小噺2.触るな、褒めるな、選ばれるな
勇者誕生秘話。
バリバリネタバレを含むので、二章を完読してからの閲覧推奨です。
世界、国、街、村。その全てに、そこに住む民が当たり前のように古から行って来たしきたりというものがあるものだ。二千年余りの血を紡いできた王家が収めるこの国【ザ・イズ】にも、そういう深い意味のなさそうなしきたりはある。
どれだけ国の端にいようと、そのしきたり――“儀式”に余すことなく参加せざるを得ないこの国の民に、ヨルは哀れみを覚えていた。
そんな感情を抱くこのヨル・コハクト・グリフィンでさえ、もちろんのこと参加対象なのである。
そのくだらないしきたりが行われるのが、今日。奇しくもヨル自身の十五歳の誕生日当日という幸運も不運も判別のつかない偶然だった。
朝ベッドから起き上がって一番に頭を抱えたヨルは、しばらく心を虚無にしていた。数分後、自室の扉を叩いた従者に返事をしてもその表情は暗いままだった。
「お……おはようございます、コハクト様……あの、大丈夫ですか?」
「……開口一番に祝わなかったことは誉めてやる。……胃薬」
「は、はい」
フェルムは一段と機嫌の悪いヨルを刺激しないよう速やかに、昨日ヨルから頼まれて持って来た薬と水を手渡した。
昨日は今日の儀式のせいで前倒しになったヨルの誕生日パーティーが行われていたため、ただでさえ疲れもストレスも溜まっている。貴族の身分にあぐらをかいた思考停止人間にグリフィン家の人間として賞賛される時間は苦痛だった。しかし本当の苦痛の時間はこれからかもしれないという恐怖にさらに胃がキリキリと痛む。
しかし、今日の“儀式”に王家は妙に力をいている。もし適当な理由をつけて欠席したとしても、次の年、また次の年と延々に出席命令が来るだけだ。
「城の馬車はいつ来る?」
「二時間後です。着替えますか?」
「いや……先に外周してくる」
「ではシャワーの準備をしておきます」
それなら人生に一度きりのこの行事、済ましてやろうという気に渋々なるのが、ヨルという人間だった。
・ ・ ・ ・ ・
まるで出荷される家畜のような気分で馬車に揺られること十数分。馬車の列に並んで待たされることさらに数十分。ようやく城の敷地内に入って馬車から降りることができた。
「ずいぶん待たされたな」
「これでもグリフィン家は貴族ですから優先された方なんですけど……毎年思いますが王家の徹底ぶりにはある種感心します」
「この城に全国の同年代が集められてるわけだからな……今年は一体何人なのやら」
貴族だけならばあり得ないざわつき方をしている王城のエントランスを遠目に見ながらヨルはため息をついた。
「一季節のみとはいえ信じられない人数がいるでしょうね……」
数百人はくだらない成人直前の青少年たちの集団の中には貴族ではない平民の格好をした者や、そもそも平民ですらないほどみすぼらしい格好をした人間が固まって集められている範囲があった。誰もが見たこともない城の荘厳さに目を奪われてポカンと口を開けている。
その様子を尻目に、ヨルたちは城の中へ歩みを進めた。
ヨルたちが通されたのは、まるでオペラの劇場のように中心のステージに向かって扇状に一脚ずつ椅子が設置された会場だった。数百人という人数である以上一人一人個室レベルの席は与えられないため窮屈には感じられるが、王の御前でそんなものに文句を言う人間は流石にいない。
ヨルたちグリフィン家、アナプルナ家をはじめとした貴族から、名も与えられず十五歳まで育ったホームレスや盗賊まで。全てが平等に速やかに席に付き、やがて数分と待たずに中央の玉座に向かうこの国の君主が現れた。
「諸君。まずは、この地へのご足労感謝する」
玉座に腰掛けながら柔らかい口調で発せられた言葉に、自然とその場にいるほとんどの人間の首が垂れた。
