傲慢は西洋でも日本でも戒めになるようです
今回は7つの大罪をテーマに徒然に書いてみようシリーズです。
キリスト教では傲慢 (pride) は七つの大罪の一つに数えられていますが、この大罪は実は旧約聖書の頃から言われています。旧約聖書はユダヤ教とキリスト教の正典で、この2つの宗教の違いはユダヤ教は旧約聖書のみが唯一の聖書であるところですね。
旧約聖書といえばアダムとイブの話(アダムは木の実を食べたことを自分は悪くないとイブのせいにして、イブは蛇のせいにするという人間の傲慢と罪のなすり合い)から始まり、人間の傲慢さの罪を多く書いています。ソドムとゴモラでは傲慢さゆえに天からの硫黄と火によって滅ぼされますし、バベルの塔では神に挑む塔を建てようとして言語をバラバラにされます。
前にも書きましたが、神様怒りすぎですよ……憤怒は罪なんでしょう?
まあ、気を取り直しまして、ここで注目すべき内容があります。実は、旧約聖書の『箴言』に「奢る者は久しからず」(Pride goes before a fall)という言葉があります。これは、自尊心(或いは虚栄心vanity)は、自分の能力に対する過信(それは、神の恩恵を理解する上でのさまたげとなる)を意味するのですが、どこかで聞いたことがありませんか?
「驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」
そうです。平家物語です。「驕る平家は久しからず」の諺の方が有名ですかね?
平家物語の内容としては、栄華を極めているものもいずれは滅びますよという話ではありますが、諺の方は「思い上がった振る舞いをする者は長く栄えることはない」ということで、戒めとなっております。
日本だから仏教というわけでもありません。仏教での驕りの戒めは3つといわれています。(原始仏典の内容です)
「若さのおごり」「健康のおごり」「生存のおごり」
これら3つに共通しているのは、いずれ「年を取る」「病気になる」「死んでしまう」のに、それを現時点で直面していないだけで、偉そうな事をいっても始まらないという感じの内容であり、今回の題材としている日本や西洋の「傲慢」とは異なります。
なので、私がここで凄いと感じたのは、旧約聖書と日本の古典文学が行き着いた先が同じであったということです。旧約聖書が紀元前4世紀頃と言われていますが、全く違う土地の全く違う時代において、行き着くところが同じだっとという事は素晴らしいと感じました。
では、傲慢とはどういうことなのでしょうか?
傲慢に基づく感情は2つの種類があると言われています。それは「自尊心」と「虚栄心」です。「自尊心」は自身の能力について自信がある事。「虚栄心」は自分を実質以上に見せようと意地をはることです。
少し話がずれますが、私はプライドを捨てています。その理由は簡単な話ですが、私よりも遥に優秀な人が沢山いるからです。例えば分かり易いのはスポーツです。いくら頑張っても才能という壁に阻まれます。こんなことを言ってしまうと才能がないなら努力しても無駄なのかと批判される方もいるかもしれません。
天才とは、1%のひらめきと99%の努力である。-トーマス・エジソン-
あえてこの言葉を上げさせていただきます。1%のひらめきを出せる才能も重要なのですが、残り99%の実施する努力ができることも才能になります。人によっては人生を賭けて一つの事を打ち込んでいる人がいます。それでも花が開かないこともありますので人生は難しいです。
自尊心に戻るのですが、人間はやってきた努力は関係なく才能の結果に対して妬みを持ってしまうものです。成功をした人からすれば、努力してきたのですからある程度は褒めて欲しいというのが心情だと思います。これはマズローの承認要求になりますね。ただ、頑張ってきた事が理解されないなら妬みを持たれてしまう場合もあります。もちろん一部の方の中には努力をしてこなかったと言う人もいるかもしれません。でも大半の方は試行錯誤をしている場合が多いです。ただ、その事を苦労だと感じるかは別の話になります。そういう苦労を感じない人は羨ましいですね。
また、私自身の話に戻って申し訳ありませんが、実は才能が溢れている方が潰されていくのも見てきました。人によっては、それを助けなかった私が悪と思われる方もいるかもしれません。ただ、助けるにも力(影響力)が必要となります。残念ながら、このことは現在の社会の構図であることを理解して頂きたいです。
悲しい話はさておき、自尊心は理解されにくいものなので、上手くコントロールをして頂きたいというのが私の本音です。せっかくある才能なのですので、それを理解してくれる仲間や上司とお付き合いをして頂きたいと感じています。決して傲慢にならず、自分の行った成果を理解して頂ける方に気持ちよく話すのがいいと思います。理解をされている方は、そういう自尊心を含めて相手をしてくれます。
次に虚栄心の話ですが、虚栄心といっても別に見せかけているという話だけではありません。例えばある集団の中でその人だけが知っているような事があるとします。それは当然周りは知らない事なので尊敬されることもあります。ただ、周りが知らないだけで知っている人の集団では普通であったりする場合があります。これがとても危険な状況の場合が多いです。
ビジネス社会において自身のアイデンティティを設ける場合が多いのですが、情報を遮断して自分の地位を確立する人がいます。インターネットの社会なので情報はオープンだと思われる方が多いかもしれませんが、意外と自分で調べるようなことは少なく、有識者という考え方がビジネスには蔓延っています。それを利用して虚栄心を満たす人が多くいるのが実態です。
自身を偉大に見せる……ある意味必要な事だと思います。ただクローズな状況で虚栄心を持っても将来的には意味がありませんので、できるだけオープンな状況で勝負して頂きたいです。それである程度まで行けば自慢していいのではないでしょうか? もちろんトップを走っている人に比べれば劣るかもしれません。しかし、トップの人数はたかが知れていますので、少しでも優位であれば、それをリスペクトしてくれる方はいます。虚栄をする必要はなく、ありのままを理解して頂くことが重要だと思います。
傲慢を見てまいりました。結論としては傲慢自体は自分が意識をしてなくても付与されることがあるものなので、本人自身が謙虚の心を持ち合わせる事が重要ではないかと感じております。また、プライドも高慢と表現されることもあります。上手く付き合うことが一番なのだと私は思います。
小説でいえば俺様系の主人公は高慢ですよね。傲慢というと厳しいですが、プライドが高いという題材は面白いと思います。自信を持っている人は輝いて見えます。ただ、それが変な方向になると鼻についてしまいますね。イケメンの「壁ドン」「顎クイ」が好きな方もいらっしゃいますから、やっぱり程度の問題ではないかと感じます。




