10話 精霊のゆくえ
シャーロットは本の香りは好きだった。
古い紙やインクの匂いを嗅いでいると、木陰で微睡むように安心する。
窓から差し込む陽光を感じながら、古びたページを一枚、また一枚とめくるのが至福のひと時かもしれない。本のなかに描かれた世界に没頭し、知識を吸収していく――だけど、時間が足りない。
ここにある本をすべて読み終えるためには、あと11か月では足りなすぎる。
ここにある本以外にも、世の中には素晴らしい一冊が眠っているというのに。
不満なところは、それくらい。
王太子妃になったら、もっともっと本を読む時間が少なかったはず。それこそ、余命一年の魔法を受けて書庫に籠っていた方が本に浸れるというもの。貴重な魔法を身で感じることができたこともあるし、長い目で見たら現状の方が王太子妃になるよりもずっと自由。朝から晩まで書庫で本に浸っていても、問題ない。「お茶会の誘い」だの「社交」だの面倒なスケジュールでびっしり詰まった手帳なんていらないし、必要以上に声をかけてくる人はいないわけだ。
それでも、やっぱり――もうちょっとだけ、時間が欲しい。
この1か月は気づかないふりをしていたのに、時間の足りなさを実感したのは、ある男の存在である。
「……まったく、本当になにを考えているのだか」
シャーロットは読んでいた本を閉じると、不愉快な目で男の顔を見上げる。
数日前、適当な理由をつけて追い返した男は、ふさふさした尻尾を緩やかに揺らしながら立っていた。
「ここに来た理由は?」
「理由って……そりゃ、お嬢さんを助けたいからだけど」
男――ロイ・ブラックドッグは朗らかな笑みを浮かべると、鞄から2冊の本を取り出した。
「はい、これ。お嬢さんが読みたかった本!」
そう言いながら、茶色の表紙の古びた本を手渡してくる。
シャーロットは怪訝な顔で受け取るも、表紙に目を向けた瞬間、つい感嘆の声を漏らしてしまう。
「『精霊の泉』と『深淵の魔法の秘術』……!? どこでこれを!?」
「ん、ちょっと言えないとこ」
ロイは得意げに鼻を鳴らすと、頭の後ろで腕を組む。
「これでも、ちょっと伝手があってね。どう、お嬢さん? 俺と手を組んで魔法を解く気になった?」
「うっ……」
シャーロットは言葉を詰まらせる。
先日、この男は「一緒に魔法を解く方法を探す代わりに、シャーロットを嫁にしたい」なんて世迷言を吐いてきたものだから、「それなら、この2冊を探して来てください」と無理難題と共に追い返したつもりだった。
どうせ、シャーロットを助けたいなんて一時の気の迷い。
王都に戻って仕事をしている間に、すっかり忘れてしまうはずだ。運よく忘れなかったとしても、余命一年もない女に結婚を迫ったことを後悔することだろう。
そう思っていたのに、本当に望み通りの本を持ってきたのだから何も言い返すことができない。
「この2冊を持ってきてくださったことには感謝します。ですが、婚姻の了承をしたわけではありませんわ。だいたい、本当に解けるか分からないわけですし……それより、近衛の仕事はいいのですか?」
「平気平気。かなり緩いって知ってるだろ、お嬢さんなら」
「……まあ、否定はしませんが」
シャーロットは近衛隊の実態を知っているので、わずかに視線を逸らした。
特に前線で戦っていた者からしたら、シフト制で王を守る以外はすることもない部隊なんて弛み過ぎていると思うに違いない。
「それで、お嬢さん。この本は手がかりになるのか?」
ずいっと顔を近づけて尋ねてくる。
きらきらと幼子のように輝いた笑顔を目の前に浴び、シャーロットは椅子をわずかに引いた。
「こちらは精霊について書かれています」
焦げ茶色の皮の表紙に『精霊の泉』と金糸で記された一冊を撫でながら、シャーロットは静かに答える。
「精霊、ねぇ……なんだか、前にも聞いたな」
ロイはふむふむと考え込む。
「たしか、魔法ってのは精霊の力を借りて、不可能を実現させるって」
「そのために、精霊に伝わる言葉や文字を利用するわけです。ただ――そうですね」