この国——東大陸の端から端までを統べる現国王は、若く痩身であったが、これもしきたりか、冠を被った頭から下はフードとベールに包まれていてその顔自体は見ることができない。
「そして、この秋の月に成人前最後の誕生日を迎えた者、そしてこれから迎える者への祝いの言葉を贈る。去年に続いてこれだけの人数が無事にこの地に足を運べたことには多忙な創造神様に感謝をしなくてはならない」
本当にとんでもない金と労力が注ぎ込まれたとんでもない儀式だとは誰もが思っているだろうが、これがこの国の“当たり前”だ。
「さて、無駄話はこれで結構。早速——“抜剣の儀式”を開始するものとする」
王の口からあっさりと儀式開会の宣言が告げられると、平民が集められた席の方から戸惑いのざわつきが起きた。いつの時代も王族の淡白な態度は変わらないということを知っているヨルはすでに慣れている。
この世界は一年365日。それを季節ごと90日で春の月、夏の月、秋の月、冬の月と、四つに分け、それらと各季節を繋ぐ1日と元旦の5日の一期間を年の周期としている。
“抜剣の儀式”とは、それら季節の中で秋の月の30日から60日の間に生まれた、かつ今年十五歳になるものが集められる。
その微妙な範囲指定がある理由は、王都曰く、この期間は神界の神が現世に生きる者すべての天命を決定する仕事があるからだそう。その多忙さ故に、この期間に生まれた者は神に見守られず生まれた不運な子供とされる。
実際、噂ではこの期間生まれの子は歳を十五数える前に何かしらの理由で命を落とすことが多い。それにヨルも含めて多難である。
この儀式はその厄祓いのためにある。
名前の通り、これから行うのは剣を使う儀式だが、その剣というのが、王家の地下室に眠る聖剣だ。太古に創造神が作り出し、そして原始の勇者が魔王に振るったと伝承されている。現在は城の地下の台座に突き刺さっている。
秋の月に生まれた不幸の子はこの台座に突き刺さった聖剣に触れ引き抜こうとすることで神界にいる創造神に自分の存在に気が付かせる――そう言う厄祓いの儀式だ。
気づかせるためにやるのに、どうしてまた神のいない期間にわざわざ儀式をするのかは誰も疑問を抱かない。
「これから一人一人、地下の聖剣の間で聖剣を引き抜いてもらう――と言っても、実際、神聖な力によってあれは絶対に抜けないが……」
ブルっとヨルは身震いをした。今回の儀式によく似た御伽噺を思い出していたために気を抜いていたが、我に帰るとベールの向こうの王の目線がはっきりと自分を見ていることに気がついた。
嫌な予感。そして、その予感はすぐに当たったと知る。
「今年はグリフィン家の末弟のように素晴らしい神童もいると聞く。原始の勇者のようにの器量の持ち主であれば引き抜けるともされているから、今年は期待できるかもしれんな」
「うぐぅうぅぅぅゥ……ッッ」
「コハクト様! 気を、気を確かに!」
ヨルは見事に王に地雷を踏み抜かれ、痛みを増した胃を押さえつけるのを我慢して自分の手に爪を立てた。名指しで注目された今、他の家や平民に弱みを見せるわけにはいかない。死ぬ気で真顔を保ったが隣席のフェルムに聞こえるくらいにはうめき声が漏れた。
「こんなことになると予想できていたから出席なんてしたくなかったんだ……」
「だ、大丈夫ですよ。あとは儀式だけですし……これ以上注目されることなんてないですって」
「……だよな」
再びブルリと肩を震わせたヨルの体調が戻る前に、儀式は進行を始めていた。
すでに王は、玉座の後ろ、聖剣の間への入り口の中へ消えていた。それに続いて、平民席に座っていた人間がたちあがりぞろぞろと一人ずつ聖剣の部屋に通される。
