85.あなたの従者
◆現世◆
従わなければ殺されると思った。だから歌った。
夕一は肩で息をしつつ喉を押さえた。けほっとひとつ咳が出た。
あまりにも狭く防音機能もないであろう生徒会室という舞台。分厚い遮光カーテンが締め切られているのに、電気ひとつついていない薄暗い空間。観客は夕一の天敵が一人きり。状況が何一つ理解できない。
ただ「歌え」と命令された夕一は、死に物狂いで持ち歌を歌った。そして歌い切った。歌い切ってから、自分が置かれた状況へ考えが至り、外の人間に聞かれたのではないかと心配が湧き出、羞恥心と自己嫌悪で顔の熱が上がったり下がったりを繰り返す。
「ここは校舎の端だ。授業中でも誰にも聞こえやしない」
腕を組み、椅子にかけてただ熱唱する夕一を据わった目で見ていた六堂が、ようやく口を開いた。
歌えと脅した割には意外な第一声だった。ここで悲鳴を呼んでも誰も助けになんかこないと脅されているのかもしれない。もしかしたら歌が気に入らなかったのだろうか。恐怖のせいで声色の感情がブレていたかもしれないが、音は一音も外していないはずだ。
疑心暗鬼と羞恥心と自尊心で訳がわからないことになっていると、六堂が音もなく立ち上がった。
「アイツ、何を適当なことを言ってるのかと思ったが……案外声で判別がつくものだな」
苦笑するように呟き、足を一歩踏み出してきた。あっという間に夕一は腕を掴まれ、ひいと情けない悲鳴を上げたが、今度はぐいぐいと引っ張られることはなかった。
緩やかに腕を引かれるまま暗闇の中を歩き、気がつけば夕一は椅子に座って机に向かっていた。
「あっ、あ、あの……」
「フェルマータ」
「あ……」
机の向かいの椅子についた六堂は、こちらを真っ直ぐに見てそう言った。
この部屋に光源はなく、カーテンの隙間から指す日光と廊下側の扉の窓から差し込む蛍光灯の灯りが夕一の闇に弱い目をささやかに助けていた。だから目を相当凝らさなければ彼の表情すら良く見えない。
「増間 夕一。お前が、フェルマータだ」
問いかけるような口調のくせに、はっきりとした断定の物言いに夕一は俯いて黙り込んだ。冷や汗が背中を流れ落ちていくのがわかる。
歌手「フェルマータ」は、ネトゲアバターや匿名掲示板のコテハンのように、夕一のネット上の些末な姿の一つに過ぎないはずだった。だが世間からの見方は、活動開始からたったの二年で激変した。
今やフェルマータと言えばネットに投稿する曲一本一本が三十分以内にミリオン回再生されることが確定し、街中、人々のスマホの中、果てはお茶の間ニュース番組に時折挿入されるBGMとして流されるまでのアーティストだ。
ここまで話と存在が大きくなったのは、当初の夕一の本意ではない。一切合切、絶対に。全部流行り物に飛びつくミーハーどものせいだ。
それでもフェルマータはフェルマータ。夕一は夕一だ。カリスマの裏にあるダメ人間の正体を晒したくはない。そのために、夕一は徹底的に身バレ対策をし、夕一をフェルマータと誰もが結びつけられないようにしてきた。
それなのに、あっさりとバレた。
あの堅物で頑固で正義を振りかざす真面目マンがネット上のみの存在であるフェルマータを知っていること自体が意外だったが、それ以外ならば考えがつく。
六堂がわざわざこうして夕一を呼び止めたのだから、ふざけた活動をやめろと言うつもりなのかもしれない。生徒会室まで連れ込んだところを見るに、ネット上のフェルマータのアカウントを全て消去するまで監禁するつもりと言うのもあり得る。
六堂の視線をつむじに感じた。息を止め、どんな言葉の槍が飛んでくるかと身構える。
「……よかった」
ふわりと、柔らかい風のような声が降ってきた。
「お前を見つけられてよかった……フェル……」
幻聴か、願望か。自分の耳が信用できず顔を上げた。
彼の表情が緩んでいたような気がしたが、それよりも先に薄暗い部屋の中で光る彼の目が一瞬だけ紅い光を放っているように見え、視線を奪われる。目を瞬かせると、やはり彼の目は日本人らしく髪色と共に黒かった。幻覚まで見ているのか。
呆気に取られていると、六堂は何事もなかったかのように表情を威圧感のある無表情に戻した。
