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第六章:巡った人生のリスタート

――◆――◆――◆――


 気づくと、見知らぬ白い天井が広がっていた。それに規則的に機械音がピッ、ピッ、ピッと聞こえてくる。それが遠いのか、近いかは定かじゃない。

 ぼんやりとした意識の中、私が置かれている状況を知れる情報群。

 だからわかることが一つ、私は生きている。


「あぁ……」


 上手く声が発せられなければ、全身がどこか重い。


「――っ」

「――――っ!」

「――!!」

「っ!!」


 それに何やら騒がしい。

 どうにか視線だけを動かし、音が聞こえる左側の様子を窺う。

 そこには男性と女性が一人ずつ、ディストラー領地ではお目にかからない服装だった。

 男性は執事服とは違った、縦のラインが入った藍色の服をピシッと着込み。首もとには蝶ネクタイではなく、服の色に合わせた一本の淡い水銀色をした川が流れている。短い黒の髪をしっかりと後ろで固めているらしく、見た目から清潔感を感じられた。

 一方で女性は、第一印象からして化粧が濃い。特に赤い口もとは高圧的で、それを擁護するかのように全身を着飾る物が高そうだった。

 袖の部分が白いブラウスに黒のパンツは、どこかフワッとしながらもお洒落感がある。それに目につく鋭く尖った色鮮やかな爪と、水仕事を知らない綺麗な手。何よりもしっかりと巻かれた明るい茶色の髪は動くたびに揺れ、波を打って元通りになる不思議な現象。

 この男性と女性の二人は、それなりに自身を磨いているのがみてとれた。

 ソフィリアのようにシンプルなワンピースでいながらウエストを引き締めるコルセット、華奢な身体でいてまとう雰囲気は十歳とは思えない風格のある少女。どこか厳つくて怖いながらも根が優しい――。

 ……ディストラー領地? ソフィリアって誰だっけ?

 得もしない漠然とした疑問に、ようやく耳の機能が回復してくる。


()(さき)!」

「とりあえずナースコールで医者を呼ぶんだ」

「そ、そうね」

「えっ……」


 女性の甲高くも驚きを隠せない声音と、男性の冷静を装いながらも安堵した表情。

 ついさっきまでの騒がしさとは違い、二人の様子に違和感を否めなかった。


「……どうかしたの、深幸?」

「あ……えっと……」


 私を真っすぐと、毛先が上を向く睫と奥に覗くひまわり色の双眸がみつめてくる。


「やめとけ(あや)()。深幸は今起きたばかりなんだから」

「だけど(しん)()、やっぱり――」

「気持ちはわかるよ」


 それを宥めるように目もとが弧を描き、黒い双眸がこちらを向く。

 この男女が誰で、どんな関係性なのか汲み取れない。

 だけどさらに得た情報が一つある。

 私の名前は、深幸というらしい。

 けど、妙にしっくりとこないのはなんでだろう。

 それからしばらくして白衣姿に眼鏡の男性が一人と、女性が二人姿をみせた。


「はい、身体を起こしますよ」

「瀬川さん、少しだけ身体失礼しますね」

 そこから私は、見ず知らずの女性に二人に優しい声音で話しかけられた。

 一番戸惑ったのは、白衣姿の男性だ。


「こんにちは、瀬川(せがわ)深幸さん。……ここがどこかわかりますか?」

「?」

「ゆっくりでいいです。何があったかわかりますか?」

「い、いいえ」


 首をゆっくりと横に振ると、後ろに控えていた彩華と呼ばれていた女性が口もとに手を当てた。隣にいた紳弥と呼ばれていた男性は肩を抱くように、顔を俯かせて瞼を強く閉じてしまう。

 ……いったい何なのだ?


「とりあえず瀬川さんの意識は戻ったばかりです。気を落とさず様子を見守っていきましょう」

 それだけを言い残し、白衣姿の男性と二人の女性はでて行ってしまった。

 


