第一章:自他共に認めるしかないグズ男になりました!?
「まったく、帰ってこないから探してみればこんな路地裏で寝てるし。よく見れば服が裂けて血まみれって、本当に何があったのよ」
小言を漏らす女性に腕をひかれ、見慣れない路地裏を歩く。
レンガ造りの床畳は凸凹で、記憶にある真っ黒なアスファルトとは異なる。それは外壁も同様で、床畳が地続きするかのように積まれて聳えていた。上を見れば窓辺らしき場所もあり、人が住んでいるのだろう。
だけど、まったくもってこの場所を知らない。
それどころか、私自身の名前を思い出せないでいる。
唯一といえるのは、ループスというグズ男であるということ。
……私、女子高生だったはずだけど?
気づけば目線の位置も高く、腕をひく女性とは頭一つ分違う。
だからなのか、上手く歩こうにも距離感がなかなか掴めないでいる。
「たく、いい加減自分の力で歩きなさいよ」
「わ、悪い」
歩調を合わせればいいだけなのに、女性は強引な形で腕を引いて先を進む。口調はどこか苛立ちを滲ませながらも、仕方なく面倒を見ている感も否めない。
あれだけループスというグズ男を罵っていたが、この女性の根底は良い人なのだろう。
「とりあえず家に来て着替えてちょうだい。そんなみっともない恰好で出歩くと、また変な噂が出回りかねないわ」
「助かるよ、えっと~」
「……ワ・イ・ズ! 憶える気ないのは良いけど、他の女と間違わないようにしないと刺されるわよ?」
「さ、刺される……」
現実でそんな言葉を向けられ、その可能性を匂わせるこの身体――ループスは様々な女性とそういった関係を築いてきたようだ。
ワイズの口ぶりから、未だそういった殺傷ごとはなさそうではある。
何とも物騒ではあるものの、男女の色恋沙汰は様々な形があるもの。
そんな感じで殊勝に頭では理解しつつも、まさかこの身をもって体験させられるとは。
この身体の男、本当にクズ。……いや、そうとうのグズだな。
「っと!」
「きゃっ!?」
腕をひかれながら歩き、ぼんやりと考え事をしていたためか。それに足場もそれほど良いわけでもなく、慣れない身体のせいもあって前のめりに躓いてしまう。
「ループス? 私、さっきなんて言ったかしらねぇ~」
「ん、んん!?」
片手では収まらない柔らかな感触に、鈍器で側頭部を殴られた気がした。
お、女として負けた……。
誰かと比べるようなことをしてこなかった十七年だったけど、こうもしっかりとしたお胸に触れて痛感させられる。
すっぽりと納まったワイズの身体を後ろから抱きしめる形で、どうにか転倒は免れた。
「す、すまん。どうも上手く……?」
「いつまで揉んでんのよ!」
怒りに満ちた声を耳に、物理的な痛みが側頭部へと見舞われた。
咄嗟に避けることもできず、勢いのついた裏拳によろめいてしまう。通路も狭いというのもあって壁に手をつき、みっともなく倒れることはなかった。
身体を抱くようにして睨んでくるワイズに、ただ謝ることしかできない。
「本当にすまん、わ、わざとじゃないんだ」
「わざとだったらこの程度で済まさないわよ」
頬を冷たい汗が流れた気がした。
刺されるとか、容赦ない裏拳をくらうって、本当にこのループスって男はどんなことをしでかしてきたんだ?
ここがどこで、どうしてここにいるのか思いだせない。辛うじてこの身体、ループスという男だと知れたものの相当のグズ男であることは確定事項として。
色々と状況を整理する時間が欲しい。
「まったく、こっちがどんな思いで過ごしてるか察しなさいよね。昨日だって……」
身なりを整えるワイズも顔を合わせようとしてくれず、何やら小言を漏らしている。
表情も、どこか怒っている風もない。
「ほら、今度は自分の脚で歩きなさいよ」
「気をつける」
ふわりと広がったスカートの裾を翻し、ワイズは先を歩き始める。
だからでもないが、土地勘もない場所で置いてきぼりにされるわけにもいかない。少し後ろを追いかけるようについて歩く。
それが彼女の機嫌を良くしたのか、微かに表情が柔らかくなった気がした。
グズと称しながらも面倒見がよく、言葉よりも態度で喜怒哀楽が読み取れるワイズ。愛おしくも思え、どうしてこのループスというグズ男を気に入っているのだろうか?
