41話 最初から……
「ヴァイオレット様に頼まれたのです!」
執事は額から汗を流しながら、彼女の名前をはっきり口にした。
「親しい友人と一緒に観劇するから、しばらく席を外してほしいと! だから、私は芝居小屋まで来ましたが、付き従っていたわけではなかったのです! ですが、私は犯人ではありません!」
彼は相当必死なのだろう。滝のような汗が顔を流れ、語る口は次第に震え、目には涙すら浮かべていた。
「併設のカフェで一息ついておりました! ですが、ヴァイオレット様の悲鳴を聞いて駆けつけたのです! そのときには、すでにドナルド坊ちゃま様の姿はなく、ヴァイオレット様が動揺されておりまして……」
「脅迫状は?」
「そのあとです!」
聞き取れにくいほどの涙声になりながらも、執事はしっかり答えてくれた。
「見知らぬ男が『トイレで出会った人から、この手紙を彼女に渡してほしいと頼まれた』とだけ言って、脅迫状を押しつけて消えていきました」
「……まあ、そのようなところだとは思っていましたわ」
シャーロットは小さくため息をついた。
もともと、ドナルドが芝居小屋で誘拐された時点で、おかしいと思っていたのだ。ヴァイオレットはともかく、ダグラス伯は使用人にしっかりとした教育をしている。男児を連れて行くともなれば、彼が観劇に飽きてしまったことも考え、誰かしら必ずお目付け役を同行させるはずであり、そう簡単にドナルドから目が離れるような状況を作ることが難しい。
そう考えたとき、まっさきに考えたのは、ヴァイオレットが使用人を遠ざけたということだった。
「男と逢引きするならば、使用人は邪魔ですからね。ですが、なぜ隠したのです?」
シャーロットは執事に冷たい眼差しを向ける。
最初から「ヴァイオレットの命令で傍を離れ、ドナルドの様子は見ていませんでした」と答えればよかったのだ。そのような嘘は事実を薄いベールで覆い隠し、捜査や推理の妨げになる。ベールの奥の真実を推察することはできるが、ベールを剥ぎ取る手間がかかるのはいただけない。
「最初から薄々気づいていましたわ。ですが、そのまま直球に尋ねてしまうと、貴方のような人は暴論だと抵抗するでしょう?」
「そ、それは……」
「どうです? 当たっていますか?」
執事だけではない。
ヴァイオレットも躍起になって否定するに違いない。事実、シャーロットが彼女の耳元で
『貴方、ドナルド君そっちのけで浮気していたのでしょう?』
と囁いた際、彼女は信じられないといった顔をしていた。「どうして、そのことを?」という言葉まで漏らしており、ほぼ黒だと確定していたが、こちらを目の敵にしていることから、すぐに「そのようなことはなかった」「どうして、そんな戯言を言うのだってことよ! これは揚げ足取りだわ!」と反論するに違いない。ましては、同行させていた執事にことの有無を尋ね、執事が「ヴァイオレット様が正しい」と偽証してしまえば、ダグラス伯もそちらを信じてしまう可能性が捨てきれなかった。
ダグラス邸で絡み合った嘘の糸をほどく手間を考えれば、わざわざ芝居小屋まで足を運び、ヴァイオレットと会話を楽しんだ夫人の前で嘘を暴く方が遥かに楽だ。のちのち、ヴァイオレットが「嘘だ!」と主張しても、ネザーランド夫人と侍女という公正な第三者の証人がいた方がよい。
「見栄を張って嘘をつくから」
そうでしょう、と同意を求めるように、シャーロットはロイを一瞥する。
ロイは真剣な顔で頷いた。
「まったくだ……人命がかかっているというのに、ついて良い嘘と悪い嘘すら見極められないとは」
「本当ですわ。このようなときこそ、ちゃんとした事実を口にしてもらわなければ困ります」
だから、この男には軽蔑する。
この男だけでない。ヴァイオレットにも。
「さて、では屋敷に一度戻りましょう。ですが、その前に――」
シャーロットはネザーランド夫人に向き直った。