「瀬川深幸。それが私の名前なんだ」


 ベッドの枕元に書かれた、私の名前を目で追って舌の上で転がしてみた。

 時間だからと帰っていった、紳弥と彩華という男女の二人組。聞くところによると同じ家に住む人たちで、この場にはいないが二つ年上の兄もいるらしい。

 ただ、そんなことを急にいわれても反応に困ってしまう。

 二人には申し訳なくもあったが相槌を返すだけに済ませ、静かに与えられる様々な情報に耳を傾けることしかできなかった。

 ようやく一人になって、半分だけカーテンを開けてもらったレース越しに外を眺める。

 夜だというのにそこかしこで明かりが点り、病院という場所もあってか外とは切り離された時間が流れているのかと錯覚してしまう。

 鼻腔を擽る独特な匂いを不快に、寝つけない頭を必死に行使する。

 だって、こことは別のどこかにいたような気がしてやまないのだ。それがどこかと問われると答えられないが、毎日が鮮明で楽しかったとい感覚が残っている。


「……眠れないなぁ」


 ただ横になっているというのも退屈で、一人で居るという静かな時間をベッドの上で過ごした。



 翌日からは、医師の診察も兼ねて私の毎日が動きだしたと思う。

 特にこれといった出来事はないが、時間になれば病室にお医者さんがきてちょっとの問診。日によって時間は異なるも、紳弥さんと彩華さんが交互に足を運んでお見舞いにきてくれた。毎回のように食べたい物、必要な物を訊かれては買ってきてもらうことにはありがたくも、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 あとは少しずつ身体の機能を取り戻すため、暇をみつけては無理せずリハビリテーションで運動を始めるようになった。最初は車椅子でナースの方に後ろ押してもらい、今ではゆっくりとだが廊下の壁にある手摺を伝って歩くことを意識づけている。

 そんな日々は、意外と退屈じゃなかった。

 だけど、心のどこかで引っかかる違和感が拭えきれない。それが何なのかもわからず、病院という場所にいることが精神的な不安を掻き立てているのかもしれなかった。


「たまには、病院内をブラついてみようかな」


 そして今日、病室とリハビリテーションの往復に変化を加えてみようとした。

 お昼を食べてから時間を置き、私は病室を後にリハビリを行う。歩くことには慣れつつも、体力面の回復がすぐにはいかない。肩で息を吐きながら、程よく疲労を感じる身体で静寂と喧騒が入り混じる廊下を進む。

 すれ違うナースさん、顔を合わせるどころか初対面の入院患者さんと挨拶を交わす。


「……彩華さん?」


 この病院が有名で大きいかは定かじゃないが、待合室の椅子はポツポツと埋まっている。

 その中で、見慣れた女性が目にとまった。

 日には寄るけどしっかりと化粧を施し、服装も高級感が溢れている。

 長い袖の部分をレースで透けさせて、植物の蔦をモチーフの柄が散りばめられた黒のトップス。それと対照的な色合いの白くて長いパンツはシワなく、腰の高さも相まってかモデルのようなスタイル。

 今日も甲高いヒールの音を立てて歩く姿は、それだけで周囲の目をひく。


「彩――」

「はぁ、こうもお見舞いに来るのって面倒ね」


 私から声をかけよとして、耳を疑ってしまった。

 明るくて社交的な話し方をする人で、仕事で忙しい両親の代わりで見舞いに来てくれている。最初は親にしては若すぎと思っていたが、それを聞かされて納得がいく。

 だから彼女の、吐きだすような愚痴には戸惑ってしまった。

 ……わ、私、なんで隠れたんだろう?

 気づけば柱の陰に身を潜め、彩華さんが受け付けのナースさんと話す姿を観察する。

 妙に高まる心拍数と、それほど寒くもない空調に身体が震えていた。

 どこか緊張な面持ちのナースさんとのやり取りは短く、彩華さんはエレベーターがある方へと歩きだす。


「瀬川さんのとこ、今日も来たみたい」

「男性の方もだけど、どうしてあんな態度なんだろうね」


 紳弥さんも?

 たまたま今日、彩華さんにとって虫の居所が悪かっただけ。

 それだけなら誰にでもあるし、私にもだって当てはまる。病院生活に不満があるわけじゃないけど、ちょっとだけ退屈感が否めない。

 まぁ、それくらいだ。

 こうして彩華さんの普段とは異なった一面を目の当たりに、呼吸を整える。


「……戻ろう」


 わざわざ彩華さんがお見舞いに来てくれた。

 だけど今、私がここにいる。

 不在の病室をみて、さらに気を害するかもしれない。

 急ぐことはできなかったが、私は病室へと戻った。


「……深幸、どこにいっていたの」

「あ、彩華さん。こんにちは。リハビリテーションにいってました」


 病室の扉をスライドさせると、腕を組んで立ち尽くしていた彩華さんと目が合った。

 その姿が様になっていて、謎の迫力がある。


「あんまり根を詰めると身体に悪いわよ、まだ無茶しないの」

「ご、ごめんなさい」


 険のあった雰囲気から一転して、彩華さんはにこやかに笑いかけてくれる。待合室での様子とはまた別人で、近づいてきてくれて身体まで支えてくれた。


「着替えとか持ってきたから、深幸はベッドでゆっくりしていなさい」


 それから彩華さんは、面会時間ギリギリまで病室にいてくれた。これといって特に話題はなく、買ってきてくれた雑誌をただ捲る音だけが室内に響く。

 ……やっぱり、あの時の彩華さんは人違いだったのかな?