「少し急ぐわよ」
「お、おう」
狭い路地を抜けると視界いっぱいに広がった光景に目を見開く。
行き交うひと、ヒト、人。
とにかく人がいっぱいいた。
どこからか威勢のいい呼び込みをする野太い男性の声が聞こえ、負けずと張り合うように至る所からあがる。
賑わう雑踏を前に、不意に足を止めてしまう。
「何してるの、はぐれないでよ」
「おふぅ」
と、口では注意しながらもワイズは腕を絡めてくる。
そのせいで変な声が出てしまった。理由としては、押し付けるように強調される胸の柔らかさと密着具合。
ついさっき不慮の事故で後ろから触ってしまったが、これはこれで違った感覚があった。
誰かと腕を組んで歩くことが初めてで、距離も密着して動きづらい。
「ふんん~」
だけど鼻歌を漏らすワイズの姿に、変に指摘してご機嫌を損ねたくない。
周囲からの刺々しい視線を除けば、ただ街中を歩いているだけだ。
「おう、ループス。まぁ~だ別の女に世話なってんのか」
「ん?」
軒を連ねる露店の一か所、色鮮やかな野菜たちを陳列している厳つい男性が声をかけてきたようだ。
大木のようにぶっとい二の腕を露出させ、いかにも若い頃はやんちゃをしていた勲章が所々に見受けられる。スキンヘッドにねじり鉢巻きが良く似合っていた。
どうやらこの身体と知り合いのようで、小馬鹿にするような口ぶり。
「ん~まぁあ、そんな感じ」
普段どんな風に接してきたのかがわからない。
けどまあ、事実を指摘されれば肯定せざるを得ない。
「うるさいですよおじさん、好きでループスの面倒見てるんですぅ~」
「ちっ、羨ましいねぇ~。俺ももうちょっと若けりゃモテたかねぇ」
「おばさんに言いつけますよ?」
何やら手慣れたやり取りを、ただ眺めることしかできない。
「お、ループスじゃねえか。って、んだその服……血か?」
すると今度は、たまたま居合わせた青年が眉を顰めながら声をかけてきた。
形の良いシャープな眼鏡をかけ直し、シワだらけの白衣を身にまとっている。ボサボサのくすみがかった蒼色の髪をかき、目もとを鋭く細めていく。
「そうなのよ、またどこでケンカしたのやら。そこの路地で寝てたのよ」
「荒っぽいのは良いけど、ほどほどにしてくれよ。患者が増えるのはこっちとしては勘弁願いたいんでね」
裂けて血と思しき赤い何かが付着する部分を見据えたまま、青年は注意を促してくる。
「そうは言いますけど先生、商売としては願ったり叶ったりじゃないんですか?」
「いや、物資が足りなくなるんだよ。ただでさえ物価の高騰、薬品を調合しようにも山を散策するだけで数日かかる。それもお金がかかるし、依頼しようにも専門的知識がある人にしか頼めない」
「だったら、ループスを貸しますよ」
「えっ」
急な振りに、驚いて声がでてしまう。
「……荷物持ちくらいはできるだろうけど、こっちとしてはケガ人を増やさないでくれればいいよ」
「よく言い聞かせておきまぁ~す」
本当にたまたま居合わせたようで、青年は後ろ手を振ってその場から去っていった。
その後ろ姿は疲れていて、さっき口にした不満も相まっているのかもしれない。
これだけ様々なモノで溢れているというのに、どうやら潤沢ではないようだ。
「お、ループスを貸してくれるなら店番を任せてもいいか」
「ダメです、今から着替えさせないといけないんで」
「んだよ、話が違くねぇか」
話が二転三転、コロコロと変わるからついていけない。
「いたいた。……って、今日はワイズの家に転がり込むのか」
「そのつもり?」
「なんで疑問形なのよ」
ワイズに睨みあげられ、苦笑いを浮かべる。
何やら神妙な面持ちで声をかけてきた、茶色い髪をオールバックに額を晒す少年。背丈が低いから年下っぽくも見えるも、どこか風格がある。
「おうワイズ、今日もヒマそうだな」
「そ、そうでもないぞ」
「まぁ~たこんな昼間から若い嬢ちゃんを侍らせて、働け、仕事しろ!」
「お、おう……」
次々と声をかけられ、気づくと人だかりができてしまっていた。
「そういや、ループスを紹介してほしいってモノ好きな女がいたぞ」
「え、その子大丈夫なの?」
そっくりそのまま返ってくる反応に、ワイズは気づいている素振りをみせない。むしろ、顔も知らない娘を哀れんでいるかのような目つきをしている。
それが同情からなのか、また増えることへの辟易か定かじゃない。
街中の活気が流れ込んでくるかのように、ループスを心配するような、働けと叱咤する厳しい様々な声に溢れていた。
言葉の端々に滲む『グズ男』という認知は変わらないようで、あえて触れないでおく。
だって、私はループスってグズ男じゃないもん。
「はあ、長かった」
「ああなると、ディストラー領地名物【グズ男改心お節介】が始まるからね。だから急ぐわよって言ったでしょ」
かれこれどのくらいこの場に縫い付けられていたか、ようやく人だかりがなくなった。
今まででこうも多くの人、しかも顔も名前も知らない他人に囲まれる経験なんてなかった。何かしらの情報を得られないかと考えもしたが、その考えが裏目に出てしまった。
精神的に疲弊させられ、一歩を踏み出すのも重い。
「なんだかんだ言って、ループスって皆に愛されてるわよね」
「……ほとんどが罵倒に近い、見下すようなモノばっかりだったような……」
「事実だからね」
悪びれることもなく肯定されては、ただ落ち込むことしかできない。
この身体が成してきたこれまでを、どうして言われもない私が被らなければいけないのか。
理不尽である。
それでも終始そばから離れず、ワイズも仲睦まじげに会話の輪に混じっていた。
「ほら、さすがに行きましょう」
「おう」
当たり前のようにまた腕を組まれ、柔らかな感触に襲われる。
しかも歩くたびに形を変え、薄っぺらの布一枚越しでもそれがわかってしまう。
「ワイズは、何を話してたんだ?」
「……私?」
右に左どころか、四方八方から聞き取れないほどの声をかけられた。そのほとんどを聞き取れるわけもなく、適当は相槌を打つことで手いっぱい。
だからでもないが、ワイズがどんな話をしていたのか興味がある。
考え込むように小首を傾げたワイズは、露骨に肩を竦めてみせた。
「いい加減そんなクズ男なんかに執着しないで、いい相手見つけなさいとか」
「うっ」
「あとは身体や生活の心配とかで、親以上に気を遣って……どうかしたの?」
鋭い一言に胸を抉られていた。
確かにそうだ。
ワイズのように明るく、こんなグズ男を慕って? 甲斐甲斐しく面倒をみてくれて来たのだろう。
そう考えれば、いい嫁として夫に尽くす姿が想像できる。
「グズでごめん」
「……ループス、どこかで頭打った?」
「いや、純粋にそう思っただけで……」
本気で心配するような声音でみつめられ、反応に困ってしまう。
だけどワイズは、口角をあげて笑いかけてくる。
