第二話 〜今後の運命と謎の姫君〜
桶狭間の戦いに負けて、農民たちに落ち武者狩りされそうになった今川義元。
彼女は、そこを通りかかった、敵である織田信長に助けられ、彼に言われるがまま、その後ろをヘコヘコと歩いていくのだった。
「吾は、これからどうなるのですか?」
「それをこれから決めるのだ。」
彼は、表情一つ変えずに少しこちらを振り向いたが、すぐに戻した。それから目的地に着くまで信長は一言も声を発さず、こちらを振り向こうともしなかった。甲冑の上からでもわかる、恐らくとても鍛え抜かれている、自信に満ちた背。そしてどことなく感じる頼もしさ。義元は、とても自分と同年代とは思えなかった。
「着いたぞ。」
歩き始めて何時間経ったろうか。
そう言われ、義元はさっきまでずっと垂れていた頭を重く上げ、あえて猫背にしていた背中もぴんと伸ばした。
前を向くと、見えたのは、高さ2メートル程の長く連なる木の柵、そして正面には立派な門が建っていた。
そして、ふと後ろを振り返ると、幅10メートルくらいの大きな堀を渡ってきた事がわかった。
そう、この建物は、信長の後継者を決めた会議である清州会議などで有名な清洲城である。
「殿。何処へ行ってらしたんですか。戦場からいきなりいなくなったと聞いて、心配しておりました。」
年は二十歳頃だろうか。小走りでこちらへ向かってきた家臣らしき人だった。
「あー、悪い悪い。少しこの者に用があってな。」
「そして誰ですか、このみすぼらしい、いかにも落ち武者って感じの人は。」
「ちょっと、何よ失礼な。吾は今川治部大輔じゃ。」
そう義元が怒ると、そして信長も加えて、
「そうじゃ。私はこの今川義元の処遇を皆衆に決めてもらいたいのじゃ。」
すると、義元は、その信長の発言に、家臣らしき人に対する怒りはおさまり、急に我に帰ったように頭を冷静にした。
(処遇を決める……そうだった。私はまだ助かったとは決まってないんだ。)
「し、処遇って、斬首して、さらし首にする以外にあるんですか?」
「はっはっは。本来ならば私も、有無を言わせずこの者を殺しているだろう。だが、この者には何か私と同じ匂いを感じ…」
そう信長が言いかけた所で義元は、瀕死の魚に水を与えた様に勢いを取り戻し、
「そうです!吾は未来が見えるのです!」
そう叫んだ。
叫んでから義元はやっと分かったのだ。何のために自分は前世の記憶を取り戻したのかが。
「そうか。未来、とな?」
信長は義元の発言に驚くこともなく、また、疑うこともなく、いかにも興味深そうに上から顔を近づけてきた。
(別に、隠す必要もないしな。)
「吾には、未来を生きていた前世の記憶があるのです。
故に、私はこれからどうなるのかを知っているのです。勿論、あなた方がどうなるのかも。」
義元は前世でそれほど歴史に詳しい訳ではなかった。しかし、ここで信長に必要とされなければ、きっとこれから命はない。そう思って、精一杯、全てを司る者の様な笑みを浮かべ、淡々と告げた。
「と、いうことは、この戦国の世のいく末も存じているのだな。」
「えぇ。勿論でございます。」
「どうじゃ。こいつを使ってやらないか。」
「え、の、信長様がよろしいのでしたら…」
信長の家臣らしき人物は、未来が見える、などという義元の発言を理解できず、信長と義元の会話についてこれなかった。それもそうだ。何も疑わずに理解する信長の方が常識を外れている。
だが、暫くして、
「で、では、こちらへ。」
(それにしても、年齢的には信長と同じくらいに見えるけど、何というか、とても申し訳ないのだけど、頼もしさが感じられないんだよな………信長の後ろを歩いて感じたあの覇気の様なものもないし…)
「ここです。」
その声を聞き、慌てて義元は、先程の様な完璧を装った微笑みを浮かべる。
しかし、彼が、ここです、と手を伸ばした先にあったのは、
「牢屋…?」
そこは茶色く古びた木の格子で囲まれた部屋だった。いかにも罪人の入れられる場所といった感じで、中はとても狭く、奥は薄暗かった。中には何もない。
「はい。」
「え、あ、あの私、てっきり信長、あ、いやお殿様に使える事が決まったのだと…」
「いえ、一度、皆衆に問うてから決めると思います。
まぁ、正直、敗将であるあなたを雇う事を皆衆が認めるとも思いませんが…」
彼はとても困った様な顔で私から目をそらす。
「そ、そうですよね。」
考えてみたら当然だ。信長にとっては利益があっても、他の家臣達にとって、義元を雇う事は何の利益にもならないだろう。むしろライバルが増えるだけだ。
「えっと、吾はここで待っていればいいのですね。」
義元は、やはり何も動じていない風の笑顔で言った。
だが、動じていないのはあながち嘘ではなかった。前世で京極皐月として生きていた時、両親はおらず、兄は年齢を偽っていつもバイトに行っていた。そんな生活において、狭い場所で一人で過ごすのは日常茶飯事だったのだ。