 終始大人っぽい雰囲気があって、落ち着きもある。両親の代わりにお見舞いに来てくれる優しくて明るく、気さくで接しやすいと思う。

 個人的には距離感が掴めずにいるけど、そう思える女性だ。



 その翌日、朝早くから紳弥さんが面会に来てくれた。


「よお、元気そうだな」

「あ、はい。お医者様からも順調だって言われました」

「そうか、ならよかったよ」


 リハビリのペースも問題ないらしく、日常の生活を送るには支障はないとのこと。

 もしかしたら、退院も近いのかもしれない。

 そうなったら私は、実家に戻ることになるのだろうか?


「紳弥さん。もし私が退院した時は、両親が迎えに来るんですか?」

「ああ、その辺は日程が決まってからになるだろうけど……連絡しておくよ」

「お願いします」


 紳弥さんの表情がどこか険しくなったけど、すぐに気さくなお兄さんっぽく変わった。

 ただ、仕事が忙しいから病室を行ったり来たり。

 それがなんだか申し訳なかったけど、毎日のように時間を割いて面会に来てくれている。だから私からはいいだしづらく、リハビリテーションに向かうことにした。


「あの、そろそろ時間なのでリハビリに行ってきますね」

「そうか。悪いな慌ただしくて」

「こっちこそ、お仕事頑張ってください」


 病室に紳弥さんを残して、私はリハビリテーションまでの廊下をゆっくりと歩いた。

 よくよく考えれば、両親の連絡先を知らないな。

 周囲が当たり前のようにスマホを持っているのに、私の手もとにはない。必要があるかと思えば病院からでることもないし、備えつけのTVがあるから問題なく過ごせる。

 何よりも、毎日お見舞いに来てくれる紳弥さんと彩華さんのお陰もあるのだろう。

 訊くことでもないと思っていたが、入院の手続き諸々を紳弥さんか彩華さんのどちらかがしてくれたのかもしれない。

 そんなぼんやりと考え事をしながら、お昼前までリハビリを続けた。



「……?」


 戻ると、紳弥さんの姿はなかった。だけど仕事用の黒い鞄が椅子の上に置かれているので、病院内にはいるようだ。

 だからといって探しに行くほど用がない。

 それに仕事で忙しいかもしれないから、変に邪魔してしまう可能性もある。


「瀬川さん、お昼持ってきましたよ」

「あ、はい」


 扉が開くと一人のナースさんが姿をみせ、お昼ご飯を持ってきてくれた。


「あのぉ~見舞いに来てくれた男性知りませんか?」

「え、どうでしょう」


 院内で働く人だから、もしかしたらどこかでみかけているかもしれないと思った。

 だけどナースさんは首を傾げるだけで、知らないようだ。


「ちなみに訊くけど、ご家族の方ですか?」

「あ、いえ、両親の代わりに来てくれてるんです」

「……そう、なんですね」


 何故そんなことを訊かれたのかわからないけど、私は素直に答えていた。

 ナースさんも興味あった風から一転して、仕事モードに変わって病室からでていく。

 それから紳弥さんは戻ってくると、どうやら昼食を摂ってきたらしい。


「悪いな、仕事が忙しくて」

「大丈夫ですよ、毎日のように来てもらってますから」


 紳弥さんの様子からして忙しさは察していたが、椅子に置いていた鞄に手を伸ばす。


「それで退院のことだけど、お医者さんに訊いたらもう少しかかるらしい」

「そうなんですか」

「事故の後遺症はないものの、しばらく寝たきりだったからな。体力的な面でのもう少し回復した方が、学生生活を送るには困らないだろ」

 勝手に容体から過信していたが、病室からリハビリテーションに向かうだけで息があがってしまうのが現状だ。

 そっか、私って一応学生だもんな。


「だからさ、焦らずやってけ」

「ありがとうございます」


 颯爽と立ち去っていく紳弥さんを見送り、私は昼食を摂り終えてぼんやりと病室で午後の時間を過ごした。


「……やっぱり、暇だな」


 それから少し眠くなってお昼寝すると、夕飯の時間になっていたことには驚いた。

 お腹がそこまで空いているか疑問だったけど、ぺろりと平らげるほどには食欲はある。ただ、消灯時間になっても眠れないことが辛かった。

 ベッドの上で横になって瞼を閉じても睡魔は訪れず、何度と寝返りを打つ。