「今さらじゃない? ループスは周りが認めるほどのグズで、こうして自覚し始めだけでも少しは前進したと思うわよ」
そんな優しい言葉をかけられ、私に向けられたものじゃないのに泣きそうになる。
「だからって、急に変わろうとかしなくてもいいからね」
「そういうわけにも……」
現状、どうすればこの『グズ男』というありがたくもない称号を返上できるのか。
それよりも、私が置かれている状況をしっかりと把握したい。
目が覚めてからやることが多くて頭を抱えてしまう。
こんなの、定期テストの時だってなかったのに。
それからしばらくワイズに腕をひかれるように街中を歩き、とあるレンガ造りの建物に到着した。
開け放たれた窓もあれば、閉まっている場所もチラホラとある。数からして二十以上の部屋があり、どこか生活感が漂っていた。
「なにしてるの、早く来なさいよ」
そういいながら、ワイズは軋む悲鳴をあげる古びた木の扉を押して潜っていく。
中へと足を踏み入れれば、長机と椅子が横並びに置かれていた。さらにその奥には厨房らしき場所があり、食堂のような空間が広がっている。
「もしかしてお腹空いてる?」
「あ、いや……そんなことはないかな」
自分のことなのに自信がなく、お腹に手を当てて確認してしまう。
それをみて一笑したワイズは、気にせず階段を上がっていく。一歩を踏みだすたび軋み、かなりの年季が入った建物のようだ。
だけど、妙に心が落ち着く。
ワイズを追いかけるように階段を上り、二階から三階へと進む。
「ループス、こっち」
「今行く」
そして三階に辿り着くと、階段は終わっていた。
だからワイズが右と左のどっちに曲がったか探そうとするも、一番奥の部屋から顔だけを覗かせ、呼ばれる。
どうやらここが、ワイズの家らしい。
「適当にかけてて、何か着れるの探すから」
「助かる」
玄関と思しき境目はなく、靴のまま部屋に上がる習慣のようだ。どこか海外ドラマのようで、靴底の汚れを気にしてしまう。
「なによ、いつもはならすぐベッドで横になってるでしょ」
「そうだけど、結構汚れてるし」
「……本当に頭でも打った? もしくは、変な物でも拾い食いしたとか? あれだったらさっきの先生呼ぶけど」
「そ、そこまで大袈裟にしなくていいって」
ここで変に疑われるのも、この身体――ループスに迷惑をかけてしまう。
だから言われた通り、らしく振舞うためにベッドの縁に腰かけた。
そんなワイズは、入り口直ぐのクローゼットを漁っている。わざわざ着られる服を身繕っているのだろうけど、女物は体格的に合うわけがない。
それでもこのループスは、今までをこうやって過ごして来たのだろう。
簡素に丸いテーブルが一つと、二脚の椅子。他にはベッドくらいで、年頃の女性と思えないほど物が少ない気がした。
もしくは、そういった物はクローゼットの中にしまっているのかもしれない。
ぼんやりと部屋中を見回し、開け放たれた窓辺から街並みを眺める。
よく晴れた青空に、高さがまちまちなレンガ造りの建物。赤銅色のレンガ屋根が多く目立ち、所々、青や緑といった色も混じっていた。
一見して統一感がありそうでない、これまでの人たちが積み重ねてきた営みを感じる。
「はいこれ、この前買い足しておいたやつよ」
「わざわざありがとう」
投げて渡された一枚のシャツは、本当に買ったばかりのようで真新しかった。
ありがたく着替えようとして、不意に手を止めてワイズを見据える。
「そんなにジッと見つめなくても良くないか」
「だって、似合ってるか気になるんだもん」
「……いや、わざわざ着替えてるとこをみなくても」
「はいはい、みなきゃいいんでしょ」
どこか拗ねたような口調で窓辺に近づき、背中を向けたワイズに内心で謝る。
一応ループスとワイズの関係には察しがつくけど、そういうのはよくないと思う。年頃の男女が同じ部屋で、しかも着替えをマジマジとみるのは。
おそらくそれ以上のことをしてきたのだろうけど、中身は私の女だ。
そういった知識がないわけでもないが、誰が好き好んで見ず知らずの身体。しかも男性の下半身をみないといけないのだ。
着替えを済ませたら、ワイズには悪いけどさっさと立ち去ろう。
そう心に決めながら服を脱ごうと手をかけ、視界が一瞬服で隠れたタイミングで何かが閉まる音がした。
「ルゥ~ウ」
「んっんん!?」
両腕を上げた、無防備に地肌を晒した状況。
そこに押し当てられる、柔らかな感触に覚えがあった。
それはついさっきまで組まれていた二の腕で歩くたびに形を変え、同性ながら敗北感を味わった豊満なワイズの胸だ。
「ワイズ、着替えて――」
「う~るぅ~さぁ~いぃ~」
甘く、蕩けるような声音が耳朶を打つ。
さっきまでどこか棘があり、突き放すようなワイズとは思えない猫なで声。それほど力強いわけでもなくベッドに押し倒され、下腹部に微かな重みが加わる。
「やっと二人っきりだね、ルー」
そして、唇に柔らかな感触が押し当てられた。
声にならない悲鳴を発しようにも、貪るように唇を重ねられる。
「ワイッ――」
「ンッ」
あまりにも唐突で頭が真っ白になる中、僅かに止んだキスの隙間を縫って叫ぼうとした。
だけどそれすら計算だったのか、微かに開いた唇の中にヌメッとした感覚が滑り込んでくる。それはまるで意志を持つかのように口内を蠢き、隅々まで嘗めとろうとしていく。
息つくタイミングを失い、苦しさにワイズの肩を叩いて知らせる。
「まだ足りない」
「じゃなくて!」
「なんなの……白けるんですけど……」
いやいやいや、こっちは頭の中がパニック状態なんですけど!?
不満げに唇を尖らせるワイズだったけど、ついさっきのことを思い返してしまう程に艶めかしく映ってしまう。
だから自然と目を逸らすと、今度は全身を押し当てられるように圧しかかられた。
胸がぁ! ちょくなんですけど!!
どのタイミングで脱ぐ暇があったのか、ワイズの豊満な胸が眼下に広がって深い双丘を築き上げている。
「昨日は私との約束ほっぽって、どこの女と会ってたの?」
「え、いや……そのぉ~」
全身と包み込むような柔らかさと、鼻腔を擽る微かな甘い匂い。
ついさっきまで部屋が明るかったのもあって、急に暗くされたから目がまだ慣れないでいる。それでも射し漏れる明かりが室内の薄暗さを演出し、しだいに慣れていく。
ただでさえ密着度が高く、目のやり場も困ってしまう。
眼球を彷徨わせるも、ワイズは強引に両手で頬を掴んできた。
「答えたくないのはわかるけど私、約束は守ってほしいな」
「ごめんワイズ」
「それはどういう意味? 他の女と会ってたこと? それとも、約束をほっぽったこと? もしくは、別の何か?」
質問攻めの圧に言葉を失い、どうにか上手い理由を探してしまう。
これって私、刺されるんじゃね?
