31話 家庭教師の昔話
ローレル・ゼーゼマンは随分長いこと眠ったままだった。
たまに意識が浮上することもあったが、目を開けることすら億劫で、寝返りすら打つのもままならない日々を送っている。
かつて「貴族の子弟子女の家庭教師を任すのであれば、この人以外いない」と謳われた気迫はなく、ただか細いながらも荒く、苦しい息を繰り返すことしかできない。
「……先生、ゼーゼマン先生」
そのなかで、随分と懐かしい声を耳にする。
ローレルは張りついてしまったように重く閉ざされた瞼を開けると、シャーロットの青い瞳が目に入った。
「……あら……」
ローレルの口から出たのは、とても自分が発した言葉とは思えないほど酷くかすれた声だった。
「無理に話さなくて構いませんわ。お水を飲みます?」
シャーロットの気遣うような口調に、ローレルは力なく頷いた。目を開けるのも辛いのですぐに閉じてしまうが、すぐ近くからこぽこぽと水を注ぐ音がする。
「どうぞ」
優しげな声と共に、半身が起こされるのが分かった。細腕ながらも力強く支えてくれる感覚に、強張っていた表情が緩むのを覚える。
「……あり、がとう……」
ローレルはコップを受け取ると、一口ずつ味わうように水を飲んだ。
一口、また一口と喉を潤していくに従い、ひとつ、またひとつとシャーロットとの記憶が脳裏に浮上してくる。
星の数ほどいる教え子たちのなかで、シャーロット・エイプリルは飛び抜けて奇妙だった。
『将来、貴方様は王妃となるのです。この国に生きる女性のなかで、最も憧れであり、見本となる女性でなければなりません』
シャーロットにその言葉を告げたのは10年も前だったが、そのときの風景や空気まで手に取るように思い出すことができた。
まだ春先で、案内された室内は肌寒く、さりとて暖炉をつけるほどでもない――そんな日の昼下がり。従者に通された部屋で待っていたのは、幼さがの残る顔立ちの娘だった。自分の体よりも分厚い本を抱え、一心不乱に読む姿が印象的で、こちらが咳払いをするまで気づかないほど熱中していた。
『……どうやら、文字はもう読めるようですね』
『はい、おばあさまに教えてもらいました』
本を名残惜しそうにちらちら横目で見ながらも、必死に背筋を伸ばす姿に微笑ましさを感じる一方、自分に与えられた次期王妃の教育という大役を果たすため、いま思えば意地悪なことをしてしまった。
『王妃でなくても、人と話すときは相手の目を見なければなりません。あなたは、そこの書籍と語っているのですか?』
『い、いいえ。夫人と話しています!』
シャーロットの青い目は、すぐにローレルを射抜いた。だが、硬くなった面持ちはすぐに崩れ、心配そうに顔を曇らせるのだ。
『なにか?』
『あの……食事がまだなのかなって……あれでしたら、食事を用意してもらいますけど』
躊躇いがちに紡がれた言葉に、ローレルは眉を上げた。
確かに、その日は朝食を抜いていた。数々の子息を教育してきたが、さすがに王妃となるほどの者を指導するのは初めてだったこともあり、緊張で喉を通らなかったのだ。
しかし、そのようなことは一言も話していない。緊張が顔に出ているのかとも思ったが、表情を作ることにかけては誰にも負けないと自負している。ローレルは驚く気持ちを隠しながら、淡々と問いかけるのだった。
『なぜ、そう思ったのです?』
『顔色が悪いように見えましたの。化粧をされているのは分かりますが、それにしても少し肌の色が青いです。顔だけでしたら隠せますが、首や手元の血のめぐりも悪いように見えますわ。それから――』
シャーロットは堰を切ったように少し早口で語り始める。先程まで緊張で覆われていた青い瞳は、ローレルの一挙一動を観察するような眼差しへと変わっていた。爛々と輝く鋭い青い瞳は、すべてを見抜いていく。彼女にはまだ二言、三言しか言葉を交わしていないというのに、朝食を抜いたことに加え、昨日の就寝時間に始まり、分厚いスカートによって隠されている右膝を怪我していることまで正確に当て始める。あまりにも水が流れるように言うので、ローレルは呆気に取られて黙り込んでしまったが、彼女の指摘が旦那との仲が上手くいっていないことにまで及び、ようやく我に返った。
