姉の記憶を消してください
◇
「はい、到着です」
案内されて辿り着いたのは先ほどの場所から10分ほどの距離にある小ぢんまりとした家だった。
赤い三角屋根に白い壁、可愛らしいアーチ状の扉と窓が取り付けてある。
まるでお伽話に出てきそうな家だ。
この付近だけは陽の光が届くようで夕焼けがその小さな家と周辺を赤く染めていた。
「うわぁ、かわいいっ」
「気に入りました? さあ、どうぞ」
促されて中に足を踏み入れてみると、外から見た感じだと長身の彼には窮屈ではないかと思っていたが、天井も高く広々としている。
部屋数もパッと見ただけでも4部屋あり、外から見た間取りと合わない。
「こんなに広いなんて……これも魔法ですか?」
「ええ、友人が手を貸してくれまして。あ、そこに座っててください」
木目のダイニングテーブルに4つ並んだ椅子がある。
一番近くにある椅子に腰掛けて、彼の背中を目で追う。
家の中でもローブを脱がないようで引きずりながら奥にあるキッチンへと入っていく。
食器棚からカップを2つ取り出すと、空のまま持って戻ってきた。
「とりあえず、事情を聞かせてくれます? あ、コーヒーでいいですか?」
「はい、ありがとうございます……?」
目の前にコトリと置かれたその中は空っぽだ。
不思議に思って見上げると、彼が人差し指でトントンっと2回カップの縁を叩く。
ふわりと柔らかな光に包まれると、香ばしい香りが広がり、コーヒーがカップを満たした。
「す、すごいです……」
キラキラした目を向けると、彼は照れたように口元を緩めた。
「あはは。まあ、このくらいは」
向かいに腰掛けた彼を確認して両手でカップを包むと、その温かさに気持ちが落ち着いてくる。
ひと口ふた口と含み、息を漏らす。
私の張り詰めていた気が緩んだのを見計らい、彼が口を開いた。
「それでどうされたんです? 若い娘さんが来るところじゃないですよ?」
「は、はい。あの、私アリシアと言います。すぐ近くのトレージア村のパン屋の娘です」
一瞬躊躇った後、意を決してお願いを口にする。
「あの! お姉ちゃんの記憶を……消してほしいんです!」
「はい?」
気の抜けた声が聞こえた。
明らかに戸惑っている様子の彼に慌てて事情を説明する。
「えっと、その、長くなるんですけどーー」
1ヶ月前のことだ。
姉の婚約者、村長の息子ロディスが婚約解消を求めてきた。他に愛する女性ができたらしい。
姉は相手の要望をそのまま受け入れて、あっさりと婚約解消した。
しかしそれ以降、飲み物すら喉を通らずたった1ヶ月で痩せ細り、夜も眠れず目の下には常に隈ができていた。
そして先週からはついに起き上がることもできなくなった。
医者に診せても処方された安定剤を吐き出してしまい、本人の気力の問題だと匙を投げられる始末だ。
酷い窶れ方で死相が現れていた姉の顔を見るのが日に日に怖くなっていった。
どうにか助けられないかと考えた時、小さな頃に姉が読んでくれたお伽話を思い出した。
どんな話だったかなんて朧げだが、最後だけははっきりと覚えている。
魔法使いが悪いことをした人の記憶を罰として消してしまうのだ。
これしかないと思った。
姉の中からあの男の存在を消してしまおう。
そうすれば、明るくて優しい姉に戻ってくれる。
だが、それには問題があった。
魔法は今も存在しているが魔法使いは貴重な存在なので基本王城にしかいない。
頼むにしても高額の依頼料が必要になる。
何よりこのような平民の願いなど叶えてくれそうもない人間性だと聞いている。
そこで、数年前に森に住み着いたと噂の魔法使いを訪ねてみることにしたのだがーー
「いたのはハズレの魔法使いだった、と。災難でしたね〜」
「いえ、そんなことないです! あなたがいてくれてよかったです! 私はまだ希望を捨てていません!」
彼は話に聞く魔法使いより優しく、穏やかだ。
それにまともな魔法が使えないと言うが、コーヒーを入れたりする日常的な魔法は問題なく使えるようなのだ。
今は高度な魔法が使えないだけで、どうにかすれば王城の魔法使いにも負けないかもしれない。
「ええ〜、僕は何もできないですってば。頑張ってお姉さんを励ましてあげてください。ね? 早く帰ってあげた方がいいですよ」
「私がそばにいても意味ないんです! なかったんです! お姉ちゃんの中のあの男の記憶を全て消してください!」
机に頭を擦り付けて頼み込むと向かいからため息が聞こえ、びくりと身を震わせる。
「いいですか、お嬢さん? そもそも本人が望んでもいないのに記憶を消してほしいなんて頼むものではありません。それに魔法というのも万能ではなくてですね。そんな一部だけ消すとかできないんですよ。消すなら全て、です。あなたのことも忘れますよ」
「そんな!? それは困ります! 一部分だけ記憶を消す魔法って作れないんですか?」
「えー、そんな魔法作ったら悪用された時に怖いじゃないですか」
「今回だけ使えればいいんです!」
「そんなこと言われましてもねー……」
「私もお手伝いしますから、新しい魔法を作ってくれませんか!?」
「いえ、ですから僕はへっぽこなので」
「あなたはへっぽこじゃありません! 私にできることなら何でもします! 実験台でも雑用でも何でもです! だからっ……!」
「何でも、ねえ?」
苦労知らずのお嬢さんが? と、言外に含まれていた。彼と話して初めての馬鹿にした嘲りを含んだ声だった。
一瞬たじろいだが、すぐに口元しか見えない男を挑むように見返す。
「本当です。お姉ちゃんのためなら何でもできます」
「…………わかりました。その言葉、忘れないでくださいね」
「当たり前です!」
勢い込んで大きく頷くと片方だけ吊り上がった口の端が見えて、ごくりと唾を飲み込んだ。
私は魔法使い相手にしてはいけない約束をしたのかもしれない。
冷静な部分が警鐘を鳴らしたのを気づかないふりをして今はぶら下げられた希望に縋り付く。
「それなら一部の記憶を消す魔法、作ってみますね」
「あ、ありがとうございますっ……!」
姉が助かるんだと思うと安堵して、ぽろぽろと涙をこぼす。
少し困ったように笑いながら差し出してくれたハンカチで涙を拭き取って口元しか見えない彼に微笑みかける。
「あなたの名前、教えてくれませんか? 恩人の名前も知らないなんて寂しいです」
少し悩んでから、ローブの隙間から見えるその形のいい薄い唇が開く。
「……ヒース。僕のことはヒースと呼んでください」
愛称なのか偽名なのかはわからないが、柔らかい笑みを浮かべて彼はそう名乗った。