この儀式は妙に王家の力が入っている。大人しくこの恐ろしく時間がかかり、そもそもこの地に来るだけでも面倒なこの儀式に、どうして誰一人文句も言わず出席するのか。答えは二つ、「そう言うしきたりだから」。そして、「出席によって大きなメリットがあるから」だ。
メリットとは、この儀式に出席することによってどんな身分の人間でも、この城の敷地に最高級のもてなしで一日宿泊ができ、どんな料理でもタダで提供される。加えて、平民には支援金が出され、盗賊には今まで起こした殺人や反逆など死罪に値するもの以外の犯罪をすべて免責するという普通ではあり得ないとびきりの褒美が与えられる。だから皆問題を起こさぬよう大人しく儀式を行う。
こんな芸当ができるのは、儀式の出席者が全員成人直前、つまり成人に適用される法律がまだ適用される前だからだ。
対して貴族には、特に褒美は無い。貴族は王家に仕えているという前提のもと貴族という身分を保てているので、あるとすれば王の信頼を継続して委ねられるということだけだ。ヨルはその道具に使われているとしか思えない。
「……あと一日生まれるのが遅ければ……」
「明日だったらちょうど収穫祭の日だったんですけどね……こ、こればかりは誰も責められないかと」
厳格な儀式とはいえ、数百人の十五歳という青少年が集まるこの場は、段々とざわつき始める。それに便乗して、痛む胃を誤魔化すためにヨルは少し饒舌になっていた。同じくその話に乗るフェルムが誤魔化しているのは緊張のようだが。
「――この空間の空気は若くていいな。だと言うのに、ここだけ血と胃液の匂いがするぞ? コハクト君」
「わァッ⁉︎」
突如背後からかけられた声に、ヨルではなくフェルムが飛び上がって声を上げた。その声に驚いたヨルも肩を跳ねさせて振り向くと、すぐそこで鋭い犬歯が煌めいていた。
「す……スキート、ランドリュー……さん。昨日ぶりですね」
「ああ、昨日はよく楽しませてもらったよ。君の胃液の匂いにな。見知った顔が見えたもので、挨拶にきたぞ」
そこにいたのは世にも珍しい金髪の吸血鬼。見間違えるわけもなく、スキート本人だった。
彼とは昨日前倒しで行われたヨルの誕生日パーティーになぜか出席していたために、渋々挨拶した際に顔を合わせたぶりだ。
昨日だけでなく、スキートは貴族が開催するあらゆる催しに顔を出す。招待状も出していないのにいつの間にか会場内にいるのだ。そのせいか、驚くほど、さらに言えばもっと驚くほど顔が広い。
ヨルも昨日以外に何度か顔を合わせたことがあるが、なんとも掴みどころがなく話しづらい。さらに不運なことに、どうもヨルが賞賛されることを嫌っているのを知っている節がある。できれば会うなら一年に一回でいい。しかし会ってしまった。
「ランドリューさんは、どうしてここに……しかも今、昼間ですよ。吸血鬼は灰になってしまうのでは?」
「スキートでいい。王城には日陰がたくさんあるんでな、ありがたいことに昨日君の誕生日パーティーの後に泊まらせてもらったんだよ。わざわざ外を移動しなくていいようにな。ここにいるのは、面白そうだったからだ。一介の来賓だと思ってくれたまえ!」
思えない。王城に個人的理由でで泊まることが許される時点で一介の存在とは思えない。
「この儀式は毎年見に来ているが、今日は楽しみだったぞ。神童と称されるコハクト君のことだ。王の言う通り今年こそ剣の切先を拝めるのではないかと楽しみだ」
「ぐはッ……!」
「コハクト様! しっかり!」
「おっと、また胃液が増したな……いや、これはゲロか?」
「頼みますから、これ以上吐かせないでください……」
どいつもこいつも地雷を踏みたがる。
ふと、口内に上がってきた吐瀉物を無理やり飲み込んだところでヨルは嫌な妄想をし始めた。嫌な日やや汗がダラダラと垂れてくる。
「フェルム……」
「は、はい? どうしましたか、胃薬ならここに……」
「聖剣……抜くふりをしてもバレないと思うか?」
