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七日目。
今日も走る。
ずっと走り続けているような気はするが、疲れは感じない。体力がついたのか。違うか。実際、この世界でどのくらい時間が流れたのかは正確には分からないが、この世界に来る前から走り込んでいた時間の方がよほど長い。だから、これはきっと慣れとかそういうものなのだろう。
相変わらず代わり映えしない景色にそんなことをオワリは思う。
「……はぁ」
足を止めた。
疲れはない。一生走り続けたって疲れないもではないかなんて思ってしまうくらいには疲れていない。しかし、足は止まってしまった。
「これじゃだめだ」
老いも飢えもない。しかし、疲労はたしかにあって、そこから眠気も生じる。寝て起きて。それを一日とカウントすると今日で一週間。やっていることはランニングと筋トレだけ。それが無駄とはまでは思わないが、あまり身についたという感覚はない。せめてナイフが欲しい。素振りがしたい。そうでなくてもランニングと筋トレ以外のことがしたい。
今のままじゃ、たとえ千年あっても、ただ基礎体力が伸びるだけでエンデのようには絶対になれない。
何か、この状況を変える何かが欲しい。
六十日目。
オワリはランニングと筋トレの日々に完全に飽きていた。
あくまで睡眠と起床の一セットで一日と数えているので正確な日数ではないのかもしれないが、おそらく二ヶ月に近い月日が経った。
それを終えてオワリが思うのは、景色の変化とさまざまなことを組み合わせて行うことが長続きの秘訣なのだということだ。
外では半年近く毎日ほとんど同じ特訓のメニューを組んで行っていた。朝起きて軽くストレッチで体をほぐしたあとにランニング。それが終われば各種筋トレ。食事をとったあとは気が済むまで素振りと人形相手に狙いを定める練習。そして、日が傾き始めた頃にまたランニング。そのあと寝る直前にストレッチで体をほぐして就寝。
同じようなメニューを毎日こなすという意味ではこちらも外も大して変わらないが、変わらないからこそ、景色の変化とメニューの豊富さの重要性が身に染みて分かった。
「……何か、違うことがやりたい。道具を使うようなことが」
間違いなく体力と筋肉はついた。ここに来た頃よりもよほどペースを上げて走っているが、息一つあがることは無い。鏡がないので全身を見ることができるわけではないけれど、見ることができる範囲だけでも自分の肉体に来た頃と比較して明らかに質の良い筋肉がついていることが分かる。しかし、だからといって何か達成感があるかと問われるとそんなことは無い。最初に自分の変化に気付いた時は努力が報われたような気がして喜んだが、代わり映えのしない毎日にそんなものはすぐに消えた。
限界まで鍛えたとまでは全く思っていない。これからも続ければより良い状態への成長は見込めるだろう。しかし、そんなのはどうでもよかった。今、オワリが求めているのは劇的な変化だった。なんだっていい。視覚的な変化でも聴覚的、嗅覚的な変化でもいい。なんでもいいからとにかく変化が欲しかった。
走れば走るほどに、鍛えれば鍛えるほどに募っていく虚無感をどうにかしたかった。
百日目。
オワリは悟った。
飽きたなんておこがましい。虚無感なんて感じられるほどに成長できていない。むしろ成長できていないから、精神的弱さがあるからそんなことを感じるのだと。
それに気づいてからは完全に飽きたと感じていたランニングと筋トレがとても新鮮なもののように感じられた。
一歩踏み出す際の足から地面への力のかけ方やかけるタイミング。腕の振り方、視線の置き場所、舌の位置、呼吸のタイミング。ありとあらゆる走る際の要素を考え最適化する方法を貪欲に求めた。長距離をただひたすらに走るのではなく、短距離の走り方も考えるようになった。
