プロローグ:終わりの始まり
――◆――◆――◆――
「……あっ……うぅ……」
声帯を震わせて言葉を発しているはずなのに、上手く言語化できているか定かじゃない。
それにどうして、私は地面に倒れているのだろうか?
全身が疲労とは違って、鉛という表現が適さないほどに動かない。必死に脳へと命令を送っているはずなのに指先一本すら動かないでいる。
いったい何があって、こうなってしまったのか?
「君! 大丈夫かい!? だ、誰か救急車を呼んでくれ!!」
辛うじて聞き取れた、見知らぬ男性の叫ぶ声。どうやら聴覚はまだ健在のようだが、けたたましい音が鳴り響いて五月蠅い。
まったくもって置かれた状況が把握できず、だんだんと意識が遠くなっていく。
目に見えない何かに引っ張られる感覚に身を委ねてしまいたい。
「……あっ……」
「お、おねえ……さん……」
重くなる瞼を閉じようとして、視界の先で母親らしき女性に抱きしめられた少女と目が合った。見た目からして小学生低学年くらいか、今にも泣きだしそうなほどに顔をクシャクシャに歪めている。
それでようやく理解した。
ああ、私……あの子を助けようとしたんだ。それで、飛びだしてきた車にぶつかって……。
それからどうなったかは考えるまでもない。
「ぶ、無事……だっ……た……」
本当にたまたまで、見ず知らずの少女だ。助けようとかいうカッコいい正義感で庇ったとか、そんな利口な考えを抱いていない。
気づいたら、少女の手を引っ張って助けようとしていた。
あげく、この有り様だ。
恰好すらつかなくて笑えてしまう。
数時間もしないうちにSNSで拡散させられ、翌日の報道番組に一瞬だけ取りあげられる程度だろう。
十七年という短い人生、こんなもんだと一笑したくなる。
けど上手く声がでない。
さっきまで聞こえていた音が遠ざかり、さっきよりも意識がハッキリとしなく、瞼も重くなっていく。
――◇――◇――◇――
「――っと! ――なさい!!」
「うぅ~~……ん?」
叫ぶ女性の声に、薄っすらと瞼を開く。
「やぁ~っと起きた! こんなところでなに寝っ転がってんのよ?」
こちらを覗き込む女性は若く、年齢的にも二十歳くらいか。どこか垢抜けた感があり、服装もラフにシャツ一枚。前かがみの体勢だけあって、襟元から豊満な胸の谷間がみえそうでみえない。
射す陽の光を遮る短めの茶色い髪が、吹き抜けた風に揺れる。
「えっと~ここは……?」
全身が重く感じて、起き上がるのも一苦労。
だから地面を転がるようにして身体を仰向けに、空の青さに劣らない黄色っぽさを含んだ水色の瞳と合う。
すると女性が、踝が隠れるくらいのスカートだったため目もとが覆われてしまう。
よく男子が女子のスカート丈が短いだけで興奮していたけど、生憎と薄暗いため桃源郷のような光景は広がっていなかった。
って、見たところで同性同士だしな。
体育の授業、更衣室で着替えるから見慣れたものだ。
「いつまで覗いてんのよぉ!!」
「あいだぁ!?」
だけど容赦遠慮なく、顔面を踏みつけられてしまった。
それにさっきから誰だろう、この聞き慣れない男性の声は?
あまりの衝撃に両手で顔を覆い、のたうち回るように地面を転がる。
「いくら見慣れてるからって、場所くらいは考えなさいよ。このクズ!」
「そ、そういう問題か……?」
言葉の意味合いを深く追及すると、この女性とはすでにそういった関係なのだと想像できてしまう。
そっか、この世界では同性同士でも普通なのか。
決して私に女性同士の百合思想があるわけでもなく、そういったコンテンツとして様々な創作物を雑多に触れてきた。
そういった関係で、浅からず深い知識は得ている。
なんせ、各都道府県や区町村によって制度は異なるもののメンバーシップ制度が存在しているのだ。時事問題として押さえておいても、今後の受験に差しさわりはないだろう。
世間の常識を当たり前のように知っておかなければ、大人になった時が大変だ。
そう、教わってきた。
でないと、未成年である私なんかは生きていけない。
良い子であるように、あらねばならないと、幼い頃から環境がそう押しつけてきた。
「ごめん、軽薄だった」
「……急に何よ、謝るなんて」
何やら警戒色を滲ませられるも、私としては素直な気持ちで謝罪したつもりだ。
いや待て、私とこの女性はどういった関係なんだっけ?
まったくもって思いつかないどころか、十七年という人生で異性・同性を含めて付き合った経験が無い。
いつ、どんな出逢い方をしたら、こんな女性らしい人と付き合うことになったのだろう。
「ループス、また飲み過ぎて頭でもぶつけたの? お願いだから節度を持ってって……はぁ、言っても無駄か」
「……ループス?」
聞き慣れない名前に呼ばれ、辺りを見回してしまう。
誰を指したのかは、この場に私と目の前の女性しかいないので判断がつく。だからといっても、私の名前は……あれ? 思いだせない?
「本当に大丈夫? いつになっても帰ってこないから心配で探してみたけど、よっぽどのことでもあったの?」
考え込むように女性は顎に手を当てると、一瞬黙り込むと睨みを利かせてくる。
「……まさか、また別の女に言い寄られてたとか」
「いや、そんな不純な付き合いはしたことがないぞ」
「ど・のぉ! 口が言ってるのよ!!」
女性のこれでもかという力加減で頬を抓られる。
「アンタがどれだけの女たちに養ってもらってきたか知らない仲じゃないのよ? どうせ私もその内の一人だし、働きもしなければいつもフラフラしているグズ男だって知ってるわ。……はぁあ、どうしてこんな男が良いのかしらね」
それを私に問われても、適切な回答を用意できない。
……それよりも、え? 誰がグズ男だって?
そこはせめて、クズじゃない?
一切状況がのみ込めず、露骨に肩を落として息を吐く女性を見つめるしかできなかった。