34話 本、譲ります
今回から四章です。
残り寿命は約9か月……。
自分がこの世を去ったとき、コレクションはどうなってしまうのだろう。
子孫が我が子同然に扱ってくれるなら良いが、乱雑に倉庫へ押し込まれ、埃塗れになったり、価値も見抜けぬ骨董店に二束三文で売り飛ばされたりする未来だってありえる。
ダグラス伯爵の場合、どう考えても後者の末路を辿る未来しか見えなかった。
伯爵には立派な息子や娘がおり、目に入れても痛くない孫も大勢いたのだが、趣味はまったく相いれなかった。息子や孫たちはきらびやかな衣装やアンティーク、お洒落な舞台には興味があるものの、ダグラスが集めた書籍コレクションにまったく関心がない。領地の屋敷の一室はガラス張りの本棚で埋め尽くされ、古書の落ち着く香りに満ちているというのに、自分以外の誰も訪れるものはいない。
「わしが死んだら、雑に扱われるのだろう」
胸のなかに大きな穴がぽっかり開くような物言えぬ寂しさを覚え、ダグラス伯爵は自分が生きている間に大事な本を譲渡すことに決めた。
《貴重な本を譲ります》
伯爵は招待状を送ることに決めた。
自分が亡きあとも、大切な書籍たちを愛おしく扱ってくれる者たちのもとへ。
とはいえ、この国に本を好む人間など稀であった。
特に、伯爵の住まうブロードウッドでは、誰も本なんかに興味がない。街中至る所に乱立した芝居小屋の出し物に目を光らせるか、店の壁に貼られた俳優や女優のポスターを見つけて黄色い悲鳴を上げる者ばかりだ。伯爵の暮らす屋敷に本を目当てとした訪問者が現れることなどなく、たまに孫たちが遊びに来るなんともつまらなく静かな日々を送っていた。
「旦那様、本を譲り受けたいと申される方が訪れております」
だから、執事の口からそのような言葉を聴いたときは、にわかに信じられなかった。
「客人は、いまどちらに?」
「書庫へお通し致しました」
「名前は?」
「エイプリル侯爵家の令嬢だと」
「エイプリルの本狂いか!!」
その名前を聞いた瞬間、ダグラスは頭が痛くなった。
「馬鹿者っ、そやつに招待状など送ってないはずだ!」
執事に怒鳴りつけると、足音を立てながら書庫へと急いだ。どこで話を知ったのか定かではないが、エイプリルの娘に本を譲渡すのだけは死んでも御免だった。息も荒く赤い絨毯を踏み鳴らしながら書庫の前まで来たが、扉を開けたときに漂ってくる涼しい空気と古い用紙の心地よい香りに荒んだ気持ちがわずかに洗われる。
「失礼」
見渡す限り本で埋め尽くされた部屋に、若く美しい淑女がたたずんでいた。
まだ年若い女性にもかかわらず左手で杖を突きながら、指をうまく使って器用に本を読んでいる。ダグラスが書庫に入って来たというのに、青く輝く瞳は本に落ちていた。本を読む立ち姿は完成されており、まるでそれは絵画の一場面のようだ。ダグラスは思わず見惚れてしまったが、すぐに自分が来た意味を思い出し、ぶんぶんっと首を振った。
「あー、シャーロット・エイプリル嬢とお見受けいたすが」
咳ばらいをし、やや演劇っぽくもったいづけて声をかけて、ようやく彼女の白い顔がこちらに向けられる。
「これは、ダグラス伯爵。お久しぶりでございます」
シャーロットは本を棚に戻し、ゆっくりと一礼をした。
「ここの所蔵は素晴らしいですわね。特に、こちらの『妖精の仕立て屋』は初版本でしょう? 登場人物の名前が一部違いますし、現在市場に出回っている書籍より風刺が効いていますわ」
「さすがは、シャーロット・エイプリル嬢のお目は高い。ですが、エイプリル嬢……貴方には招待状を出していないはずですが……?」
「ええ、私はいただいておりませんわ」
シャーロットはそう言うと、右手で自身のポーチを探り始める。
「ですが、友人のアンナの代理でこちらに」
彼女の白い指には、確かに招待状が挟まっていた。
「ああ、王城の司書をなさっている……あのお嬢さんの代理でしたか」
まさか、アンナがエイプリルの娘と繋がっていたとは思わず、ダグラスは内心舌打ちをする。