路地裏で躓いたとはいえ、不慮の事故でワイズの胸を揉んでしまったことを思い返す。
刺すように鋭く、身構える暇すら与えられなかった裏拳。
あの時はそれで済んだが、ここで返答を間違えた最悪な未来を想像してしまう。
そんな一瞬のようで、長く感じる沈黙の時間が流れる。
「ふふ、ごめん。私めんどくさかったね」
「え、いや……」
だけどワイズは笑ってみせると、跨っていた下腹部から降りた。そして、隣を寄り添う形で腕に抱き着いて横になる。
「ルーが約束をほっぽることはあったけど、さすがに昨日は妙な胸騒ぎがしたの。だから夜通し街中を探して、ようやくみつけた時は血の気が引いたわ」
「……心配かけた」
「ホントよ、バカ」
握られた拳を胸もとに押し当てられたが、まったく痛みを感じなかった。
それだけで、ワイズがどれだけループスを心配していたのかが伝わってくる。
あれだけグズ男と罵りつつ、相反する形で面倒見がよく。この家に来るまでの間、ずっと腕を引っ張ってくれていた。
挙句、心配して夜通し探し回ってくれたワイズ。
どんな言葉をかけようかと考えるよりも、自然と腕が動いていた。
そして無言で、ワイズの頭を撫でてあげる。
「そういう優しくするところ、誰にだってしてるんでしょ」
「ははは」
実際にそうなのか、私自身は意図してやっていない。
この身体が勝手に動いていたのだ。
しかしそれは正解だったらしく、ワイズは静かになった。距離も近いため規則的な寝息が微かに聞こえてくる。
これが、このループスっていうグズ男が好かれている理由なのかな。
私個人としては、こんな男には引っかからないよう気をつけようと思った。……いや、元の身体に戻れるのか?
ワイズにしっかりと腕を組まれているため身動き取れず、しばらく寝顔を眺める。
そこでワイズが全裸というのに気づき、足もとに畳まれていた掛布団をかけてあげた。
「……私ってこんな顔なんだ」
それからワイズを起こさないように組まれた腕を解き、用意されたシャツに袖を通す。
そのついでで気になった、私のというか、この身体の全身像。閉ざされた扉の裏側に鏡があったため、マジマジと観察してしまう。
身長は百八十くらいありそうで、男の割に長めの灰色をした髪。頭頂部から濃い目の色合いで、毛先にかけて薄くなっていく。目つきも良いわけでもなく、少しダウナー系に垂れている。くたびれた紺色のスラックスはだらしなさがあるも、ワイズが買ってくれた真新しいシャツが辛うじて体裁を保てている気がした。
藍色に深緑を少し混ぜた双眸で全身を確認し、背筋をしゃんと伸ばす。
「グズ男なりに頑張っていくか」
特に具体的な目標があるわけでもない。
こうして見知らぬ異性の身体を借り、右も左もわからない世界に来た。
これが俗にいう、異世界転生という現象か。
まさか本当に生じて、この身で体験する羽目になるとは。
そう考えると、向こうの世界でも私の身に何かが起きたのだろう。
だけど、まったく思いだせない。
「ん~」
ベッドの方からワイズの寝言が聞こえ、起こしてしまったかと足音を忍ばせる。
「ルー」
「ゆっくり寝てくれよ」
身代わりとした枕を大事そうに抱きしめるワイズの頭を優しく撫で、静かに部屋を後にした。
歩くたびに軋む床板が煩わしかったが、できる限り周辺住民にも迷惑をかけないように階段を下る。一番の難所かと思えた食堂には人の気配すらなかった。
ここ、本当に誰か住んでるのか?
外にでて建物全体を確認すると、開けられた窓辺に布団などが干してあった。だけどほとんどが閉まっていて、昼間だというのに違和感が拭いきれない。
「まあ、外出中なんだろうな」
そう解釈する。
空き巣や強盗、盗賊の類が多そうな世界だけど、そこまでセキュリティ対策がなされているわけでもないように思える。
日ごろから人付き合いもよく、互いに警備し合ってるのかもしれない。
と、そんなことを考えながら周囲を見渡す。
「……どこにいこう」
完璧な見切り発車で、無計画もいいところだ。
それでも何となく、街を歩いていればさっきみたく声をかけられる気がする。そこからこの土地、えっと~ディストラーだっけか? とりあえずここから探っていこう。ゆくゆくは、この世界に飛ばされた理由。なぜ、男性である身体に憑いているのか知りたい。
最初の一歩として、この建物に来るまでの道のりを引き返すことにした。
「あれ、ループスの旦那じゃないですか」
「……?」
似たパターンで曲がり角から姿を現した男性に声をかけられる。
いい加減ループスと呼ばれるのは慣れたものだが、この瞬間だけは人違いであってほしかった。
「旦那じゃないですか!」
「こんなところで、いったいどうしたんですか?」
「バカ野郎、野暮なこと訊くもんじゃねぇだろうが」
ぞろぞろと姿を現す、いかにも盗賊をやっていてもおかしくない集団。
街中で一番に声をかけてきた露店の店主も同様だが、それ以上にまとう雰囲気からごろつきっぽさが強かった。
「……ひ、人違いじゃないですか?」
咄嗟に目を逸らしてその場を後にしようとしたが、あっという間に囲まれてしまった。
「ど、どうしたんですか旦那!」
「そうですよ、いつも見かければ声をかけてくれるじゃないですか!」
「確かに俺達もそれほどいい噂はないっすが、旦那ほどじゃないっすよ」
「うっ」
どうやら、このいかにもという集団にすら『グズ男』と認知されているようだ。
「旦那、本当に覚えていないんすか」
「わ、悪い。ちょっと色々あってな……」
最初に鉢合わせた左目に切られた傷跡が刻まれる、短い金髪の両サイドに剃りこみを入れた男性。この身体と比べて背は低めだが、こちらをみる目つきは明らかに睨みを利かせている。
ここで素直に事情を話して、それを信じる連中か?