「夜の病院って、どんな感じなんだろう」


 それでも眠れないので、私は深夜の病院を徘徊することにしてみた。

 ちょっとした興味本位の行動に、内心ではビクついてしまう。だって、何か悪さをしている気が否めないから。

 だからバレないように足音を忍ばせ、廊下の僅かな証明を頼りに廊下を進む。

 生憎と近くにはナースステーションがあって明るく、夜勤の人がいるようだった。


「そう言えば瀬川さんっているじゃない」

「ああ、例の女の子でしょ?」


 ……私?

 本当に偶然なのか、私と似た苗字の人が話題に上がっていた。

 立ち聞きをするつもりはなかったけど、夜の病院内は人気もなければ薄暗い。だから余計に声が通って聞こえてきてしまう。


「毎日面会に来てくれる二人、どうやら親戚の人らしいわよ」

「見下しているというか、誰これ構わず高圧的よね。ドクターも瀬川さんの容体を訊かれた時、何かと入院させてあげて欲しいって頼まれたらしいって」

「病院としては構わないだろうけど、学校とか大丈夫なのかしらね。毎日リハビリも頑張ってるし、退院してもおかしくないくらいには回復してるでしょ」

「もしかしたら、訳ありなのかもね」


 そこで話を途切れ、けたたましくナースコールが鳴り響いた。

 咄嗟に隠れようとしても場所は見当たらず、壁と向かい合う形で息を潜める。慌てた様子もなくナースステーションからでていく足音を耳に、遠ざかったことに胸を撫で下ろす。

 どうやらバレずに済んだようだ。……いや、別にお手洗いとでもいえばこんな時間に出歩いていても不自然じゃなく、問題なかったかもしれない。


「……戻ろう」


 まだ眠れそうな気配はなかったけど、もしかしたらナースさんにみつかってしまう。

 何よりも、気になる情報を仕入れてしまった。

 たぶん、紳弥さんと彩華さんのことだよね。

 気になる内容だったけど、ナースさんが口々にしていたのは事実かもしれない。昨日の彩華さんもだけど、今日だって紳弥さんは忙しそうだった。それなのに時間を割いて両親の代わりにお見舞い来てくれている。

 最初は優しくて親切だなと思っていたけど、それは私だけ。

 本当は仕事を休み、自分の時間だって削り、合間を縫ってきてくれているとなると……申し訳ない。

 そんな生活を続けることに、どれだけのストレスが溜まるのだろうか。


「明日にでも、お見舞いの頻度を減らしてもいいっていってみようかな」


 私にできるのはそれくらいで、直接的な言葉じゃなく遠回り気味に。上手い言い回しを考えておいたほうがいいだろう。

 そう思考を巡らせていると、次第に睡魔が訪れてきた。

 だから決して争うことはせず、身を任せるように瞼を閉じる。


 よぉ、いつまで寝てるんだ。


「っ!?」


 聞き慣れない男性の声に、私は咄嗟に目覚めて起きあがった。

 けど病室には誰もいない。

 やけに早まる心拍数に呼吸を整え、胸もとに手を当てて鼓動を感じる。

 直接脳に話しかけてくる、妙に距離感が近くチャラい喋り方。病院での生活を送る中で、私の周りには紳弥さんかお医者さんの二人しか男性を知らない。

 時おり、同じ入院患者のお爺さんに声をかけられることはある。

 だけどそれとは違う。

 明らかに耳なじみがない。

 ……本当にそうか?

 漠然とした恐怖と不安、それと疑問に頭の中がいっぱいになる。


「瀬川さん? どうかしましたか」


 すると、ちょうど一人のナースさんが入室してきた。どうやら朝の検温時間のようだ。

それくらい、時間は経っている。


「いえ、変な夢でもみちゃったのかもしれません……」

「あ~あるよね。やけにリアルだったり、高い所から飛び降りてたり」

「……そんな、感じだったかもしれないです」


 本当はよく覚えてないどころか、鮮明に男性の声が聞こえた。なんてことはいえず、曖昧に笑ってみせた。ナースさんも口角をあげるだけで、手早く検温を済ませてでていく。


「……誰だったんだろう」


 再び一人の時間になって、声の主が誰だったのかと考えてしまう。

 そんな感じで、午前中はどこか浮ついた気持ちで過ごした。午後は気分を変えるためにリハビリテーションに向かって、歩行の練習を繰り返す。そうするだけで気がまぎれたけど、やっぱり気になってしまう。