「……? せ、聖剣は元々台座から抜けないんですよね? そもそもここにいる全員が『抜くふり』になってしまうのでは……?」
そもそも、抜剣の儀式と言うものが聖剣を抜くふりをする儀式だ。
しかし、それをふりにするものかと、平民貴族全員が躍起になって聖剣を引き抜き、新たな勇者になろうとするのもこの儀式の恒例行事だ。しかし、聖剣はどんな人間の手に握られようと「お前は違う」とばかりに神聖な力で台座に突き刺さったままびくともせず肩を落として聖剣の間を去り、その夜城内で食べる最高級の料理で自分を慰めるのも恒例だ。
ヨルは、その「聖剣を抜くふり」のふりをしようとしているのだ。
「できれば聖剣に触れることすらしたくない……!」
「そ、そんなに……なぜそんなに聖剣を怖がるんですか?」
フェルムの疑問に対し、ヨルは目を剥いて頭を振った。心臓の痛みを抑えるように、自分の胸を両手で鷲掴みにする。
「聖剣が怖いんじゃあない。聖剣を抜きかねないほど完璧な神童であるオレ自身が怖いんだッ!」
「は、はあ」
「成績優秀かつ運動神経抜群の魔導及び魔法薬にまで精通し正義感もあっておまけに家族以外には誰にも負けたことがなく容姿端麗。欠点があるとしたら賞賛されることへの恐怖心だがこれも謙虚さと考えれば良いことになるッ!」
原始の勇者だってここまで優秀であってたまるかと、ヨルは自分の完璧さに後悔した。
「……のうきんは……」
ポカンと口を開けたフェルムが思わず一言漏らす。
「なんだ」
「いえ……た、確かにコハクト様は素晴らしいお方ですが……」
「安易に褒めるな、ゲロが暴発する」
「難しい……」
「若い衆がワタシを忘れて面白いことを考えている」
二人に存在を忘れられたスキートは、むしろ上機嫌になって二人の会話に耳を澄ませた。
「と、とにかく、その考えは良いんじゃないですか? 抜くふりをしてるか——力を入れてるかなんてよほど観察眼のない人じゃないと分かりませんし。抜こうとしなければもしコハクト様に聖剣を抜く資格があったとしても剣は一人でに抜けるわけでもないですし——」
『貴様ァッ!』
突然、聖剣の間の方から男の声の怒鳴り声が聞こえた。会場を警備している数十名の兵が誰一人として反応しないところを見ると、特別な異常事態が起きているわけではないらしい。
『王と聖剣の御前だぞ! 本気で引き抜け、本気で! 抜くふりなんかじゃなく台座すら持ち上げる気でやれッ!』
「…………」
「いるみたいだな、観察眼のあるやつが……」
「これまた毎年恒例の王の親衛隊の激励だな。今年は特に力が入っていると見た」
聖剣の間から全身を震わせて涙目で出てきた貴族の男子に憐れみの目を向けながらスキートはしみじみ言った。
「……終わった」
「こ、コハクト様! 大丈夫です、まだコハクト様が聖剣を抜けるとは決まってませんから!」
「先ほどから思っていたが、従者が言った言葉すべて逆になって実現してないか?」
「どうにかして聖剣を抜くふりをしていることをバレない手段はないのか……! もうこうなったらこの会場ごと爆裂魔法で吹き飛ばすしか」
「やめましょう、それは!」
真顔を保っていても内心は溶き卵もびっくりのとっ散らかり具合までパニックに陥ったヨルを見かねたスキートは、煌めく犬歯を剥き出して笑った。
「悲観するなコハクト君。このスキート。友人の苦しむ姿は見たくない」
「友人……?」
「このワタシが少しばかり手を貸してやると言っている。どうだ? 右手でも左手でも良いぞ。借りるなら握手だ」
ヨルの辛辣な反応にも屈せずスキートは微笑みながら両手ぶらぶらと差し出してきた。胡散臭く、儀式の開始から漂う嫌な予感もあったが、毎年この儀式を見てきたと言う人間の考えなら信頼できなくもない気もする。
ヨルは歯を食いしばりながらスキートの手を取った。