ほとんどがリーダーらしき男性と体格を始め、風格が変わらない。普通に考えれば話し合いどころか、肉体での語る脳筋っぽさと血の気が多そうだ。
もしそうなったら、一対複数で勝ち目はない。
だけど、一抹の希望をかけて向かい合ってみる。
「信じるかは好きにして構わない。ちょっとな、記憶を無くしてしまったようなんだ」
一斉に息をのんだのがわかり、沈黙の時間が続いた。
実際、噓は言っていない。
このループスとして、この世界での記憶はない。それに加えて、向こう側での名前も思いだせないでいる。
どこか懐かしく感じる街並みの風景だったけど、どこでみたのかも心当たりがない。
何よりも、どうしてあの路地裏で倒れていたのだろうか?
考えるほどに沼へとはまっていき、行き詰っている状態であることは間違いない。
「ループスの旦那。本当に俺、サンを覚えてないっていうんすか」
リーダーらしき男性、サンと名乗ってきた。
まるで捨てられた子犬のように深緑の双眸を丸くさせる。
「悪いな、本当に何も覚えてないんだ。さっきもワイズっていう女といたが、怖くていい出せなかった」
「た、確かにワイズさんに打ち明けるのは勇気がいるっすね」
「……そうなのか?」
面倒見が良くて怒らせると怖そうだが、このごろつきどもが怯えるほどなのか。
目線だけで問うと、全員が首を縦に振っている。
「ループスの旦那、この件は俺達の中で留めおきます。お前ら、いいな!!」
「……助かるよ、お前ら」
サンの呼びかけに、全員が野太い声で返事をした。
周辺に迷惑をかけないかと心配だったが、運よく通りかかる人はいなかったようだ。
ワイズといい、このサンが率いる集団も人が良いな。
「旦那、何かと記憶がなくて不便でしょう。俺たちが交代でお傍にいますよ」
「そんなの悪いよ、何かすることがあるだろ?」
「生憎と、その何かの指示をだしたのは旦那ですぜ」
「……へ?」
記憶がないから思いだせないどころか知らなくて当たり前。
だけど、サンが率いていた集団は全員が頷いてみせた。
そこから場所を賑わっていた街の中心部から、いかにも寂れて薄暗い区画へと移動していく。建物も辛うじて原形を留めているだけのようで、今にも崩れてきてもおかしくない。
それでも人の手を加え、せめてもの補強工事はなされていた。
「こんなにいるのか」
「ここにいる全員、ループス旦那の部下です」
『お疲れさまです!!』
野太い威勢のいい返事に、建物が揺れて崩れないか心配になった。
ざっと見回して四、五十人ほどいる。その半数以上が明らかに年齢は上っぽく、こんな若輩でしかない下に従っている不思議な光景。中には女性も混じっている。
どこか腕力による縦社会イメージがあるために内心ギョッとしてしまう。
ループスって人、そんなに腕っぷしが強いのか?
当の身体についての疑問だが、あんまり真実味がない。
「お前ら、ループス旦那の容体は聞いての通りだ。だからといって、俺たちの活動方針に一切の変わりはない! 領民たちを搾取するためだけに重税を課し、自分だけはのうのうと生活を送るユリム家を許すな! ただ国から派兵され、好き勝手する奴らに屈するな! 俺たちが生まれ育った領地は、誰かに守られるものじゃない! この手で守っていかないといけないんだ!」
『おう!!』
「たとえ陽の光を浴びない俺らでも、領民を派遣された兵どもから守ることはできる。いついかなる時も事を構える覚悟だけは怠るな!」
えっ、今ってそんなことが起きてるの!?
驚きの事実に目を丸くさせ、穏やかだった街並みの光景を思い返してしまう。
「そんな状況でも、俺たちの生活があるのは誰のお陰だ!」
『ループス旦那のお陰です!!』
崩れる! 絶対にこの建物崩れて、生き埋めになっちゃうよ!?
頭上にパラパラと細かな石の粉末が降ってきて、喉が渇いてしょうがなかった。
「これからも領民たちを守り続けるため、奴らにこの事実を知らせるわけにはいかない!」
それくらい、ループスという男は抗争の要なのだろう。
……本当にグズ男なのか?
街でそこはかとなく耳にし、何となく察しがつくほどの『グズ男』っぷり。
だけどこの場では、それ相応の地位を築いているようだ。
「だから今後も俺たちで、領民たちを守っていくぞ!」
『了解!!』
勝手に話が纏まり、ただ置かれた状況の一面を知れた。
「旦那、最後に一言ありますか」
「えっ……ん~」
何やら期待に熱を帯びた眼差しを向けられる。無いなんて言える空気ではない。
用意された椅子から腰を浮かせ、辺りを一瞥して軽く咳払いをする。
「俺のことで迷惑をかけるが、これからも皆よろしく頼む」
『おおおぉぉぉぉぉぉ!!』
今まで以上に野太い声のかけ声に、本当に建物が崩れないかと及び腰になってしまう。
そんな感じで謎の集会が終わると、各々が散っていった。
「んでぇ~ルーっちは本当に記憶ないの?」
「ルーっち?」
謎の呼ばれ方に首を傾げ、残された数名の一人を見据える。
「おいレオン、旦那を信じられないのか」
「そんなことはないけどぉ~それはそれで悲しいなぁ~って」
サンの鋭く高圧的な注意を、レオンと呼ばれた少女は気にした様子もない。
終始一人掛けのソファを独占し、猫のように丸くなって欠伸する姿が絶えなかった。
左右非対称で長さもざっくばらん、自分で切ったかのような赤髪。どこか気だるげな口調と反して、勝ち気で吊り上がった目じり。見据えてくる緋色の双眸も、奥底には消えない闘志が宿っている気がした。
「レオン。ループスのことが気に入ってるのはわかるけど、相手に回すヤツが多すぎて敵わないと思うぞ」
「なにそれ、まだ発展途上だし。……メリー、嫌い」
「だはは! 嫌われてやんの」
「おい、アビ。そこまで笑うとこじゃないだろ……」
メリーと呼ばれた青年は、拗ねた子供のように顔を背けたレオンに戸惑いを隠せないようだ。
その一方で二人のやり取りを、アビと呼ばれた女性が豪快に笑ってみせる。
どこか気弱そうなメリーは、目もとを長めの黒髪で隠し、どちらかというと争いごとには率先と首を突っ込まない雰囲気があった。体格的にもひょろっとしていて、服が大きいのかどこかだらしなくて無頓着な感じがする。
