病院へ その183
アジシオを撒かれると、ハンドルを握っていた手は、すっと消えていった。
ビデオのモニターを見ながら、桜木は俺の前の席に割り込んで、窓を開けている。
ハイエースの中席には、窓ガラスに小さな開口できる窓が付いている。それをアジシオの瓶を持った手で器用に開けたのだ。
そこから手を出して、車の外にアジシオを振っている。ビデオモニターを見ながら撒いているので、そこに何かいるのだろう。
「本当、見事に効いてるぜ」
「当たり前だ、ベランダの猿で実証済みだ」
「ああ、アルバイトの時な」
桜木は、何もいない車窓を見ていたが、視線が車の後方に移って行く。
「カラシはつかわねぇぞ」
「全くお前は、キスしたくなるほど好きだぜ」
桜木が俺の方を見ながら、自分の席に着く。
「まだ、ズボンのベルトは緩めるなよ」
俺は鬱陶しいそうに窓ガラスを閉めた。
「誰が緩めるかよ!」
「あなた達、そう言う関係だったの?」
「いやらしいわね」
栃原部長代理と葉月が、調子を合わせて乗ってきた。
「違げぇよ!」
(早っ! ここはもうひと乗りしないといけないだろう)
俺は、桜木のジョークに不満を持っていた。
「たとえ世界が壊滅しても、こいつとだけは嫌だね」
「じゃあ、あの夜の事は、全て嘘だったって言うのね」
仕方がないので、俺の方が乗って見た。
「何もしてねーだろ!」
「いつだよ!」
「きゃー! ちゃんと責任を取りなさいよ」
車内は、下品な話題で盛り上がっている。
「あのぉ……、あいつはどうなって……。」
運転席から佐藤先輩が聞いてきた。
総合病院に着いたら、ハイエースの助手席からストレッチャーに乗せられて、矢嶋先輩は運ばれて行った。
佐藤先輩は矢嶋先輩に付いて処置室に入って行ったので、待合室には俺たち高校生組しかいない。
「矢嶋先輩は大丈夫かな?」
桜木は、どうやら矢嶋先輩の体の具合が気になっているようだ。
「まあ、大丈夫かと聞かれたら大丈夫だろう。我が校の代表みたいな二人が治療していたのだからな」
「でも、左手と左目は、もう元には戻らないぜ。なんせ食っちゃったのだからな」
俺は小気味よく笑った。
「お前、なんとか出来ないのかよ」
「いや、俺は何もしないよ」
「家に帰るまでが遠足だからな」
「何だよそれ」
「約束なんだ。葉月と」
俺は、離れて座っていた葉月を親指で指した。
「はあ、何だそれ」
「それに、なんで『いいね』なんだよ」
桜木は、意に解さない風だったが、気にも止めていなかった。
処置室から、佐藤先輩が出て来た。
矢嶋先輩は、このまま入院になるらしい。
「矢嶋のご両親は夕方になるらしい」
「すまない。お前らは警察の調書が有るから、これから一緒に警察署まで来て欲しい」
佐藤先輩は、今回の事が事件になって、報告に行かなければならない事を説明してくれた。
病院から警察に通報したのだろう。まあ、普通は事件だわな。
そして、佐藤先輩は俺たちと一緒に警察署まで俺たちと移動する事になった。
深夜の病院を後にして、血塗れの若者六人が深夜の警察署に移動した。
矢嶋先輩を応急処置した者達は全員が血塗れなのだ。
女生徒達は、婦警さんが取り調べを行い。特に参っていた富士見さんは、会議室でココアを飲みながらの取り調べになった。
普通、取り調べでは、何度も同じ事を聞くのだが、全員が同じ証言を何度もするので、「肝試しに廃病院に来た若者達が、恐怖のあまりヒステリーを起こし、取り憑かれたと信じた一人が自傷した」と言う事になった。
朝の8時過ぎに警察署を放免されたので、佐藤先輩以外は、電車で帰宅する事になった。
そして、再度午後6時に、矢嶋先輩が入院している病院に、様子見と見舞いに行く事になった。
しかし、新幹線を使っても、3時間ほど掛かるので、着替えに帰るようなものだった。タクシーで宇都宮に出て、東京経由で帰るのだが、よく止められなかったと思う。
葉月をマンション下まで送り、帰宅し、風呂に入る。その後、サザンに必要なお札と薬を作ってもらうと、もう出かける時間になった。
昼ご飯に何を喰ったかも覚えていない状態だった。
午後二時半に橋本駅の改札前に集合した。
