四○四号室の間違った夢の中に彼女は存在しない
1
『四○四号室では、間違った夢を見るんだって』
高校二年、十月の修学旅行。
沖縄本島中部中頭郡、読谷村の浜辺の側に建つホテルが私たちの滞在先だった。
バスに揺られながら、片側一車線道路の脇に連なるサトウキビ畑を眺めていた私は、ふとどこからか耳に入った噂話が気になった。
間違った夢……間違った夢って何だ。悪夢ではないのだろうか。そもそも、不吉だからという理由で日本の宿には四の付く部屋が存在しないのではなかったか。
「ねぇ、アリサぁ。海見えてきたよぉ」
ぼーっと考え事をしていると、隣に座るクラスメイトの佳乃が、私の肩を突いて、無邪気な笑みを浮かべた。
「海きれーだねぇ」
「だね」
「えー反応うす~い」
「いや、ほんとに綺麗だと思ってるよ」
私は、美しいものが好きだ。
だけど、美しいものを語るとき、私は往々にして言葉を失くしがちだ。
美しいものが目の前にあると、私の頭は空っぽになる。
だから、友人と旅行に行くときは、いつも少しだけ罪悪感を感じている。
「実里ぃ~ホテル着いたら写真撮ろぉ」
佳乃が私の真後ろの席に座る実里に声をかける。
彼女は人差し指と親指で輪を作って頭の上に掲げながら、一言「オッケー」と返事をした。
「修学旅行始まってきたって感じするねぇ」
「そうだね、楽しみ」
青い空、白い雲、煌めくビーチにエメラルドグリーンの海。
私たちは当然浮かれていた。
佳乃に限らず、このバスに乗っている誰もが、眼前に広がる自然の美しさに感嘆して、あちこち指をさしている。
私も例に漏れず、これからこの非日常的空間で友達と過ごす二泊三日を想像して、胸が高鳴っていた。
——ただ、私はこの空間で一点だけ、他の何とも交わらず、結界を張っているかのように静謐な空気が存在していることに気がついていた。
それはバスの前方に鎮座していて、きっと静宮が纏っているものなのだと、私はなんとなくそう感じたのだった。
ホテルに到着してバスを降りると、私、佳乃、実里は早速集団を抜け出して、海をバックにセルフィーを撮った。
旅のしおりには注意事項で「私服可、ただし華美な服装でないこと」と書かれていたけど、私はハイウエストのショートパンツ、佳乃はデコルテラインを大胆に露出したオフショルのワンピース、実里に至っては水着に薄手のジャケットを合わせた挑戦的な装いで、かなり肌面積が広くなっていた。
当然同行していた生徒指導の先生には注意されたけど、普段から制服を派手に着崩している私たちが、着替えさせられるまで徹底的に追求を受けることはなかった。
諦められているというのは楽だけど、それはそれで少し寂しいものがあるかもしれないと感じているのは私だけだろうか。
「おい、あんたら、点呼済んでねえんだからさっさと戻ってこい!」
バスの足元で担任の気難しそうな女性教師が私たちを呼んでいる。
クラスメイトたちは呆れた顔で私たちを見ていた。
……でも、静宮だけはこちらを見てはいなかった。
彼女は私たちとは対照的に、オーバーサイズの白いTシャツにデニムのハーフパンツといったシンプルな装いだ。
黒のベースボールキャップを被っていて、顔に影を落としている。
その佇まいは純朴な少年のように見えるけど、肩まで伸びたストレートの黒髪と、肉付きの少ない細い手足が少女らしくもある。
その美しさを、私はやはり形容することができなかった。
いつも通り、静宮はみんなとはどこか違うところを見つめている。
私はこれまで学校で何度も彼女のことを目で追っていたけど、彼女の顔を正面で捉えたことは一度だってなかった。
彼女を初めて知ったのは、今年高校二年で同じクラスになってからだ。とはいえ、もう半年も経っているのに、私は静宮の顔を頭の中で正確に思い描くことができない。
2
時刻は十三時半、先生がホテルのロビーで受付を済ませると、私たちはその場で部屋番号を伝えられ、各々次の集合時間まで三十分ほど部屋で休憩を取ることになった。
私の部屋は四○四号室。そして、静宮と相部屋だ。
部屋の扉の前に立ち、部屋番号の書かれたプレートを見据えると、私はあの噂を思い出した。
「四○四号室では間違った夢を見るんだってさ。知ってる?」
私は顔を見ないまま、静宮に問いかけた。
「……知らない」
「そっか」
彼女は「間違った夢」の意味を問い返すでもなく、独り言のように呟くと、それから口を開くことはなかった。
もとより彼女と会話らしい会話ができると思っていなかった私は、佳乃のようにノリの悪さをからかったりはせず、淡々と部屋に入り、事前に届けられていたキャリーケースの中身を整理し始めた。
部屋には真っ白なベッドが二つ並んでいて、窓際には一本脚で丸型のカフェテーブルと、一人がけのソファが置いてある。
ベッドで寝転がるときに足を向ける方向にはキャビネットとテレビがある。
四○四号室とはいえ、何もおかしな点はなく、典型的なホテルの一室だった。
静宮は早々に荷物の整理を終えると、軽く窓を開け、キャップを脱いで胸に抱えながら、一人がけのソファに座って外に広がる海を眺めていた。