「うん、これなら松葉杖とかなくても大丈夫かもね」

「そうですか」


 そう太鼓判を押されるも、昨日の話題が脳裏を過る。

 リハビリテーションを後に、念のため脇に松葉杖で身体を支えつつ院内を歩く。試しに何度か使わずに歩いてみたが、それほど苦もなければ違和感もなかった。


「無理はしない」


 だからといって無理はしないようにいい聞かせ、足を延ばすことにした。

 向かってみようと思ったのは、病院の屋上。

 病室の窓からどんな所かみることはできないけど、エレベーターのボタンに【R】という文字が存在している。

 ……案外、私という人間は好奇心が旺盛なのかもしれない。

 それからエレベーターホールを通って、屋上へと足を踏み入れた。


「……おぉ」


 一言に、何もなかった。

 剥きだしの鉄筋コンクリートに、落下防止のよじ登るほどの高い柵。それでも遠くには街並みがあって、近づけば普段は病室の窓越しだった光景が真下にある。

 お昼も過ぎた時間帯だからか、少しだけ蒸し暑く感じる。

 本気ではないが、朝にナースさんと話したことを思い返してしまう。

 高い所から飛び降りる。

 どんな気分かは想像できないけど、下のコンクリートに身体をぶつけるのは痛そうだ。


「けどここ、いいな」


 普段は院内の賑やかで、慌ただしい光景を目の当たりにしている。

 だけどここは、人気がないのか静かだ。わざわざ足を運ぶほどのみどこもないから納得はいくけど、時おり吹き抜ける風が心地いい。

 退屈な入院生活も、ここでなら開放的な気分に浸れそうだった。

 もしかしたら毎日でも来そうな予感がある。

 そこから何をするでもなくぼんやりと立ち尽くし、私は病室へと戻った。


「……元気そうだな、深幸」


 人は本当に衝撃的なことがあると、いったいどんな反応をするのだろうか?

 この時の私は、黙り込んでいた。


「なんだ、俺のことを覚えてないのか」

「……えっと、あの」

「その様子だと、父さんたちも知らせてないのか」


 父さん。……おそらく紳弥さんのことだろうか。そうなると彩華さんがお母さん?

 病室からでてきた男性は紳弥さんよりは若く、私と近い気がする。

 明らかに私を知る人物で、用があったからここに来た。

 だというのに、そうとは思わせない何気ない雰囲気で接してくる。

 茶色の髪は短くて明るく、白のインナーに淡い緑っぽい青のチェックシャツ。濃紺のジーンズポケットからはジャラジャラと銀色のアクセサリーが揺れ、好青年ぽさと悪いお兄さん風が同居している。

