
「……やめろ」
声が出た。
戦場では、出なかった種類の声だ。
命令でもない。
威圧でもない。
作戦でもない。
ただの、願い。
◇ ◇ ◇
白い翼が揺れる。
セナの瞳は冷たい。
白金の光が、奥まで満ちている。
だが、その奥底で、
ほんの一瞬だけ、
揺れた。
氷の表面に走る、細い亀裂のように。
◇ ◇ ◇
ルコールは理解する。
助けられない。
今の自分では。
壊せば消える。
奪えば崩れる。
時間をかければ、完全に怪物になる。
――詰みだ。
戦術的に。
感情的に。
生き方として。
全部が。
◇ ◇ ◇
光が迫る。
避けるべきだ。
避けられる。
だが身体が動かないのではない。
動かさない。
ほんの一瞬。
(……もう、いいか)
思ってしまう。
このまま撃ち抜かれてもいい。
セナの手で終わるなら。
それも――悪くない。
◇ ◇ ◇
心が疲れていた。
何年も狩り続けた。
何年も殺し続けた。
救えなかった者の数は数えない。
数えたら、立てなくなるからだ。
だが今は数えてしまう。
セラ。
セナ。
守れなかった光。
拾えなかった命。
自分の手から零れたもの。
◇ ◇ ◇
白金の光が、目の前で弾けた。
衝撃。
身体が宙に浮き、
壁に叩きつけられる。
骨が軋む。
血の味が口に広がる。
視界が滲む。
白い天井が遠い。
◇ ◇ ◇
セナが浮いている。
神話のように美しい。
だからこそ、残酷だ。
人間の形を残したまま、
人間を殺せるように作られている。
“帰りたい”と願った結果が、
この姿なら――
救いは、どこにある。
◇ ◇ ◇
ルコールの内側で、
何かが沈んでいく。
怒りもない。
焦りもない。
殺意もない。
ただ、疲労。
長い戦いの終わりみたいな疲労。
そして――
虚無。
◇ ◇ ◇
(終わりでいい)
ほんの一瞬。
考えた。
誰にも言わない。
自分にも言わない。
ただ、そう思った。
セナの手で終わるなら、
自分が背負ってきたものも、
ここで片付くかもしれない。
救えないまま終わるなら、
せめて終わり方くらいは選べる。
そんな逃げが、
胸の奥に浮かぶ。
◇ ◇ ◇
そのとき。
音が消えた。
◇ ◇ ◇
室内の照明が、わずかに揺らぐ。
セナの翼が、一瞬だけ止まる。
白金の光が乱れる。
そして――
懐かしい気配が、頭の奥へ落ちてきた。
(……だめだよ)
柔らかい声。
幼い声。
(兵隊さん)
◇ ◇ ◇
ルコールの瞳が、わずかに開く。
ありえない。
ここにはいないはずだ。
消えたはずだ。
あの光は。
◇ ◇ ◇
セラ。
青い髪の少女。
冷却槽の中で眠り続けた原初個体。
始まりの光。
導く光。
◇ ◇ ◇
(終わらないで)
声は優しい。
責めない。
怒らない。
泣かない。
ただ、静かに言う。
(まだ、ここにいるよ)
◇ ◇ ◇
セナの白金が、わずかに揺れる。
翼が震える。
瞳の奥に、
青い残光が走った。
ほんの一瞬。
だが、それは決定的だった。
◇ ◇ ◇
『……干渉?』
クロウの声が、初めて揺れる。
観測不能の波形。
外部因子ではない。
内部共鳴。
艦の内側から起きている。
◇ ◇ ◇
ルコールは理屈を追わない。
今は理屈ではない。
ただ、分かる。
“止まった”。
セナが一瞬、止まった。
完全支配が崩れた。
隙が生まれた。
◇ ◇ ◇
ルコールは立ち上がらない。
斬らない。
撃たない。
選んだのは――撤退だった。
◇ ◇ ◇
死神が背を向ける。
戦場で一度も選ばなかった選択。
逃げる。
逃げて、生きる。
生きて、取り返す。
それができるなら――
今は逃げるしかない。
◇ ◇ ◇
外套を翻し、
崩れた壁の穴へ走る。
白金の光が追う。
だが、一拍遅れる。
セラの干渉。
その“一拍”が命を繋ぐ。
◇ ◇ ◇
最後に振り返る。
白い翼の少女。
神話の姿。
だが――
瞳の奥に。
ほんの一滴の涙が、光った。
泣けないはずの瞳が。
泣きたくないはずの心が。
それでも、泣いている。
◇ ◇ ◇
「……待ってろ」
低い声。
届かなくていい。
これは自分のための言葉だ。
「必ず――迎えに行く」
◇ ◇ ◇
死神は退く。
折れたわけではない。
だが戦えなかった。
傷つき、
耐え、
逃げた。
その事実だけが、重い。
◇ ◇ ◇
白い室内に翼の影が落ちる。
『面白い』
クロウが、いつもの平坦さを取り戻して言う。
『まだ終わらないか』
それは期待でもない。
失望でもない。
ただ、観測者の言葉だった。
◇ ◇ ◇
ルコールは走る。
血を流しながら。
心を削りながら。
初めて、自分の無力を噛み締めながら。
◇ ◇ ◇
救いはあった。
セラの干渉という救い。
だがそれは――
セナを救ったわけではない。
ただ時間を延ばしただけ。
救いの形をしたものが、
救いになっていない。
それが、この空母の本質だった。
◇ ◇ ◇
白い翼は檻の中で揺れている。
救いの形をして。
救われないまま。
(第103話 了)
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