36
ヒイラギ・オワリは学生だった。
その日は休日。
所属していた部活も数少ない休日であり、一日完全に空いていた。
何をしようか。どうやって過ごそうか。家に籠ってゲームをするのもあり。数少ない友達を家に呼んで複数人でゲームをするのもあり。
なんなら普段は絶対やらないような授業の復習や予習なんかに手をつけるのもありだった。
もちろん家の中に留まる必要なんてものはどこにもない。勉強をするにしても図書館へ行って静かな紙の香りのする空間で落ち着いて取り組むというのも一つの手ではある。そのあとにでもゲーセンやカラオケに行けば、勉強も娯楽も寄せ集めた最高の一日になることは間違いないだろう。
「……ん」
まだ見ぬ休日に想いを馳せていたその時、机に置いたスマートフォンからメッセージの届いたことを知らせる通知音とバイブが響く。
見ればそれは同じ部活に所属する友人からの「昼から遊べないか?」という遊びの誘いのメッセージ。その瞬間、オワリの中で午前中は勉強、昼からは遊びに行くというパーフェクトな計画が組み立てられた。
すぐさま「りょーかい」と返事を返すと寝巻きを脱ぎ捨て着替える。
そして、かばんに財布とスマートフォンと最低限の筆記用具、それから参考書を詰めて家を飛び出すと――そこは森の中だった。
「……え?」
木、木、木。
とにかく木だらけ草だらけ。
「なにこれ……?」
オワリの家の外はコンクリートの道路があるはずだった。少し進むと止まれの標識とカーブミラーがあるようなそういう普通の道路があるような場所だった。決して緑の香りがするような場所ではなかった。
それが家から一歩外に出たと思えばこの有様なのだ。
風が吹けば葉がこすれて木々のざわめきが心穏やかになるような音色を奏でる。少し湿ったような冷たさのある空気が肌を撫でる。
これが林間学校か何かで森に訪れていたとかならオワリも状況を存分に楽しみ、非日常の空間に浸っていただろう。
しかし、そうではない。
もう一度言うが、オワリはただ家を一歩出たに過ぎないのだ。それが気付けば森の中である。
木々のざわめきは不安を煽る材料にしかならないし、湿った空気など気持ち悪さを感じる要因にしかなり得ない。
「…………なんか、ヤバい」
状況は少なくとも良いものではない。
それをこの数秒で察し、ひとまず家の中に戻ろうと振り返ったオワリが見たのはただひたすらに木が立ち並ぶ森の風景だった。
家などどこにもなかった。むしろこんなところに家があったら逆に驚きだというくらいに森だった。
「……は、ははは」
思わず乾いた笑い声が漏れる。
状況の理解はできない。できないが……とんでもないことに巻きこまれてしまったという事だけは嫌というほどに分かってしまった。
「これ……ほんと、何が起きた……?」
いっそ狂ってしまえた方が楽なのではないか。いや、むしろすでに狂っているのではないか。
そんな現実逃避じみたことに持っていかれそうになる思考を無理やりに現実へと引き戻す。
夢や幻の類ではない。
頬をつねるまでもなくスニーカーごしに伝わる土の感触が、露出した肌に触れる風が、鼻を通じて認知される緑の匂いが。
状況の一つ一つが現実離れした現実であることを嫌というほどにオワリに教えるのだ。
「……俺は、勉強しに行こうとしたんだよな?」
何が起きたのか。
考えてみても答えは出ない。
それは情報が足りていないことを意味する。
だったらやることは足りない情報を集める以外にない。
「そのあとは遊びに行く約束もしたんだ」
そのための振り返り。自身が事態を把握できていた状態に起きた出来事を振り返る。
「それから服を着替えた」
黒と白のボーダーTシャツの上にベージュのチェスターコート。
黒のスキニーパンツにモノトーンのスニーカー。
何も変わっていない。つまり、それ以降記憶にない着替えをしたということはない。
「それで、鍵が一つだけ締まっていたからそれを開けてドアを開いて……外に、出ただけだよな?」
何一つ新しい情報を手に入れることはできなかった。
「いや……。ほんとなんだこれ……?」
何一つ状況はつかめない。ただこのままではまずいという根拠こそないが確信の持てる嫌な予感だけがあった。
それでも行動には反映されない。このままではまずい。それは分かっていてもそもそもここから動くべきなのか、それともここでもう少し何が起きたのかを考えるべきなのかの判断もつかない。
「……珍しい休みの日に遊びに行こうとしただけなのに……」
無駄とは知りつつも思わず愚痴のような言葉が口をついて出る。そのくらい八方塞がりの状況だった。
「グルゥ……ッ」
「…………嘘だろおい」
そんなこれ以上落ち込みようもないほどにオワリにとっては最悪の状況。
それは木の陰から現れた黒くバカでかい狼のような生き物によっていとも簡単に更新される。
もちろん最悪な方にだが。
「……ハ、ハロー」
「グルゥァァアッッ!!」
オワリは悟った。
あ、これダメな奴だ、と。