逆にアビは快活とした性格なのか、声も大きければ、仕草すらも人目を引く。それくらい手足が長くて、でるところはしっかりと。締めるところは綺麗なラインを描いていた。長めの赤髪に、濃い茶色のメッシュを入れて後ろで一本に纏めている。
いかにも、みんなの姉貴分といったイメージがピッタリだった。
流れた前髪を払うように覗いた蜜色の双眸は、吊り上がった目じりも相まって力強さがある。
他にもボック、キッシュと男性二人を紹介されたが、することがあると即座に退室。
残った私(身体はループス)、サン、レオン、メリー、アビは顔を突き合わせていた。
「てかレオン、マジでこのグズが好みはどうかしてると思うぞ」
「アビこそ、ルーっちの良さ知らないの?」
「メリー、ここ最近の報告をまとめた資料を貰えるか」
「今のところ目立った被害はないけど、件数が減ったくらいだね」
開口早々と再び火花を散らし始めるレオンとアビだが、サンとメリーが止めに入る様子もない。
おいおい、私はどうすればいいんだ。
記憶がなくなったことへの理解は得られたが、ここでの役割があって連れてこられたはずだった。
なのに変わらず放置で、各々は役割を果たしていく。
「こぉ~んな色々な女に世話なってるグズより、もっといい奴いるだろう」
「例えば誰よ」
「そう訊かれるとすぐにはでねぇけど、今後現れるかもしれないだろう?」
「今後でしょ? 今はルーっちが良いの」
「こんなおこちゃまに養われるようじゃ、ループスの評判も底辺どころか奈落だな」
ひ、酷いいわれようだ。
レオンとアビの口喧嘩を無視する男組は、古ぼけたテーブルに何やら地図を広げ始めた。
「そんで、ループスは実際にどうなのよ」
「……ど、どうって?」
「惚けんなよ、こんなちんちくりんで満足できるのか」
あえて何をとは伏せたんだろうけど、正直触れづらい。
だって、中身は女だもん。
けどそんなことを口が裂けてもいえず、何やら期待したようなレオンを横目に肩を落とした。
「実際に可愛いとは思うけど、俺みたいなグズ男に費やすくらいなら他がいると思うかな」
「ルーっちはそんなにグズじゃないよ? ちょ~っとグズなだけだよ」
いってて悲しかったけど、それもそれで意味合いは同じなのではないだろうか?
「だよなぁ~やっぱり、あたいみたいな女が魅力的って思うよな」
特に胸もとを強調されると、何故か視線が無意識に向いてしまう。
「年中へそだしで、男を誘惑する尻軽に魅力?」
「あ? 喧嘩売ってんのか? ワリーけど、ループスはあたいのタイプじゃねぇ。こんないろんな女に飼われる甲斐性無し、こっちから願い下げだってぇの!」
慕われているようで、そうじゃない容赦なく傷つく言葉の応酬。
……誰か、助けて。
言われもしないループスというグズ男を巡って、レオンとアビの口論がヒートアップしていく。
「二人とも、ちょっといいか」
「「なに!(あぁ?)」」
仲が良いのか悪いのか、メリーと話していたサンが間に割って入ってきた。
その後ろで一人慌てふためいていたメリーだったが、サンからのアイコンタクトに古びたテーブルを引っ張ってくる。
広げられたままの地図を覗き込むと、所々が赤いバツ印が書かれていた。
「ここしばらくの被害箇所だ。どうやら派兵ども、一番人目のある通りでも好き勝手し始めたようだぞ」
さっきまで言い争っていたレオンとアビは口を紡ぎ、鋭く睨みつけるような目つきでサンが指差した地図を見据える。
「被害に遭った女性は?」
「アビが今、想像した職種に従事している」
「……そう」
ひっ!
声にならない悲鳴を内心で発しながら、ガラリと雰囲気が変わったアビに怯えてしまう。
レオンとの言い争う光景が可愛く思えるほど表情が消え、短い返事は身震いするほど地より這いでる冷たさがあった。
そんな様子を、誰一人として怯えるどころか流している。
「まあ、一概に向こうが悪いとも言いきれない。店のために客引きを――」
「事実、無賃で強引に迫ったことは変わらないだろう」
「……確かにそうだが」
「席を外す」
眉間にシワを寄せて頷くサンだったが、アビを止める様子はなかった。それはレオンやメリーも同様のようだ。
「ちょっと待った、アビ」
だけど、私は踵を返すアビを呼び止めた。
正直怖いどころか、触らぬ神に祟りなしでみてみぬふりをしたい。
「止めんなよ、ループス」
今にも喰ってかかりそうな飢えた獰猛な獣を相手にさせられる感覚だったけど、事が起きる前に確認しておきたいことがあった。
乾く喉を唾液で湿らせ、全員の顔を一瞥する。
「いったい何が起こってるんだ? 悪いが、そこら辺から説明してほしいんだが」
「「「「……」」」」
一瞬でその場が凍りついたかのように静寂が訪れ、これでもかというほどに全員が瞼を見開いていた。
雰囲気から頭に血が上っていたアビでさえ真顔で、今は恐ろしさを感じない。
誰に説明を求めればと視線を彷徨わせ、ただ笑みを浮かべることしかできなかった。
「はぁ~~~~」
盛大で長いため息を吐くアビを皮切りに、ようやく停まっていた時間が動きだす。
「ルーっち、かなり重症みたいだね」
「サン、説明を」
「ループスの旦那、これは一世一代をかけた大事な話です。しっかりと耳を貸してください、いいですね」
「お、おう。頼んだ」
サンは神妙なつもりなのだろうけど、私からすれば睨みを利かせて威圧しているようにしかみえない表情。だからといって怖がるのも変で、とりあえず平静を装って頷くしかなかった。
何度か咳払いをしたサンは話し始める。
「現在この領地、ディストラーはユリム家が治めています。ですが数年前、王都への移動中に賊から襲撃を受けてご夫妻が殺害されました。今はその一人娘、ソフィリアがディストラー領地を治めています」
おう。……この世界じゃあ、盗賊に襲われることがあるのか。
サンを始めとした、さっきまで集まっていた連中を思い返せばいてもおかしくない。だけど口ぶりから、盗賊のように人を襲うようなことはしていない。
むしろ、領地を守ろうと自衛行動を率先としている。
「ちなみに聞くけど、そのソフィリアって娘はいくつなんだ」
「今年で、十だったと記憶しています」
「十歳!?」
驚きのあまり声がでてしまった。
え、私より年下? ってか、ここにいるレオンよりもまだ幼いってことだよね。そんなんで領主が務まってるのか?