「じゃあ……ぜひ借りさせてください」
「お、左手だな。面白い選択だ」
「あ。あの、コハクト様の手伝いって……具体的には何を?」
「安心しろ。従者が言っていたように、コハクト君が聖剣を引き抜けるとしても、引き抜けること誰にも知られなければ良いんだ。ワタシにかかれば容易いことよ」
・ ・ ・ ・ ・
抜剣の儀式は、王家に直接仕えた年月が浅い家の子順に進む。つまり、平民の子が最初に行い、次に序列の低い貴族から古い貴族へと回ってくる。
ヨルたちのグリフィン家、アナプルナ家は古くから王家へ優秀な騎士、兵士を送り出してきた。順番的には二人とも並んで最後尾近くにいる。と言ってもこの場にいるのは不幸の子として十五年間災難のふるいにかけられて数の減った数百人。剣を抜くふりをするだけであるため、あっという間に順番は回ってくる。
スキートはヨルたちの番が回ってくる直前で姿を消した。いったい何をしでかすのかわかったものではないが、協力を頼んでしまった以上もう止めることはできない。
「大丈夫だろうか……」
「き、きっと大丈夫ですって!」
ヨルは覚悟を決め、フェルムとともに聖剣の間へ向かうために席を立った。玉座に頭を下げ、その先の聖剣の間の前に立った……ところで、突然勢いよく扉が開いて中から兵が二人出てきた。よく見るとその間にぐったりと全身の力が抜けて気を失った男が支えられている。
「イソップ家の御子息です、緊張か何かで貧血になったようなので救護室に——」
「……おい、貧血って」
「い、いや、まさか……」
チラッと聞こえた言葉通り、会場の外へ運び出されていくその貴族の子息の顔は真っ青に血の気が失せて白目を剥いていた。「まさかそんなことはないだろう」と自分に言い聞かせながら、ヨルはフェルムの背中を押してともに進む。
ヨルの順番はフェルムの後ろだったが、彼と主従関係であることを聖剣の間の前の護衛に申告し、共に中へ入ることを許可された。開かれた扉からすぐ、階段によって暗闇の中へ降る。ひんやりと冷えた空気に、ごくりと唾を飲み込む間ですぐに地面にたどり着いた。
「ふたり……まあ良いだろう。神童ののぞみくらい褒美として一つ二つ聞くのが器が大きい君主という者だ」
松明が焚かれた部屋の奥にある猫足の椅子に王が優雅に座っている。玉座ではないのは当たり前だが、それでも普通の椅子よりは数十倍の座り心地がありそうだった。
王の前には巨大な台座の中心に垂直に突き刺さった細身の剣——聖剣がある。その曇りのない刃が松明を反射して発光しているようで、確かに聖剣以外の何者でもない気配を感じることができた。
しかし、ヨルとフェルムの二人が目を奪われていたのはそこではなく、王の後ろ、そして椅子の背もたれの後ろ。我らが君主の後ろからひょっこりと頭を出したスキートの方だった。
思わず声をかけてしまう直前に、スキートは細い指を王のベールと顎下との間に滑り込ませて頸を露出させると、そこにかぶりついた。
「ぐっ……⁉︎」
急激に血の気の失せた王へ護衛が異変を感じて振り返った頃にはスキートは消えていた。くすくすとかすかに聞こえた笑い声の方をヨルが見ると、スキートがまた別の護衛の背後に取り憑き、首から吸血していた。
闇に紛れてそれと同じテンポでこの部屋の中にいた人間のほとんどを一瞬で吸血したスキートは、ヨルに向かって親指を立て、颯爽と階段を駆け上がっていった。
「王……お、お体は……」
「待て、立つな! また倒れるぞ!」
後に残されたのは、王を含めて貧血者だらけの聖剣の間だった。最も簡単に、しかも誰にも気が付かれずに吸血したスキートに驚けば良いのか、はたまた、吸血鬼程度に警備を突破される王家に失望すれば良いのか。