「で、では替えの服を持ってきますね。」
そんな彼の表情はとてもやんわりとしていて、どことなく優しさが溢れていた。
「ありがとうございます。」
俯きながらそう答えた義元は何故か完璧を装ったあの笑顔を作ることを忘れていた。
数分後、彼は戻ってきて、牢の扉を少し開けて、そこから紺青の着物を義元に渡し、顔を近づけてきて、
「まだ名を名乗っていませんでした。私は、池田勝三郎恒興です。それにしても改めて間近で見ると美しいですねー、今川殿は。男同士なのに惚れてしまいそうです。」
そう言って、ニコリと笑った。
「え、そ、そんな事…………無いですよ……………
か、恒興どの………………………」
義元は俯きながらぼそっと呟いた。だが、もう恒興は戻っていった様だった。
(お、男の人に美しいなんて言われたの初めてだよぉ……………ド、ドキドキしちゃうじゃん…………)
前世でモテるという経験をしたことがなかった義元は、その後も、
「そんな、」「いえいえ」
などと呟いていた。だが、義元の、小さくか細い声は、誰にも届く事はなかった。そして、だんだん暗くなり、どこか物悲しさを感じる青藍の空へと吸い込まれていくのであった。
その後、義元は着替えようと、恒興の持ってきた服を見て唖然とした。
「この服、男もの……………?」
そう、恒興が持ってきた着物は完全に男ものだったのだ。それを見て、義元は、恒興の先程の発言を思い出した。
「男同士なのに惚れてしまいそうです。」
(あ、そうか。恒興どのは吾を男と勘違いしているんだ。そしておそらく他の人も同じだ。では、吾を男だと勘違いしている人に本当の事を教えなくては………)
だが、そんな義元の願いは叶わなかった。叶えてはいけなかった。
この男尊女卑の戦国の世では、女は意思を述べることさえ嫌がられた。女は政略結婚の道具でしかないのに、と。だから、義元はこれから生き残る、つまり他人に馬鹿にされずに、他の家臣達と対等な立場になり、だからといって危険人物とみなされない様にして生きていく。そのためには自分が女だという事は隠さなければいけなかった。
そうやって、ただただ時間は過ぎた。…………が、義元はとにかく暇だった。罪人である義元に娯楽など与えられるはずもなく、菜っ葉や玄米などの質素な食事を1日に二度くらいしか与えられなかった。だから、義元はとにかくやる事がなかった。
***
「あ、あの…」
そんな小さな呟く様な声を聞き、義元は目線を上に向ける。するとそこには、黒い前髪で左目を隠した背の高い女性が立っていた。恐らく義元と同年代だろう。だが、少し暗い印象を受けた。
「えっと…………あなたは…………?」
「あ、あなたは、い、今川義元さんは、女…ですよね?」
その声に義元はビクッとする。
「え、どうしてですか?」
「だって、あなたには口頭隆起がありません。しかも、あなたのその細くしなやかな腕。間違いないです。」
(え、ちょ、喉仏とかよりも、胸が膨らんでいるからって言ってよ………)
「そうですね。吾は女です。でも、そのことはどうか秘密にして欲しいです。で、それより、あなたは誰なんですか?」
「私は帰蝶と申します。」
帰蝶。彼女は後世では濃姫と呼ばれた信長の正室であり、「美濃の蝮」斎藤道三の娘である。
そんな高貴な人に苛ついていたことを義元は恥じた。だが、やはりこれだけは聞きたかった。
「き、帰蝶様でしたか。これは申し訳なかったです。でも、何故あなたは左目を隠しているんですか?」
すると、帰蝶はとても戸惑いをみせ、すぐに牢屋の前から逃げる様に去っていった。
(なんだろう………何か聞いちゃいけないことだったのかな………)
***
「治部大輔どの、殿がお呼びです。」
「やっと、雇って頂けるのですか?」
義元は、寝起きではっきり開かない両目をこすりながら笑顔で言った。
「そんな様なことだと思います。ではこちらへ。」
目の前にたたずむ信長を義元はいかにも嬉しそうな表情で見る。だが、信長はそんなこと気にもせずあっさりと言う。
「一連の戦が終わり、お主の処遇が決まった。」
「雇って頂けるので………」
「今度は美濃だ。そこで、お主は今夜までに策を考えるのだ。
その策が良いものであれば、私はそれを採用し、お主は。運の良いことに打ち首を免れる。だが、もし悪いものであれば、その場で切る。」
という信長の発言を聞き、義元はしばらくぽかんと口を開けたまま、表情はどんどん暗くなっていく。
「と、いうことはつまり、まだ雇っていただけないのですね。」
「その通りじゃ。」
「え、えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
義元のそんな嘆く声が部屋いっぱいに響き渡った。