「しょーじき、私には無理だなぁ~」
「あたいもバカだからパス」
苦笑いを浮かべるサンとメリーだったが、どうやら二人ものようだ。
レオンの意見同様、私でもそんなことできやしない。だって十歳の頃って……あれ、何してたんだっけ?
未だに向こうでの名前すら思い出せないのに、数年前なんて殊更無理な気がした。
「話を進めます」
「すまん、話の腰を折った」
顔も知らない十歳になるソフィリアという領主さま。いったいどんな生活を送っているのだろうか。
その後もサンからディストラー領地の現状を聞かされた。
「やっぱり賑わってるよな……」
辺りを見渡すも、行き交う領民たちがそこまで苦しい生活を強いられている風はない。
「ループスの旦那、どうかしましたか」
「……いや、ちょっとな」
領地案内兼護衛役を担うサンに声をかけられ、一拍遅れて反応を返した。
たまたますれ違った、五、六歳くらいの少女。その両脇に若めの夫婦がいて、仲良さげに手を繋いでいた。少女の溌溂と話す姿に、夫婦も楽し気に反応を返している。
そんな姿が、無性に懐かしく感じてしまう。
そう、思える光景だった。
「なあサン、あの話は本当なのか?」
「……領主の、度重なる重税のことですか」
何について問うたか察したのか、サンは首を縦に振った。内容からして声を大に話すことでもないらしく、潜めるように周囲を見渡す。
「あそこの青果店、リンゴ一つ買うにも銅貨十枚でした。常連には申し訳なさげにしながら値をつけられない物をサービスしてくれるんです。本当に稀ではあるんですけど、売れ残りや粗悪品なんかは無償で振舞ってたんですよ」
「今となっては銀貨が二枚。……銅貨が百枚分だったか」
主に出回っているのは銀貨らしく、その上は金貨がある。同業者であれば物々交換もあるらしいが、普通に生活を送っていれば硬貨でのやり取りが当たり前。
ただ買い物をするだけで、ジャラジャラと財布の中が重そうだ。
サンが紹介してくれた青果店は、店主が広大な畑を持っているため格安。ディストラー領地内有名で、常に盛況で人が絶えなかったらしい。
通常の相場としては銀貨一枚が最低とのこと。
「この時間になっても店を開いてるのも、今となっては珍しくなくなりました」
どこか寂し気なサンの様子から、それなりに思い入れがあったのだろう。
こうして人は出歩いているが、決して買い出しをしているわけでもない。中には労働者もいるだろうけど、それも重税を課せられて生活が苦しいためなのか。
何も知らなければ幸せに過ごせるが、この領地で生きていく上では無視できない。
「旦那、行きましょう」
その場から離れるように先を行くサンを、私はただ追いかけた。
現在、ディストラー領地内を巡回している。
事の発端としては、領民の女性を狙った事件が勃発しているのだ。しかも容疑者が判明しているものの、相手がとにかく厄介でしょうがない。
王都から派遣されている兵士たち。
ディストラー領地内の片隅に、彼らの居住区がある。どうやら国から領地内外の守護を任され、現領主の代になってから駐屯し始めた。
だがそれが、領地内の若い女性たちを危険に陥れてしまったようだ。
守衛に必要な物資は王都から送られてくるも、日常的に必要な品はディストラー領地で兵士たちが各々で購入している。
もちろんそこには食材も含まれ、酒場などに屯していた。
そこで、酔っ払った兵士の一人が女性を襲ったのだ。それが明るみにでるまで時間がかかり、過去を遡ると枕を濡らした女性が数多いとのこと。
中にはこの身体、ループスがお世話になっている女性がいたのだ。
「改めて考えると胸糞悪いな」
領主であるソフィリアが毎年国へと納める税、派遣された兵士たちへの賃金の滞納が続いている。それを笠に兵士たちが態度をでかく成り上がり、好き勝手の横暴な振る舞いが続いている。
そんな環境から、自衛という形で水面下の抗争をしてきた。
いつどこで領民が襲われるかわからないため、日々こうして巡回している。
アビがキレた理由、同性だからわかるな。
どうやらアビの顔見知りで、領内の情勢すら知っていた。
だけど、生活のためにと呼び込みをしている最中に襲われたらしい。その場に駆けつけた頃には手遅れで、こうして報告が上がってきた。
ただでさえ水面下の抗争を続けてきたが、あの時のアビが放った殺気は本気だったと思う。だから今は巡回組から外し、その女性に寄り添っていてあげてほしいと頼んだ。
どこか渋々な側面もあり毒吐かれたが、今頃は一緒にいるだろう。
ここで兵士に手をだせば、国へとケンカを売るようなもの。どうにかしたい気持ちはあるものの、何せ金銭トラブルは一個人が首を突っ込めない。
しかも、様々な女の世話になっては働かない『グズ男』としての称号を得た私がだ。
色々とみえてきた状況だったが、さすがに大役どころの話じゃない。ループスは、この現状をどう打破するつもりだったのだろうか?