「申し訳ありませんが、エイプリルのお嬢さん……今回、代理は認めていないのです」
「あら、どうして?」
「本の出会いは一期一会。時に人から送られた一冊が心の寄る辺になることもありますが、今回は自分が迎える本を自分の目で見極めていただきたいのです。ここに揃った本たち、一冊一冊が最愛なのです。生半可な気持ちで譲り渡したくはありません」
ダグラスが帰れと遠回しに伝えれば、シャーロットはふむっと小首を傾げてみせた。そして、やや考えたあと、おっとりとした口調で彼女はこう言ったのだった。
「それは、私の余命が少ないことが起因しています?」
「ッ!? そ、そ、そういうわけでは……」
ダグラスは苦笑いで返すも、本心を突かれて心臓が跳ね上がった。
本来ならば、シャーロット・エイプリルのもとにも招待状を送っていただろう。だが、彼女には悪い噂がついて回っていた。そのなかには、王太子を怒らせ、婚約破棄された際に魔法で死の呪いをかけられたというものもある。魔法なんて、それこそ物語のなかの出来事だろうと信じていなかったわけだが、どうやら本当らしいという説が実しやかに囁かれていた。
仮に、その噂が本当だとすると、せっかく譲り渡した本たちが、すぐに他人の手に渡ることになってしまう。下手すれば、自分が買い戻すことになりかねない。その可能性を考えると、彼女にはどうしても招待状を送れなかったのだ。
「こほんっ! エイプリルのお嬢さん、私がそのような噂を信じると思いますか? 今時、死の呪いなど……」
「いえ、本当ですわ」
彼女はにっこり微笑んで返すと、招待状を握りしめたまま胸に手を当てた。
「残りの寿命は約9か月。見せられませんが、呪いの花弁が私の身には刻まれていますのよ」
「そのようなことが……」
「ご安心を、私の所有する本たちは両親と兄が責任を持って管理することが決まっております。エイプリル家の誇りにかけて、本たちが悲惨な末路を迎えることはないことを約束いたします」
シャーロットはゆっくりと言葉を選ぶように話した。
ダグラスはそれを聞き、何も言い返せなくなってしまった。
エイプリル家の者たちの人柄ならば、本を粗末に扱うことはないだろうということが想像できてしまったのだ。
「……分かりました。ですが、まずはこちらへ。エイプリル領からこちらまで、長旅だったでしょう? ひとまず、お茶でも?」
「ありがとうございます……ロイさん、行きますよ」
シャーロットは振り返り、後ろの方に声をかける。
すると、向こうの本棚からひょいっと背の高い青年が姿を見せた。否、ただの青年ではない。狼の耳とふさふさの尻尾が揺れている。
「獣人の方ですか?」
「国王陛下の命令で、私の護衛につけていただきましたの」
そう言いながら彼を見る目は、どこか優しい。彼女が王都にいた頃「氷のようだ」と称された冷たく詮索する青い瞳と同じものとは思えず、ダグラスの好奇心がくすぐられる。だが、それ以上に気になったのは彼女の足取りだった。自分が知る彼女は、てきぱきと無駄のない淑女の歩調だった。しかし、杖を突きながらゆっくり進む姿は、なんとなく乖離している。
「エイプリルのお嬢さん、足を怪我されているのですか?」
「いえ。怪我はしていませんの」
ですが……、と続けようとしたところで、それに被せるように執事が叫んだ。
「旦那様、一大事でございます!!」
「なんだ、どうした?」
執事の慌てぶりに目をしかめる。
「お孫様のドナルド様が、誘拐されたということです!!」
「な……っ!?」
静寂な書庫に似合わぬ悲鳴が轟く。
客人の存在や本のことも一切の思考が吹っ飛び、ダグラスはその場に立ち尽くすことしかできない。
「……犯人からの脅迫文は届いていません?」
そのなかで、唯一――どこまでも冷静に落ち着いた声色が響いた。
シャーロット・エイプリルは青い眼を鋭く光らせながら、ダグラスたちを静かに見つめていた。