『シャーロット・エイプリル!!』
短く鋭く名前を呼び、ようやく彼女の口は止まった。
『王妃たるもの、無用なおしゃべりは禁物です。まずは、その口を止めるところから始めましょうか』
『私、おしゃべりではないわ。だって、聞かれたから――』
『淑女とはみだらに話さないものです。静かに微笑むことから始めましょう』
ローレルが説明するも、シャーロットの顔に不満の色は消えなかった。彼女は口こそ閉ざしてはいたが、疑念や質問が頭を渦巻いているのは一目瞭然で、これは大変な娘を任されたと久しぶりに腹がきりきりと痛んだのは忘れもしない。
彼女に完璧な礼儀作法は叩き込むことはできたが、最後まで詮索して指摘する癖を取り除くことはできなかった。もはや、シャーロットの性分となってしまっていたからかもしれない。
「……あなたが来た理由は、わかってますわ」
ローレルは喉の潤いを感じながら、静かに口を開いた。
「わたしの病気を、見極めに来たのでしょう?」
「……ええ」
シャーロットはローレルの汗ばんだ額をタオルで拭きながら、初めて会ったときと気遣うような声で同意する。
「私の予想が正しければ、先生の病状は――」
シャーロットはローレルの耳元で囁きかけてくる。
その言葉はにわかに信じ違いものだったが、あのシャーロットが言うのだ。きっと、事実なのだろう。殊更驚くこともなく、その事実を受け入れるように目を閉じる。
「……それで、シャーロット……あなたは、わたしになにを望むの?」
「同席を許可していただきたいのです。一応、先方の許可はとっているのですが、興奮されると理由をつけて追い出されてしまうかもしれないと思いまして」
「あらあら……」
ローレルは控えめに笑った。
「あなたに、口論で勝てる人は……いるのかしら」
「これでもか弱い淑女ですので」
「ふふっ、もちろんよ……それに、噂は聞いているわ。この病気が、あなたの呪いだって……そのようなこと、ないのにね」
「何故ないと言い切れる」
その声を聞いた瞬間、ローレルは笑みを引っ込める。閉じていた目を開き、その声が聞こえた方に目を向ければ、アルバートが腕を組み、不機嫌極まる表情で佇んでいる。
「私はその女の推理は間違っていると考えている。第一、君もそこの悪女を嫌っているではないか」
「……苦手だとは思ってますわ。ですが……シャーロットさんは、人を呪うような、御方ではないですわ」
ローレルはアルバートに向かって、真摯の言葉を紡ぐ。
「誰かを……呪うくらいでしたら、直接出向いて倒すような、御方ですから」
「それは褒められているのでしょうか?」
「あらあら……褒めているのよ」
少なくとも、新しく家庭教師を務めることになった次期王妃の娘より遥かに淑女であり、国を背負って立てると信じている。もちろん、そのような未来はなくなってしまったわけだが、ローレルの生徒のなかで最も問題児であり優秀な一人であることには変わりなかった。
「殿下……どうか、シャーロットさんを……嫌わないでくださいませ。彼女の進言の多くは……間違ってはいないのです」
「耄碌したな、ローレル・ゼーゼマン」
アルバートが吐き捨てるような声を聞き、ローレルは何も言うことができなくなってしまった。
それと共に、来室を告げるベルの音が聞こえる。
「どうぞ」
自分はもう話すことも難しい。死を覚悟しているが、この場にはシャーロット・エイプリルがいる。彼女が謎を解いてくれるだろう。そう考えると、少し生きることへの希望が湧いてくるのが分かった。
「ご機嫌はいかがですか、ローレルさん」
「ええ……今日はね……少しだけ、良い感じよ」
ローレルはそう言うと、入って来た医師と薬剤師に目を向ける。
医師と薬剤師は落ち着いた顔色をしていたが、シャーロットだけでなくアルバートがいることに気づくと、ぎょっとしたように目を見開いていた。
「ご機嫌よう、フェンネル医師とクレソン薬師」
彼らの前に立ちふさがるのは、シャーロット・エイプリル。
礼儀正しくスカートをつまみ一礼をする姿は淑女そのものだったが、青い瞳だけはいつかのように獲物を狩るような鋭いものになっていた。
「さあ、今回の病を解きましょう」