 記憶を辿ろうにも、全く心当たりがない。


「どこ行ってたんだ」

「リハビリです」


 妙な緊張に口調が改まるも、男性は気にした様子もない。


「終わったのか? なら入れよ」


 扉の前を譲ってくれた男性だったけど、私の脚は動いてくれない。その場に縫いつけられたように一歩を踏みだせず、その場に立ち尽くしてしまう。


「どうした、疲れてるのか」


 心配気に近づいてくる男性に肩を触れられた瞬間、その場で膝から崩れ落ちてしまった。


「瀬川さん!?」


 気づけば私は倒れていて、呼吸も荒く音が遠のいていく。

 ……案外、この廊下のように地面で倒れると、こんな感覚なのかもしれない。

 それからどうなったかは思いだせず、目が覚めると夜の私にあてがわれる病室だった。


「あの人が、私のお兄さん?」


落ち着いて思考を巡らせると、紳弥さんが兄の存在を口にしていたことを思い出す。

だというのに、そんな風には思えない。

 ベッド脇のテーブルには書置きが残されていた。


『また、明日くる』


 ただそれだけの一文に、妙な胸騒ぎがした。


 何かあれば、手を貸すぞ。


「……また」


 脳に直接語りかけてくる男性の声に、私は目が覚めた。

 今度は何やら予兆めいたもので、困惑を隠せない。

 そして今日、あの男性が来るのだろう。


「もぉ、何なのよ」


 気持ち的にはすでにいっぱいで、朝の検温に来たナースさんと会話する余裕もない。それに朝食もまともに喉が通らずに残して、気づけば面会時間を迎えていた。


「入るぞ」


 扉をノックする音に返事をする暇もなく、男性はズカズカと入室して近くの椅子に腰かける。恰好も昨日と大差なく、シャツとジーンズの色が違うくらいだった。


「容体は」

「特に問題はないそうです」


 お医者さんからはリハビリの頑張りすぎかもしれないと心配され、しばらくは控えるようにといわれた。

 そんなつもりはなかったけど、事故に遭ってから目が覚めて日が浅い。


「で、俺のことは思いだせたか」

「……すみません」


 どこか苛立ったようにため息を吐くと、男性は乱雑に髪をかく。


「あれだけ可愛がってやったのによぉ、深幸。フツー忘れるか?」

「っ!?」


 全身を舐めるような寒気に、身体が自然と反応してしまう。

 それをみて、男性は口角をあげて低く笑う。


「身体は憶えてるみてぇだな」

「こ、こないで」


 逃げようにも私はベッドの上、伸びる男性の手に強く瞼と閉じる。


「家に居所が無いお前のため、俺がどれだけ手を尽くしてやったと思うよ」

「あっ……ご、ごめんなさい……」


 辛うじて発した掠れた声に、男性の手に力が籠る。


「場所なんて関係なく可愛がってやるよ」


 ベッドに押し倒されて、悲鳴をあげる間もなく口もとを男性の手で覆われる。辛うじて息はできるけど苦しく、私なんかの抵抗はただ虚しい。

 た、たすけて……。


「おいおい、まるで俺が虐めてるみたいじゃねぇかよ。兄妹なら普通だろ」


 男性はベッドにまで乗ってきて、私の身体に跨ってきた。そして空いている手が胸もとに、病院着の内側に滑り込んでくる。


「んっ!!」

「暴れんな、このガキが」


 両足をバタつかせ、激しい物音で助けを求める。

 それに男性が口もとを抑える手をひいて、パーからグーへと変えた。


「助けて!!」


 僅かにできた隙に、私はこれでもかという声量で叫んだ。

 そのお陰もあってかすぐにナースさんが駆けつけてくれて、場は一気に騒がしくなった。男性の方は逃げるようにでていったが、どうなったのかはわからない。

 ただ、紳弥さんと彩華さんの家にお世話になっている存在。

 ……色々と話が噛み合わない。

 紳弥さんと彩華さんは【親戚】だといっている。

 だけどあの男性は私を【兄妹】と、面倒をみてくれていた?

 どれが正しいのか。

 いや、何を信じるべきなのだろうか。

 ここで両親に連絡をとれればいいのだろうが、生憎と連絡すらわからない。

 もしまたあの男性が来て襲われる可能性があるからと、自衛のために【面会拒絶】にでもすれば紳弥さんと彩華さんは来れなくなる。そうなると両親の情報どころか、身の回りの物が枯渇してしまう。

 だからといって今まで通りというのも、警戒心がなさすぎるだろう。


「……明日、紳弥さんか彩華さんが来たら訊いてみよう」


 ナースさんには今日だけ【面会拒絶】にしてもらい、紳弥さんと彩華さん以外を通さないようにしてもらった。

 ほんの一時とはいえ安息を迎えたと思えたが、心のざわつきが収まらない。

 気づけばまた屋上に足を運んでいて、陽が暮れるまでその場にいた。

 ……あの男性に助けを乞えば、どうにかしてくれるのだろうか。

 この二日と続く、脳に直接語りかけてくる男性の声。会ったこともなければ、聞き慣れない声をしている。

 何よりも、距離感が近く感じた。

 親しいというか、馴れ馴れしいというか。見ず知らずの私なんかを心配して、何かあれば手を貸すなんて社交辞令も甚だしい。

 けど今は、誰かに頼りたい気分。


「どこの誰かわからないけど、助けられるなら助けてよ……」


 そんな私の願いは、当たり前だけどすぐには叶わない。そうわかっていながらも、自然と口から零れ、誰の耳に届くまでもなく吹き抜けた風に攫われていく。


「……戻ろう」


 気分的に重いけど、病室に私がいないとナースさんに心配をかけてしまう。

 夜の一人という時間。襲われてしまうのではという不安に気を張っていたが、自然と眠気がやってくる。

 どうにか争いたい気持ちはあったが、気づけば眠りに入っていた。


 すべてを知ってなお変わりたいなら、ここに来い。


「……どこなのよ」


 目が覚めて、もう見慣れた白い病室の天井。また脳に直接語りかけてきた男性の声は、明確な力強さがあって気を張れた。


「深幸、今日はどうしたんだ」

「そうよ、急に話があるなんて」

「忙しい中、お二人を呼びだしてすみません」


 私は今、面会時間と同時にやってきた紳弥さんに彩華さんのことも呼んでもらった。どこか戸惑ったような紳弥さんだったけど了承してくれて、しばらくして彩華さんも慌てて駆け込んで来てくれる。