「急に引きずり込んで悪かった。あの時は少し切羽詰まっていて。オレは六堂夜だ」
「え、あ、あの」
声が掠れた。咳払いし、喉の調子を戻してから再度口を開く。
「し、知ってます……それより、んな、なんでオレが……フェルマータだってわかっ、わかったんすか」
問いかけると、六堂は怪訝な表情をして首を傾げた。しばらくしてから夕一は自分の声があまりにも小さく、そして吃り過ぎたことを自覚し、「す、すいません」とこれまた小さい声で謝罪した。
「なんでって言われると……歌声が同じだったからとしか」
「う、歌? ……って、なんすか。オレ別に……さっき以外であんたの前で歌ってなんか」
「歌ってただろう? さっき。食堂で」
「さっき!? しょくどう!?」
急に大きな声を出した夕一に驚いてか、六堂は少しだけのけぞった。表情ひとつ変えずにすっと元の正しい姿勢に戻る。冗談を言っているような顔ではない。
すでに霞みかけている数十分前の記憶を思い返す。昼食をとっていただけで、やはり歌っていたつもりはない。
「え、え、あ、オレ、歌って……ました?」
「口ずさむ程度だったがな。ほら、あのアニメ……『ニアの機械人形』の曲だろう?」
六堂の口から出てきたのは、夕一が先程カツ丼を頬張りながら視聴していたアニメのタイトルだった。
「……え、に、ニア知ってるんですか!?」
「ん?……友達に勧められて一度――」
「す、すげえ! あれマイナーな据え置きゲーム原作のせいで全然新規視聴者がいないって話題なんですよ!? いや、でもあれいいっすよね、完全原作通りかと言えばアニオリは多いけど下手な改変じゃなくて原作で語られなかった部分の補強って感じのストーリーで! 設定資料集だけに掲載されてた短編集のネタも織り交ぜられてたし、意味深小ネタもあって考察捗るし! まあだから新規視聴者置いてけぼりで全然伸びないって言われてますけど、やっぱりあの重厚なストーリーはゲーム本編をやった人間にしか理解できないんでしょうね!」
高揚したテンション言い切った夕一は輝く瞳で六堂の顔を見上げた。そこにあったのは戸惑うような引くような微妙な表情をした彼の顔だった。
「いや……オレはゲームはやっていないからそこまでは共感できないが」
「あ゜っ」
夕一は彼のその一言で今の自分の身の振りを思い返し、全てを悟って声を裏返らせた。
「すいませ、は、はは、オタク特有の早口……え? きしょ。今のオレ、キッショ……」
「いや、別に確かにアニメは面白かったが……」
「スイマセンスイマセンスイマセンんん……」
あまりにもクソオタク丸出しの言動をしてしまった。夕一は自分を罵りながら顔を両手で覆い、ふと脱線しかけた話の流れが頭の中に戻ってきた。
誠に遺憾で認めたくはないが、もしかしたらあの食堂にいた時、上機嫌だったためオープニングに合わせて無意識に口ずさんでいたかもしれない……と思うと否定できなかった。あの場には六堂と食堂の店員数名しかいなかったとは言え、それを聞かれたかもしれないと思うとさらに顔が赤くなった。
「しっ、死にたい……」
「死ぬな。お前にはやってもらわないといけないことが山ほどある」
「退学は勘弁しっ、してください……」
「そんなことさせるか」
「休学も……」
「だから、させないと言っているだろ!? めそめそするな! 顔を上げろ!」
「う゛」
夕一が椅子の上で丸くなっていると、机の向こうから顔を両手で挟まれ、無理やり顔を上げさせられた。
目の前に中性的な顔立ちの六堂の顔が現れ、息を呑む。ただの仏頂面だと思っていた彼の表情には縋るような真剣な表情が滲み出ていた。
「お前に聞かないといけないことがある。正直に答えろ」
「は、は……はい!?」
人と会話することも、人と目を合わせることも久しぶりだと言うことを突然思い出した。心臓に負担がかかり、バクバクと荒れ始める。
「……大事なことだ」
六堂はいつの間にか机の上に乗り出していた。互いの鼻が触れ合いそうなほどに顔が近かった。
耐えられなくなった夕一は固く目を瞑った。左頬を挟んでいた六堂の手が離れていくのを感じる。
「――お前は、昊とどう言う関係だ?」