王の体調不良、貧血者のうめき声が反響している。かろうじてスキートの吸血の対象を逃れたものはヨルたち以外にはわずか二人だけだった。一人はオロオロと動揺し、もう一人は王の介抱の助けを呼びに聖剣の間から走って出て行った。
「長時間の……儀式で疲れが出たらしい……な」
吸血されたことにすら気がつかない王が呻きながらふらふらと安定しない頭を抱える。すっかり放心していたヨルははっと我に帰り、慌ててフェルムの背中を押した。
「え、えっ?」
「今だ、王とか護衛が貧血のうちに終わらせる! 早くいけ!」
「は、はい⁉︎」
「形だけでもやればいいんだ、行け!」
最悪の形でスキートの意図を汲み取ったヨルは、覚悟を決めてもう一度フェルムの背中を強く押し出した。
ピャッと飛び上がったフェルムは、急いでつんのめりながら聖剣のツカに取り憑き、力一杯引き抜こうとする。当然地面からそれが引き抜かれることはなく、巻き気味に王に向かって九十度の礼をし、フェルムはヨルの元に戻ってきた。
先ほど激励を上げてた親衛隊らしき男がフェルムに向かって待てと声をかけていたが、彼も吸血された人間の一人であり、そのふらふらの体では引き止めることもできていない。
戻ってきたフェルムとバトンタッチのように手を打ち合わせ、聖剣へ駆け寄る。
「む……ぐっ」
その時、ふらふらと頭を抱えていた王がバッタリと椅子から落ちた。自分の貧血なのに熱心な親衛隊は王を解放しようと床を這いつくばった。
(なんて僥倖!)
今のヨルには王の容体を気にする愛国心は吹き飛んでいた。この場の全ての人間の視線が王に集まっているタイミングを見計らい、ヨルは聖剣に飛びついた。
――それと、同時に、ヨルの視界が真っ白に塗りつぶされる。
何が起こったのかもわからず、思わず掌中にあった聖剣のツカを握りしめると、その手がぐいっとしたから強い力で持ち上げられた。
「がッ……⁉︎」
「こ、ここ……コハクト様……」
動揺したフェルムの声。目を開くとヨルの目を潰した極光は収まっていた。
代わりに静かに輝いていたのは、ヨルの手の中の刀身全体が地上へ出た聖剣だった。
聖剣が抜けてしまっている。抜いてしまった。
「せ……」
「聖剣が……ッ!」
「ぬ、ぬぬ、ぬけ……ッ⁉︎」
驚愕したヨルとフェルムの他に一人、声を漏らした人間がいた。そちらを向くと、まだ幼さの残った若い騎士だった。
ヨルは頭を振って、この若い騎士意外に聖剣が抜けた瞬間を見他人間がいないことを確認する。光は一瞬のことで、王を気にかけていた者はこちらを気にしてすらいなかった。
「お、王……」
「潰せ、フェルム!」
「く、“仔獣奏”! “頭をぶつけろ、強く”!」
「う、あッ……?」
すかさずスキルを発動したフェルムに従い、若い騎士はくるりと後ろへ方向転換し、石造の壁に両手を付き、ガツンと一発ぶつけると気を失って倒れた。
ヨルが聖剣に触れてからここまでほんの五秒足らずの出来事だった。
「ど……どうするんですか、コハクト様⁉︎」
「まさか触っただけで勝手に抜けるとは誰が予想できる……」
騎士の心配よりも先に、聖剣を抜いてしまった主人に駆け寄ったフェルムは小声で叫ぶ。
「……戻しておこう」
「戻せるんですか⁉︎」
「よ……っと。……戻せた」
「最初に刺さってた場所と違いますよ⁉︎」
なぜかバターのように台座に簡単に刺し直すことができたのは勘違いだと願いながら、ヨルはしれっと聖剣を戻した。
「儀式は中断だ! 自分で歩ける者は退出願う!」
背後から飛んできた大声にびくりと肩を跳ねさせ、二人は恐る恐る振り向く。しかし、聖剣が抜かれたところを見られたわけではないらしい。先程出て行った騎士が医者と担架を持った兵を引き連れて聖剣の間になだれ込んできた。
ヨルたちはその混乱に乗じてコソコソと目立たないように聖剣の間を出た。
「どうだ」
「うわぁァ⁉︎」
知らん顔して会場に戻ってきた時、既視感のある呼びかけとフェルムの悲鳴が上がった。