 様子から、あの男性がここに来たことを知らなそう。

 覚悟を決めるように短く息を吐き、震えていた両手で掛布団を握りしめる。


「最初に、毎日のように面会に来てくれることありがとうございます」

「……そんなの当たり前だろ」

「そうね。深幸の両親に頼まれてることだもの」


 ほんの一瞬、困惑の色を滲ませた紳弥さんは肩を竦め。彩華さんも頬を緩めて笑ってくれる。

 ナースさんたちが口にする、当たりの強さを感じさせない雰囲気。

 だから余計、不安がこみ上げてくる。


「その、両親のことで訊きたいんです。……今、何をしてるんですか」


 二人は目を合わせ、言葉を探るような沈黙が訪れる。


「それに昨日、知らない男性が私のことを【兄妹】だっていいながら襲ってきました」


 そこに追い打ちをかけるように、私はあの男性のことを告げてみた。


「紳弥さんと彩華さんには本当に感謝しています。だけどさすがに、ああいったことがまたあるかと思うと怖くて……お医者さんもいつでも退院――」

「アイツ、変なこと口走ってないだろうな」

「……紳弥」


 私の話を最後まで聞くどころか、紳弥さんはバツが悪そうな表情で舌打ちする。それを彩華さんは窘めるようで、どこか露骨なため息をついて腕を組む。

 ……雰囲気が変わった?

 さっきまでの穏やかだった空気がガラリと変わり、私は戸惑いを隠せない。

 ただそれだけで、如実にすべてを物語っている気がした。

 紳弥さんはどこか乱雑に髪をかき、吐きだすようにため息をついて顔をあげる。


「この際だから全部を打ち明けるよ」

「そうね、いい加減この生活も疲れてたし」


 露骨な刺々しい態度と言葉遣いに、急激な喉の渇きを感じさせられる。


「まず伝えておかないといけないのは、深幸。お前の両親はもういない」

「えっ」


 言葉での急に頭を殴るような感覚。


「そのことも覚えていないのね。……だったらあのまま目が覚めないでくれた方がよかったのに」

「やめろよ、彩華。こうして医者にも頼んで入院生活を長引かせてるんだ、それで我慢する約束だっただろ」


 嘲笑うような口調で、彩華さんは表情を豊かに変える。


「もう今さらでしょ? 家の雑用する人がいないと毎日面倒だし、紳弥だって仕事のストレスをこの子に吐きだしてたくせに」

「それは彩華もだろ」


 ……この二人は今、いったい何を話しているのだろうか?