夫人がなにが起きているのか分からず、戸惑ったような顔をしていたので、シャーロットはできる限りの頬笑みを浮かべてみせた。
「ネザーランド夫人、お時間がよろしければ、もう少しお付き合いいただいてもよろしいでしょうか?」
「構わないけど……私が役に立つのかしら? 私が思うに、シャーロットさんはすでに犯人の目星はついているように思えるのだけど?」
「いえ、確証はありませんの」
そう言ってみせるも、ネザーランド夫人は疑いの眼差しを崩さない。だが、やがて小さく息を吐くと、何かに吹っ切れたような笑顔を向けて来てくれた。
「では、謙遜なさる探偵さんのお手伝いをさせていただきますわ! ですが、どのくらいの時間がかかるのでしょう?」
「私の見立てが正しければ、今夜中に終わると思います」
シャーロットは脅迫文の内容を思い返しながら口にした。
「亡霊が彷徨うのは夜、と相場決まっておりますし」
より確実に捕らえるには、やはり人の目が多い昼間よりも夜の方がよい。
逃げ道を潰し、確保するためにも―――。
※
そして、夜を迎える。
夕方頃、ダグラス邸には差出人不明の手紙が届き、「ヴァイオレットが一人で金貨を持って指定された時刻に場所まで来るように」と書かれていた。
「ここで、あっているのかしら?」
ヴァイオレットは金貨の袋を握りしめ、きょろきょろと不安げに辺りを見渡す。
指定されたのは、街外れの神殿前。
街の中心に新しい神殿が建てられてからは廃されたせいか、手入れも行き届いておらず、外壁という外壁に蔦がこびりつき、怪しげな雰囲気を醸し出している。明かりは当然ながら灯っておらず、ヴァイオレットがもう片方の手で持つランタンの光だけが闇を照らし、か細い影を地面に落としていた。
「……早く、早く来て欲しいわ」
ヴァイオレットが震えながら呟きながら、ちらちらっと周囲の茂みに目を向けている。
その茂みには、シャーロットとロイが姿を隠していた。
「お嬢さん、本当に来るのか? 身代金を取りに」
ロイが小声ながらも胡散臭そうに聞いてくるので、シャーロットは「間違いなく」と返した。
「金貨のこと、覚えていますか? これは金銭目当ての誘拐ではないと」
「あー、そういや、そういう話をしたな」
最初に脅迫状を見たときの違和感から、今回の誘拐は金銭目当てではないと判断した。それでいて、凝って作られた脅迫状からは衝動的な犯行ではないことが明白である。
では、なぜドナルドを誘拐したのか?
「その理由が、これから明らかになると思いますよ」
「で、亡霊ってのは? そろそろ、もったいぶってないで教えてくれてもいいだろう? まさか、本当の死人ってわけでもないんだろうしさ。それに――」
ロイはそこまで口にして、ぴたっと言葉を止める。それまで陽気に揺れていた尻尾までもが、息を潜めたように動かなくなった。
それもそのはず。
人気のない道に、どこからともなく馬の蹄と車輪の音が風に乗って聞こえてきたのだ。黒い帽子に黒い服、顔も黒いスカーフで半分ほど隠した御者に、所有者を示す紋はなく黒塗りの馬車。馬も樫の木を思わすような青毛で、馬も馬車も御者も夜の闇に溶けてしまいそうだと思える。
「あ、あの……」
ヴァイオレットも異様さに気づいたのか、さらに身を縮めるのが遠目からでも分かった。
青毛の馬は徐々に歩調を緩め、ヴァイオレットの前で足を止めた。御者も馬を止まらせながら、地面に降りる準備をし始めるのも視認する。
「ロイさん」
シャーロットは彼の耳元に早口で囁きかけた。
「あの御者こそ、亡霊です」
「……で、俺がすることは?」
「亡霊の確保」
シャーロットは短く告げる。
金銭目的ではないにもかかわらず、金銭を要求してみせたのは、すべてはこのためだ。
「あいつの目的は、最初からヴァイオレットの誘拐です!」
次回は来週の金曜の夜に投稿予定です。