「抜いたところすら気が付かれなかったろう?」
「スキート……さん」
「おっと、顔色が悪いな。どうした? 聖剣でも抜けてしまったのか?」
その通りだ、と言うわけにもいかず。聖剣を抜くところを目撃されたものの、それを公にせずに済んだのはスキートの陽動があったおかげではあるため、複雑な気分で頭を下げた。
「感謝していますが……あんなことをしてあなたは無事で済むんですか?」
「なに、ワタシの仕業だとバレたら迷いなく君達を巻き込ませてもらうさ」
本当にどうしてこの吸血鬼は誰の阻みも受けず場内にいるんだろうと疑問を思う。危険分子を排除しておこうという考えはこの国の君主にはないらしい。
「あ、アンタが勝手にやったのに……」
「おお、従者よ、意外と生意気なことを言うな!ワタシは君の主人を助けてやったんだぞ!」
フェルムの無礼な言葉にも笑ってその頭をぽんぽんと撫でた。
「さて、その血の匂いがする右手に噛み付いてしまう前に行くとしよう。またパーティーの招待状を出させてもらうぞ、コハクト君!」
カラカラと一人で笑ったスキートは、踵を鳴らしながら会場を去っていってしまった。
「……あの、スキートって……ランドリュー家って身分はどこでしたっけ」
「知らん。アイツ、いっつも名乗る時に名前しか言わないからな。知りたくもない」
「いろんな意味で同感です」
取り残された二人は、ざわめきがおさまらない会場でしばらくの間顔を見合わせていた。
・ ・ ・ ・ ・
「時代と人運が悪ければ貴様は今頃死刑だな」
「心臓に杭か? 今時そんなもので死ぬ吸血鬼はいないぞ!」
分厚い遮光カーテンがかかった薄暗い一室で、スキートはポットをもち、カップに紅茶を注いでいる。縁スレスレの並々いっぱいの紅茶が注がれたそのカップを慎重に受け取ったのは、ヴェールを纏った若く痩身の人間だった。
「悪かったとは思ってるぞ! しかしまさかこんなに早くバレるとは思わなんだ」
「貴様以外に、警備を突破して貧血者だらけにできるものがどこにいる」
「前吸血妃はできるやもしれんな!」
「それは貴様がとっくのウン百年前に殺したろう」
「おおそうだった!」
ヴェールを捲るどころかカップを口に近づけもせず床に放った国王は、不機嫌に顎に手を当てた。
「キミのせいで消化不良だ。今年も勇者は見つからなかった」
王家が秘密裏に何台も前から続けている計画は、スキートが詳しく知るところではない。だからこそ、現国王の悩みなど一生わからないのである。
「勇者。勇者か……!」
神話にたびたび出てくる。しかし、それは御伽噺ではなく史実だとされる話。そこに頻出する単語を、スキートは復唱する。
表面は限りなく大衆の勇者像に近く、内面はなんとも勇者らしくない汚れを持った少年と交わした会話を唐突に思い出した。
宣告通り、しっかりと巻き込ませてもらう。
・ ・ ・ ・ ・
「由々しき事態だ」
「ど、どうしたらこんなことに……?」
ヨルとフェルムは今、大穴を見ていた。
しきたり通り、昨日は王城で一夜を過ごた。問題が起こったのは今朝起床したヨルが起き抜けに伸びをした時、勢い余って背後の壁に手が当たった瞬間その壁が大破し、その瓦礫が吹き飛んだ。
その大きな音にフェルムがいの一番に駆けつけたが、なんとかできるわけもなく、ただ二人でしばらく何が起こったのかもわからず朝日が覗く大穴を見ていた。もしこの先が別の人間が止まる部屋に繋がっていたらどんなことになっていたか。想像もしたくない。
思えば昨日から何かがおかしかった。
逃げるように宿泊するために用意された別館へ移動する途中、誤ってぶつかった壁や手をついた扉などは脆くヒビが入ったし、食事をするために手に取ったナイフやフォークは粘土のように曲がった。