 停止しかける思考をどうにか動かし、どんな言葉を投げかければいいか模索する。


「それで、深幸の用はこのことか?」

「なに? そのことで私達に時間を割かせたの?」


 だけど二人は、そんな余裕を与えてくれない。

 ああ私、知らないままの方が幸せだったのかな。

 今まで目の当たりにしてきた現実のすべてがウソで、私がこの手で崩してしまった。


「だから子供を育てるのは嫌だったんだ」

「けど、保険金のためでしょ? 親戚達を黙らせるために二人を引き取って、兄の方は使い物になるけど……この子はね」

「そんな兄貴にも、歪んだ愛情を向けられてるようだったけどな」

「ホント、それで私にまでイヤらしい視線を向けるの止めてほしかったわ」


 もうこれ以上、聞くに堪えなかった。

 吐きだされる二人が抱く、数々の思惑。

 それとあの男性が兄という、真実。一切名前を思いだすどころか、私に対して普段からああいったことをする人だという印象を植えつけられた。


「おい、どこにいく」

「離してください」

「悪いけど、アンタには一生ここで過ごしてもらいたいの」


 ベッドから抜けだして、どこにいくでもなく病室を後にしようとしていた。

 だけどそれを紳弥さんが腕を掴んで阻み、扉の前には彩華さんが立ち塞がる。


「たとえそうだとしても、一人で――」

「手のかかるガキだな」


 言葉を遮る痛みが、私の左頬に走る。

 あまりにも急だったことに間が抜けて、床に尻もちをついていた。


「ちょっと、加減ぐらいはしなさいよ」

「したさ。こいつが大げさなだけだって」


 左頬に触れて、ようやく痛みを再認識する。

 憶えてる、この感覚……。

 気づけば全身が震えていて、立ちあがろうにも力が入らない。


「ほら泣きだした。変に疑われる前にどうにかしてよね」

「たく、黙ってベッドで寝てろ。……鬱陶しんだよ」


 襟もとを引っ張りあげられて息が苦しい。


「はな、離して……」

「なら手間かけさせるな」


 そのままベッドへと突き放されて、脇腹を手摺にぶつけてしまった。


「瀬川さん、大丈夫ですか?」


 すると、タイミングよく扉の向こう側からナースさんの声が聞こえてきた。軽く扉をノックする音に続き、ゆっくりと扉がスライドしていく。


「……どうかなさいましたか?」

「何でもないです。ちょっと立ち上がろうとしたところ、ふらついちゃったみたいで」


 今さらながらも繕った猫なで声の彩華さんに、ナースさんもどこか困惑気味の様子。


「ええ、リハビリも順調とのことでせっかくだから一緒に売店にでも行こうと誘ったんですけど……焦りすぎましたかね」

「そうですか、あんまり無茶させないで下さいね」


 さらに紳弥さんが言葉を続けて、ナースさんも曖昧に頷いてみせる。

 ここで逃げださないと、私は……。

 そこで話は終わりと扉が閉まろうとするのを、私は紳弥さんを突き放す形で力いっぱいに追いやる。遅れて気づいた彩華さんにも全身でぶつかり、どうにか病室からでることに成功した。


「あのガキ!」

「紳弥! 今すぐ追いかけて!!」


 後ろから罵声のような叫びを耳に、私はあてもなく廊下を走っていた。

 歩くことには太鼓判を押されていたけど、走るとなるとまた別だったようだ。何度か躓きそうになりながらも足をもたつかせ、エレベーターホール前を通り過ぎる。

 ここで来るのを待っていて、捕まったら元も子もない。

 人目があろうとも二人のあの様子、容赦なく手をだしてくる可能性がある。

 そうなると周りに迷惑をかけてしまう。

 だから私は階段のある方へ、すれ違いざまに騒ぎで驚く入院患者さん。ナースさんたちを置き去りに急ぐ。

 どこに行くかは決めていない。

 だけど、何となくどこに行けばいいのか直感が伝えてくる。

 すべてでもないがほんの一部、私が置かれてきた状況を知ることができた。だからって好んで身を置きたいかと問われると、答えはNOだ。

 じゃあどうすれば変われるかと考えるよりも、あの男性の声に従ってみる。

 何度も足を止めそうになりながらも、どこからと反響する紳弥さんの叫ぶ声から逃げるように階段を上った。


「はぁはぁ……」


 そして気づけば、病院の屋上へとたどり着いていた。

 両肩で息を切らしながら、苦しさに何度か咳きこんでしまう。

 だというのに、何もないこの鉄筋コンクリートが剥きだしの屋上は変わらない。

 はずだった。


「柵が……ない?」


 ほんの一部分、一人くらいなら通り抜けられる空間があった。注意してみなければ気遣ないだろうけど、そこから街並みを眺めたことは記憶に新しく覚えている。


「冗談、でしょ……」


 それは安易に、そういうことなのだろうか。

 見ず知らずどころか、直接脳に語りかけてくる男性の声に従う。冷静に考えればそれはただの妄想で、この先に何が待っているのかは明白だ。

 けど、気づけば吸い込まれるように足を運んでいた。


「……案外高いな」


 見下ろすと足が竦みそうで、馬鹿なことをやっている気分になった。

 だけど、やけに空を近くに感じて手を伸ばしてしまう。

 それは柵の向こう側では抱かなかった感覚で、もしかしたら緊張から気分が高揚しているのかもしれない。


「バイバイ、私」


 こんな気持ちは、初めてじゃない気がした。

 何度となくそんなことを考えながらも惰性に生き、いつでもいいと内心では覚悟を決めていたのかもしれない。

 家族である兄からは歪んだ愛情を向けられ、親戚として引き取ってくれたあの二人からは子供としてではなく使用人。恐らく周囲にはいい顔をして、ナースさんたちが口にしていた通りが素なのだろう。

 だからあの日、轢かれそうになった子を助けたのだろうか。

 私の代わりに生きてほしいという、我儘で単なるエゴ。自分勝手だと思われるだろうけど、それくらい私の心が悲鳴をあげていたのかもしれない。

 もし叶うなら、あの時に助けた子が無事かを知りたいものだ。

 よく晴れた青空が遠くなっていくのを眺めながら、最後まで我儘だなと思ってしまった。

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