その姿を見遣って、私は一瞬息を呑んだ。
柔らかな風を受けて靡く後ろ髪が波を作り、時折見える首筋が白く輝いていた。
ただ、ソファに座っているだけなのに、どうしてこんなにも美しいのだろう。
……彼女はいつも一人だ。
でも、独りじゃない。
孤高というよりは、自由なのだ。
五月に開催された体育祭でもそうだった。
クラスリレーで静宮にバトンが渡った途端に、彼女は疾風のようにトラックを駆け抜けていった。
そこに気高さとか寂しさとか、そういうものはなくて、ただ純粋な生命としてのエネルギーだけが流れていた。
思い返してみれば、私が最初に彼女のことを美しいと思った瞬間だった。
佳乃も実里も、ファッションセンスは抜群だし、顔もいい。「美しい」という言葉が当てはまりそうだ。しかし、静宮と比べてみると、全く別種の美しさのように思えてならない。
一体、彼女たちを隔てているものは何なのだろうか。
私はただひたすらに、凝視した。
後頭部、背中、腕、脚、一つずつ。
そして、何となく気がついたことがあった。
そっか。
私、静宮のこと何も知らないんだな。
至極当然のことなのに、なぜだか私は、胸の内を締めつけられるような冷たい感じがした。
「美しい」って、多分、「知らないこと」なんだ。
その日の午後は、再びバスに乗り、十分程度のところにある座喜味城跡で歴史を学んだり(学んだふりをしていただけだけど)、体験型施設で伝統工芸品である琉球ガラスを作ったりした。
そこで見たどれもが知らないことで、一様に美しいと感じた私は、やはり静宮のことを思わずにはいられなかった。
そして、夜が来た。
夕飯と入浴を終えてから、佳乃と実里とホテルを抜け出して砂浜を散歩してきた私が部屋に戻ると、静宮が薄暗い明かりの中でテレビを見ていた。
番組は芸人主体のトークバラエティ。
率直に言って意外だった。
浮世離れしているような印象のある静宮でも、こんな俗世的なエンタメに関心を持つことがあるものなのか。
ベッドの端に腰掛けて、立てた片膝に顔を預ける彼女の表情は見えない。
神が下界を観察しているようにも見えるし、ぼんやりとテレビを見る年頃の少女のようにも見える。
私は無意識に前者であってほしいと願いながらも、そうだったら嫌だとも思っていた。
音の荒いスピーカーから、下品な笑い声がする。
「それ面白い?」
私はベッドに寝転ぶと同時に、静宮に問いかけた。
「……面白いよ」
「……そっか」
そのときの彼女が笑っていたのか、退屈そうな顔をしていたのか、私には分からない。
ただ、テレビの青白い光を浴びる彼女も、陽の光に照らされる彼女も、風を受ける彼女も、押し並べて美しいのだということだけが、私に分かる全てだった。
3
——その夜、私は「間違った夢」を見た。
夢の中で、私は静宮と友達だった。
朝教室に来たら一番におはようを言って、予鈴がなるまで一緒にいた。
休みの日には映画を観に行ったり、カフェでお茶したり、公園を散歩したりした。
たまに彼女が私の家に来て、勉強を教え合うこともあったし、時折サボって漫画を読んだりゲームをしたりすることもあった。
それはどう考えても間違ったことで、許されざることだった。
それなのに、夢の中の私は端的に言って満たされていた。
安心感を感じていた。
彼女の隣にいたい。彼女と触れ合いたい。彼女と見つめ合いたい。
全部、全部が間違っていた。
だって、夢の中で私は、彼女の顔が見えなかったから。
——目を覚ますと、最初に私の視線が捉えたのは、一人がけのソファに座って海を眺める静宮だった。
その様相は昨日の昼間と同じようで少し違う。
早起きしてシャワーを浴びていたのか、髪が少し濡れていて、肩には白いタオルがかかっていた。
薄いTシャツから透けて見える背骨のラインが艶やかだった。
……ああ、やっぱり、美しい。
私は寝転びながら、胸の前で拳をぎゅっと握りしめた。
息苦しくて、痛くて、冷たくて、どうしようもなく焦がれている。
振り向いて、「おはよう」と言ってほしい。
その薄い唇で私に微笑んでほしい。
私のものになってほしい。
ずっと、私のことなんて見ないでほしい。
笑わないでいてほしい。
自由でいてほしい。
どちらも間違っていて、間違っていない。
どちらも存在していて、存在していない。
だから、静宮は自由で、不可侵で、輝いていて、つまるところ、美しいのだ。
枕元に置いていたスマホの画面を見ると、ちょうど佳乃から電話がかかってきたところだった。
「……なに」
「朝ごはん行こーよぉ」
「今何時?」
「もー八時だよぉ」
「実里は?」
「起きてると思う〜?」
「いや、ないな」
「突撃だねぇ」
「だな」
私は電話を切って、軽く身支度を済ませると、ドアノブに手をかけながら、静宮の背中を見遣り、数秒の間逡巡した。
そして結局、美しいものが混ざらないように、壊れないように、抗いようもなく震える手で、部屋の扉を静かに閉めるのだった。
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