桜木と富士見さんがすでに来ており、魔法部の二人はまだだった。
「こいつが、何故人気があるのかがほんと謎だわ」
何故か富士見さんが絡んで来た。
「好かれるような事はしていないが、嫌われるような事もしていない」
「それに、俺はクラスでも人気はない。まるで空気だぞ」
「何とか言ったな。スクールカーストの底辺ってやつだ」
俺は、自分の置かれた状況を説明しておいた。
「あはは、魔法学科じゃ、確かに底辺だ。仕方がないや」
桜木は笑っている。
俺が好かれていないのは、今に始まった事ではないからだ。
「あなたが嫌われるのは、能力がないからじゃなくて、その態度よ」
「まあ、藤波君がそのような態度を取るのは、いまに始まった事じゃないわよ」
「それに、嫌われてもいないし」
突然、後ろから栃原部長代理の声がする。
「万人向けでは無いけど、一部には好かれているわよ」
「何処がですか? それって一部過ぎでしょ」
「1、2、3、4、5。五人も思い付くわよ」
栃原部長代理は、ちょっと上を向いて、右手の指を折っていった。
(五人か? 俺が自分では五人も思いつかないよ)
俺は軽くお辞儀をし、少し遅れて歩いている葉月の方に微笑んだ。
どうやら、同じ電車に乗っていたのだろう。
全員揃ったので宇都宮に向かう。
新横浜で新幹線に乗り換えて、東京で再び乗り換える。
高校生なので、小遣いが無く、自由席での移動なのだが、それでも痛い出費になった。
東京駅からは始発なので自由席でも座れるので、俺は葉月と二席側の椅子に座っている。桜木は、栃原部長代理と富士見さんと3人掛けの椅子に座っている。
昨夜、寝ていない俺達は瞬時に落ちた。
「起きなさい。もうすぐ着くわよ」
栃原部長代理が、俺と葉月を優しく起こしてくれていた。
短時間の、50分程の乗車なのだが、一瞬だった。その間の事を全く覚えていなかった。
俺たち一行は、在来線に乗り換えて、最寄駅から中型タクシーで病院に行く。
コラムシフトの中型タクシーは、乗客が五人乗れるからだ。
病院に着くと、佐藤先輩が降りて来た。後ろに年配の男女が付いて来ている。多分、矢嶋先輩のご両親だろう。
「容態は変わらないが、明日、緊急手術で切断するらしい」
佐藤先輩は、重々しく話し、何を切断するかは具体的に喋らなかった。
佐藤先輩は、まだ、服は血まみれで、眼はギラギラと落ち込んでいる。あれから、全く寝ていなかったのだろうし、着替えにも帰っていないのだ。
「あなた達は、いい歳をして、一体何をしているのですか?」
「うちの子は、あなた達のせいで腕を切らないといけなくなったのですよ」
「あの子の一生をどう責任を取るつもりなのですか?」
「お前、もうやめとけ」
「この子達より、伸治の方が年上だ」
「責任を取らないといけないのは、伸治の方だよ」
多分母親の方と思われる女性が、すごい剣幕で怒っているのを父親と思われる男性がなだめている。
「すみません」
佐藤先輩が、ひたすら謝っている。
「事件の状況は聞かれましたか?」
「責任を言われますが、取材内容は事前に説明してあり、納得して同行していたと思われます」
「本人は疑っていた様ですが、危険な状況も伝えて有ります」
「全くもって、彼の気の緩みと不注意からの……。」
ガスッ!
俺がその女性に反論し出すと、葉月が俺の脇腹に肘鉄を入れ、手を引いて皆から引き離した。
ガチャン!
俺は微糖コーヒー、葉月にはりんごジュースを買う。
缶コーヒーは無糖より微糖の方が飲み易い気がする。香りは無糖の方が良いのだが。まあそこは、好みの問題なのだろう。
因みに、勉強中の時は、糖分をしっかり取って血糖値を上げるのが良い。脳がカロリーを大量に消費するからだ。
「どうして、いつも、いつも、いつも、いつも、余計なことを言うの!」
「あなたがあんなこと言うと、佐藤先輩の立場が悪くなるでしょう」
「そうならない為に、正確な情報を伝えて上げないと、正しい判断が……。」
「なるの!」
日曜日の午後の病院に、葉月の声が響く。
1月の終わりの日曜日の午後、もう辺りは暗くなり始めている。
総合病院は、受付と救急外来の方は電気が点いているが、他の部署は、半分の証明が落としてあり、少し暗い。