シャーロットは本で埋まりかけたミニテーブルに手を伸ばす。これから読む本が積まれたテーブルのわずかなスペースに置かれたペンを手に取ると、いつも持ち歩いているノートにさらさらっと文字を書き連ねた。
「たとえば、これを見てください」
「……なんて書いてあんの? 見たこともない文字だけど……」
「『風を起こしたい』と書いてみました。古い文献に書いてあった魔法を起こすための文字です」
本来であれば、風が巻き起こるに違いない。
だが、なにも起きない。窓を閉め切った書庫には、髪を揺らすそよ風すら吹いていなかった。
「……文字だけでは駄目なのです。精霊が実際に見えないと魔法を起こすことはできない」
たとえ、いま目の前に精霊がいたとしても、彼らを視認できなければ魔法を発現させてもらえないのだ。そもそも、ここには精霊がいないのかもしれない。
「いつの頃からか、人間の眼に精霊は見えなくなりました。魔法が廃れ始めたのもその時代からだと書物には残っています」
「じゃあ、なんでアホ王子は魔法使えたわけ?」
「王家の血のおかげかと」
シャーロットはますます近づいてきた青年から距離を取るように、椅子を思いっきり下げると、ちょうど後ろの本棚に収まっていた一冊を手に取った。
「王家の血は貴重なもの。王家の血を持つ者との婚姻が推奨されているので、必然的に血が薄まりにくいのです」
「……ってことは、お嬢さんにも王家の血が流れてるってこと?」
「母方の曾祖母が当時の王の姫君ですね」
王家の家系図が記された本を開き、指で辿りながら説明をする。
「だから婚約者として選ばれたというわけです。もっとも、いまの王太子は慣例を取り払うつもりのようですので、彼が魔法を使える最後の世代になるかもしれませんね」
「違いない」
シャーロットが苦笑いをすると、ロイも面白そうに笑うも、すぐに真顔になった。
「だがな、そうなると魔法を解く方法を見つけたところで、王族の力を借りる必要があるってことだろ。それって、けっこう厳しいな……アホ王子は絶対に協力しねぇだろうし、陛下も無理だろ。他に……他には……っと」
彼は指を折り曲げながら考え込む。
彼の言う通り、王族の数自体が少ない。魔法を使えそうな直系の王族は、いまの国王と王太子くらいしかいないのである。
「ですので、精霊を見る方法から探っていこうかと。魔法がつかえなくても、精霊を視認できる方法を」
ロイが探して来てくれた本には、魔法を使えない旅人が精霊と出会った事件が記されている。
その場所が特別なのか、精霊を見るために儀式をしたのか、それを突き止めることができれば、一歩前進できるはずだ。
「じゃ、その方法が分かったら手紙をくれ。調べに行ってやるよ」
「いえ、サロンでお待ち下さいな」
シャーロットは去ろうとする彼を引き留める。
「どれほど遅くても2時間もあれば読み終わりますので、ごゆるりと――侍女に言えば、お茶を用意してもらえるはずですわ」
「いや、だって……かなり分厚いぜ?」
ロイは驚いたように瞬きをする。
たしかに、ロイの言う通り『精霊の泉』はそれなりの厚さがあった。乱暴に机に置けば、どさっと重い音を立てるくらいの分厚さがある。だが、この程度は問題ない。軽い読書の範囲である。
「私、自慢ではありませんが毎分1万字は読めますので」
シャーロットはうずうずとする気持ちで本を撫でる。
精霊を見る手がかりが手に入るかもしれないと思うと、一刻も早くページをめくりたい。
たとえ、魔法を解く方法が見つからなかったとしても、精霊と目にすることができるのであれば、それはなんて素晴らしいことなのだろう!
幸い、いま自由にできる時間だけはたっぷりあるのだ。
「あ……じゃあ、お言葉に甘えて居させてもらうな」
ロイがちょっと引きつった表情で笑うのを見届けると、シャーロットは本に目を落とす。
ここから先、耳から音は入ってこない。
緊張で早鐘を打つ心を抑えるようにごくりと喉を鳴らし、ゆっくり息を吐きながらページをめくった。