「はいッ!……は、え、はい?」
あまりにも予想外な質問は、夕一の瞼をこじ開けた。同時に目に入ってくるのは、細く細く細められた六堂の目。
かちゃりと音がして、そちらに目線を向ければいつの間にか六堂の腰には細長い棒状のものが携えられていた。右手で引き抜かれたそれは紛れもない日本刀で、抜き身の刃が鈍く光っている。
体が緊張している理由が今やっとわかった。会話への苦手意識ではない、静かに向けられている六堂の殺気が夕一の全身を突き刺していた。
「正直に」
「え、な……」
「昊とどう言う関係なのか、と聞いている」
聞き返す間も与えず六堂は次いで問いを投げかけてくる。
どうして夕一が昊と知り合いであることを知られているのかもわからない。
「お前が、昊に妙な思想を植え付けた人間か? 自己犠牲を助長するような、そんな会話をあいつとしたことがあるか?」
どうして夕一が殺気を向けられているのか、向けられなければならないのか、わからない。
質問の内容を考えても全く頭に入ってこない。身に覚えはない。
「答えられないような関係なのか?」
刀が夕一に向けられようと動く。その時初めて体が震え出した。こんなにも露骨に人からの殺意は向けられた経験はない。
しかし自分が害されようとしているのに、不思議と六堂から一切の悪意が感じられないことが一層不気味だった。
頬に当てられていた彼の左手が別の生き物のように動いて夕一の顔面を掴もうとしていたところで、ぴたりとその動きが止まった。
「があッ……!」
パッと視界が開けた。夕一の眼前を占めていた六堂が机の上から床に転げ落ちたのだ。カランと軽い音を立てて刀が床を滑って転がっていった。
なぜか暗闇の中で腕を押さえて悶え苦しむよう蹲る六堂を呆気に取られて眺めていたが、はっと我に返る。
夕一は慌てて立ち上がり、その拍子に倒してしまったパイプ椅子の音に自分で飛び上がりながら出口へ走った。
「ま、待て……!」
「ひいっ!」
六堂が手を伸ばしてくる気配を感じ、一層逃げようとする本能が掻き立てられた。
もう二度と学校に来れないことを覚悟しつつ、教室の扉に手を掛ける。
「たのむ……」
引き戸を開き、夕一はそこで動きを止めてしまった。後ろから聞こえた消え入るような声は、もう聞こえない。
外はすぐそこだった。なんならもう出口は開いている。明るい光が夕一を照らしていた。
逡巡は長かった。しかし、夕一はどこかデジャヴのようなものを感じていた。
ここで逃げてしまえば、夕一はきっと後悔することになる。心のどこかで誰かがそう訴えかけていた。この人間を独りにはするなと。
「すいません……」
暗闇を引き返した夕一は、膝を折る六堂を見下ろしていた。
自分でも何をしているのか理解できない。でもそれはいつものことだ。夕一のやることに意味なんていつだって無かった。
「すいません、オレ……」
再度声をかけると、六堂は驚いたように顔を上げた。痛々しくも怪訝な表情だ。
長いこと目を合わせていられず、目を泳がせながら頭の中で必死に言葉を選んだ。
「そ、昊は普通にオレの友達で……そんで、えっと」
どこか安心したように六堂の目尻が下がった。
「そして……フェルマータのマネージャー、です」
六堂の目が少しだけ見開かれた。すぐに顔は俯き、彼は静かに立ち上がった。
少しだけ夕一より高い目線から見下ろされ、ブルリと体が震えた。
「す、す、すいませ……」
「“すいません”じゃない、正しくは“すみません”だ」
「ひえ、えと、すんません……」
「なんだそれは」
六堂は苦笑してまた目を細めた。今度は柔らかい。
「脅すような真似をしてすまなかった……だが、それでも。それでも、お前がオレの探し人ではないのなら……」
夕一の手が取られる。冷え性でもここまでじゃないだろうと言うほど、彼の手は死人のように冷たかった。しかし、振り払うことなど出来はしなかった。
「協力して欲しい。昊を取り戻すために」
「は、は……い」
先ほどから彼の話は一切理解できていない。それなのに――それでも、夕一はその言葉に頷いてその冷たい手を握り返していた。まるで主人の言葉に従う従者のように。