筋トレのラインナップは増えた。これまではただエンデに勧められた内容を淡々と作業のようにこなして来ていた。それでもたしかに筋肉はついて、そういう意味では成長したと言える。しかし、それでは到底満足などできなくなった。どの部分を鍛えたいのか。どうすれば負荷をうまくかけられるのか。熱心にその手のことに勉強をしたことなんてなかった。だから、学校の授業でテストの点を取るためだけに入れた知識を引っ張り出し、興味本位で手を出した『筋トレのススメ~不健康の代名詞とまで言われた俺がたった三日でゴリラに!?~』なんて頭の悪そうな本で得た一生役に立たないだろうなと思っていた知識を総動員して自分なりのトレーニングを編み出した。時には失敗して良くない負荷のかけ方をしてしまったために体が壊れてしまうこともあったが、この空間では自殺をできないようにするためなのか傷の治りが異常に速いので特に問題もなかった。
体力も肉体も、考えるということを放棄していた頃に比べて一段階上のステージに成長を遂げることができた。オワリは自分をそんな風に評価した。どんな小さなことであっても考え方一つで色んなことがよくも悪くも変わるのだ。そのことを知れて本当に良かったと思った。
一年後。
何が考え方だ。ふざけるな。くだらない。
オワリは自分の考えを全否定した。
己の限界が見えてしまったのだ。
それは日々の特訓が辛いことから生じる弱音でもなければ、日々の特訓のマンネリ化による伸び悩みから生じた愚痴でもない。
たかが一年。しかし、その一年はただの一年ではない。睡眠と起床によって一日のカウントをしている以上、当然少なくない時間の狂いは生じる。そのうえ、食事も排泄も入浴も、人が人として生きるうえで行われる営みの一切が必要ないオワリの一日はその全てが己の鍛錬に充てられていた。疲れで体が動かないなんてことはとっくの昔になくなっていた。仮にあったとしてもこの空間の回復能力があればほとんど問題にもならなかった。本当の意味でオワリの一日は鍛錬に始まり鍛錬で終わっていた。
今日もオワリは自分を一段階上のステージに押し上げるべく体を極限まで酷使していた。最近、伸び悩んでいたことも重なりいつも以上に過酷なトレーニングに勤しんでいた。
そこでオワリは唐突に知ってしまった。自分にこれ以上の成長がないことを。
どうしてかは分からない。ただ、何となく分かってしまった。これ以上は無理だと。もう、これ以上はないと。今のこの状態が、自分の最高だと。
何かに理解させられた。
認めたくはなかったが、それは腑に落ちた。改めて考えてみれば当たり前の話。この世界の人間と自分では明らかな基本スペックの差がある。それと魔力という差が。同じ人間という種族だけれども、明らかに自分が元々いた世界と比較してもこの世界の人間は平均的に優れすぎている。それこそ魔力という点を除いても。行きつく先が、限界が同じなんて、そんなことあるはずもなかった。
努力も知恵も工夫も何の意味もない。それこそ、人間をやめなければ、強くなれない。
オワリは、その日初めて、寝るわけでもないのに鍛錬をやめた。
十年後。
オワリは空間を、空間を形作る何かを掘っていた。
もはやそれがいつからのことだったかですら分からない。己の限界を知ってすぐのことだったかもしれない。それから何十日、何百日と過ぎた頃のことだったかもしれない。とにかく過去のことだということしか分からない。
しかし、その目的は鮮明に覚えている。今なお抱えている。
『帰りたい』
その願いだけがオワリを突き動かしていた。
己の限界を知って、強くなれないのだと知って、形容しがたい感情に襲われたオワリの唯一の願いがそれだった。今以上の強さが望めない以上、もはやこんなところにいる意味すらない。だから、何もないこの世界から色と音に溢れた世界に帰るのだ。
オワリは掘り続ける。灰色のタイルのようなこの世界を形作る何かを。
手がボロボロになって感覚が消え失せてもそれでも掘り続ける。掘り続けた。
そして、その瞬間は突然訪れた。
ひたすら何かを掘り続けるオワリの手が空振った。何もない箇所に触れた。底が抜けたのだ。オワリは声にもならない喜びの声をあげた。灰色に囲まれた世界から抜け出ることのできることに歓喜した。手が血だらけなのも忘れて一層勢いよく出来た穴を広げ、体を滑り込ませて下へと落ちる。これで外に出られるかもしれないという一縷の希望を持って。
そこには灰色の世界が広がっていた。
オワリは声にもならない悲鳴をあげた。