別館から離れたところにある平民用の宿泊部屋の話し声が聞こえたし、安易に歩こうとすれば勢い余って壁まで突進してしまう。
「城の設計者を違法建築で訴えるか、オレが訴えられるか……」
「示談で済ませますかね……」
現実を受け入れられない二人は、とうとう城の一部の壁に開いた大穴を見ていることしかできない。
こんな奇妙な現象が起こっている原因の予想はついている。十中八九昨日聖剣を抜いてしまったことが関係しているだろう。
「これが、勇者の力というものなのか」
「そ、そんな話……御伽噺ではなかったんですか⁉︎」
「あのファッキン抜剣の儀式……もう二度と聖剣なんか触れないぞ、俺は」
「だと良いですね……」
ヨルは乗り越えた昨日の儀式を思い出し、息を吐く。この儀式は人生に一度きり。もうあの眩い刀身を見ずに済むと思うと、清々しい気分だった。
そんな気分を遮るように、部屋の扉をノックする音が届いた。
「誰だ……?」
「見てきます」
今のこの部屋の中を見られるわけにはいかず、フェルムが来客の対応に出て行った。そう待たず、真っ青な顔をしたフェルムが戻ってきたのを見て、ヨルは何も入っていない胃から込み上げてくるものを感じていた。
・ ・ ・ ・ ・
【二年後】
「オレはァ……ゆーしゃなんか……なる気はなかったんだァ……」
「そーなのか~~~。てかふぁっきん抜剣の儀式って語呂悪すぎて草」
未成年から脱し酒を飲むことを覚えた勇者は、夜な夜な二年前の誕生日の愚痴をこぼす。最近は昼間に依頼を終えてからソラたちの病室に寄って、酒をちびちびと飲むのが日課になっていた。
フェルムも怪我人という立場ながら医者にバレぬようこっそりと酒を盗み飲み、先程酔って寝てしまったばかりだ。
依頼の報酬で運良く手に入ったのが美味い酒だったのは良いが、その分強かったせいでいつもより饒舌になっている気がした。
新たな友人である昊にすっかりと気を許したヨルは、つらつらと二年前の悪夢を昊に詳しくこぼす。
抜剣の儀式の次の日、起きて早々に抜剣の儀式のやり直しを行うことを聞かされた。
前日にやったはずだと全力の抵抗をしたが、王が貧血で朦朧とした際に抜剣を見逃した者がいるのではないかという指摘した者がいたらしい。昨日は王がすぐに回復してすぐにヨルの後の貴族から儀式が再開されたと聞いていたので油断していた。
そもそも儀式参加者が不幸の子とされている。確実に儀式によってその運命を払拭されたことを王が見届けなければその不運にいつか王都が巻き込まれる――そんな迷信に踊らされるしきたりに唾をかけたいものの、実態のないものにはそんなこともできず。
フェルム以降の人間のみの抜剣の儀式を改めて翌日行うこととなり、ヨルはその時点ですっかり諦めた。
折れた心でやけくそ気味に台座から聖剣を引き抜き、勇者の力が授けられたという理由で魔王討伐を命じられ、ありもしない心からの忠誠を誓って頭を下げてきた。
そして、ヨルという人間は今ここにいる。
「うう……こんな、はずではァ……」
「バッカだな~、もっとやりようはあっただろうになぁ~~~」
「うるさい……」
一滴も酒の入っていないソラから降りかかった正論を振り払うために、ヨルはボトルから滴る最後の一滴を舐め取り、ソラの寝台に突っ伏した。
「まー、お前が勇者になんなきゃ今ここにいなかったわけだし、俺もお前に会えなかったわけだろ?」
「んん、ぐ……」
「ケッカオーライってことで」
「べつに……おまえなんか……なん、か……」
酔った頭が眠りに落ちる寸前、ぽんっと頭を叩かれるのを感じた。
数少ない友人がかけがえのないものとなる経験ができたことを思えば、勇者という役職ももう少しくらいは続けてやろうかというやる気が湧いた。
そんなことを思うくらい、ヨルという人間はどこまでも対価を求めるような勇者に似合わない人間なのだった。