もしくはこのまま、水面下で事を構えるつもりだった可能性もみえてくる。
「はぁ、どうしたものか」
あれこれと考えることが多すぎて、嫌でもため息がでてしまう。
それからしばらくメイン通りをサンと巡回し、陽も気づくと傾き始めていた。
「……揉め事か?」
「旦那、念のため確認しに行きましょう」
距離からして目と鼻の先で、すでに人だかりができていた。
「離しなさい!」
「うるせぇ! このガキ、こっちに来やがれ!!」
何やら言い争っているようだが、相手は成人していない少女と中年で恰幅のいい男性だった。男性の方はどこか呂律も回っておらず、顔じゅうが赤らんでいる。
無理やりどこかへ連れて行こうとしているようで、叫ぶ少女の腕を引っ張っていた。
「サン」
「ええ、駐屯している兵士です」
胸もとにあてがう銀色の鎧と、脚部に装着した脛あて。腰には鞘に納まった剣を携え、確認をとるまでもなく周囲にいる領民とは恰好が違った。
「ちょっと、私を誰だと思ってるの!」
「んだこのガキ、お前みたいに生意気な奴にはお仕置きが必要だな!」
必死に抵抗する少女を誰も助けようとしない。隣にいたサンですら、歯を食いしばって鋭い目つきをしていた。
「おい、何事だ」
すると、騒ぎを聞きつけた別の兵士たちが駆けつけてきた。
ん? 少女を助けてくれるのか。
サンたちから話に聞いていた派兵たちはほんの一部で、こうして街中で騒ぎがあれば止めに入ろうとしてくれる。
だからこそ全面抗争で事を構えず、水面下で現状維持してこられたのかもしれない。
「ちっ、おせぇぞ! さっさとこいつらを追い払え」
「は?」
あのおっさん、今なんて言った?
「ほら、後は私たちが処理する。散った散った」
それに続いて、駆けつけた兵士たちも領民に威圧するような声をかけていく。
「しっかり見張ってろよ」
「嫌よ! 離しなさい!!」
目の前で繰り広げられる光景に、頭の中が真っ白になった。
ほんの一瞬で、私の勘違いかもしれない。
もしそうだったとしても、路地裏に連れ込まれる少女と目が合った。
……ああ……この光景、どこかで覚えてる。
「旦那、堪えて――」
「悪い」
低い声音で止めようとしてくれたサンだったが、気づいたら身体が勝手に動いていた。
「お前、ここは――」
「退け」
立ち塞がった一人の若い兵士を、足払いで地面へと転ばせる。
「なにを――」
「黙れ」
さらに立ち塞がろうとするさっきの兵士と同年代へ、握った拳で顎先を掠める。
残ったもう一人は、何が起きたのかわからず立ち尽くしていた。
不必要に構ってもいられず、そのまま路地裏へと足を踏み入れる。
生憎と探す手間もなく、少女は恰幅のいい中年の兵士に抵抗を続けていた。
「んだおま――」
「大丈夫か」
私の気配に振り向いた兵士だったが、躊躇なく鼻っ柱を拳で殴りつけた。
必死に抵抗していたため、腕を引っ張られていた少女が後ろに倒れそうになる。それをどうにか背中に手を回し、地面への転倒を防いだ。
「ケガはしてないか」
「え、ええ、私は大丈夫よ」
近くでみると整った顔立ちで、色素の薄い水色の長い髪は所々が乱れていた。この少女がどのくらい抵抗をしていたのかわからないが、目じりには今にも決壊しそうなほど涙が溜まっている。
それを人差し指で拭う。
「こいつらがいつ目覚めるかわからない、今のうちに逃げな」
「アナタこそ逃げなくていいの」
不安げに揺れる、水銀色の双眸が見上げてくる。
あんな状況だったのに、見ず知らずで周囲から『グズ』と称される男を心配する余裕があるようだ。
「大丈夫、君が無事に逃げたのを確認して立ち去るよ」
「……アナタ、バカなの」
何故か初対面の少女にまで、馬鹿と呼ばわりされる始末。
「ループスの旦那! あれだけ忠告したじゃないですか!?」
「おお、サン。……わりぃ、辛抱できなかったわ」
「アンタって人は~」
事すでに遅し、やってしまった事実は覆らない。
盛大なため気を吐くサンに、笑いながら謝るしかなかった。
「……ループス?」
「ん? おう、そうだけど」
どうやらこんな年端もいかない少女にまで『グズ男』という噂が知れ渡っているようだ。
「そこのアナタ、今すぐに逃げなさい!」
「お、おう」
駆け寄ってこようとするサンに、少女はよく通る声で指示を飛ばす。
「アナタはこっちよ」
「え?」
その一方で、私はなぜか少女に手をひかれていた。しかも方向はサンと一緒のメイン通りを逃げるのかと思いきや、逆方向の路地裏をさらに奥へと行くようだ。
なんか今日、ワイズの時といい。サンにも色々なところに連れていかれるなぁ~。
「旦那!?」
「サン、後で合流しよう!」
少女の行動が予想外だったようで、驚きの声を発するサンに片手をあげた。
「それで、どこに向かうんだ」
身長差もあれば歩幅も違うし、手をひかれながらだと走りづらい。元より土地勘もないから連れていかれるのはいい、ただワイズとの一件もあって警戒を抱いてしまう。
願うなら、ループスがこんな少女にも手をだしていないことを祈るばかりだった。
「とにかく私の屋敷に来てちょうだい」
少女から焦りのようなものを感じず、状況を冷静に把握している節があった。屋敷というからにはそれ相応に親がお金持ち、身にまとう白のワンピースもよくみれば品があって令嬢っぽい。
「まさか、あの噂の『グズ男』に助けられるなんてね」
訂正、助けられたことに落胆しているご様子でした。
それから路地裏を走り続け、しだいにレンガ造りの街並みとは異なる建物がみえてくる。
それは絵本にでてくる真っ白で大きなお城と表現するには小さくも、門構えがしっかりとした二階建てのお屋敷。
「さ、入ってちょうだい」
「お邪魔します」
鉄の門扉を押す少女に促され、妙な緊張をしながら頭を下げる。
「そういや今更だけど、名前を聞いてなかったな」
「……そうね」
一方的に少女の方は認知しているようだったが、生憎とこの身体の中にいる私は面識すらない。
ずっと走り続けていたから息も絶え絶えで、少女はしばらく黙り込んだ後に咳払いした。
そして凛とした目もとが印象的な、水銀色の双眸で見据えてくる。
「私はこのディストラー領地の領主でユリム家の長女、ユリム・M・ソフィリアよ」
「……はい?」
まさかの話に聞いていた領主と出逢いに、どんな反応をしていいのかわからなかった。